2008年2月23日土曜日

56.奈良・神功皇后陵と闇汁会 

「アカシア紀行・俳句」2008年2月22日(金)


 2月の暖かい日、妻、妻の友人、義兄姉らと奈良・押熊王子旧跡、
常光寺などをを訪ねたあと、押熊王子らの敵でもあった神功皇后
(と宮内庁により指定・管理されている)の御陵を訪ね参拝しました。
神功皇后陵は、奈良市北部の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群のひとつで、
押熊の南東約2キロにある、大きな全長275メートルもある前方後円墳です。
近鉄京都線の平城駅の北約500メートル位のところにり、佐紀盾列池上陵、
五社神古墳とも言うそうです。
今日は偶然、日本考古学協会が宮内庁から初めて認められた立入調査の日でした。
12時すぎに皇后陵の参拝所にいくと、20人以上のマスメデイア関係の人らが
集まり、調査団の到着を待っていました。
12時40分ころ、調査団の人たち10人位が到着したらすぐに、右翼らしい3人が
日の丸の旗を持って、立ち入り調査反対と声を上げ、調査団長に会わせろなどと
騒ぎましたが、そのうち、調査反対の声を上げながら参拝所を立ち去りました。
その後、団長らしき人が代表で、杉葉の桶の上で両手をすすぎ清めて、参拝所の
白砂の上の茣蓙で参拝したあと、宮内庁の担当者と調査団が、前方墓の
左側から、御陵にはいりました。
翌朝23日の朝日新聞によると、調査団は西谷正(九州大名誉教授、考古学
協会長)ら16人で、宮内庁との窓口は、高橋浩二富山大準教授だったそうです。
御陵の周辺部を1キロ歩いただけで、堀に外側の埴輪群を発見し、前方部は今より
大きかったようだとのことで、さすが専門家はちがうと感心しました。
今回発掘は許可されなかったとのことです。

 我々は調査に参加できないので、調査開始後、私の自宅にあつまり、
闇汁会のあと、句会を楽しみました。
闇汁会は各自が鍋料理の材料を秘密のまま持ち寄り、部屋を真っ暗にして
鍋に材料を入れて食べる食事会で、誰が入れたのか、バナナや食べられない
バランや紙が入っていました。昔はわらじを入れたりしたらしいです。
ほぼ食べ終わって明かりをつけたら、自分が味わっていない物もあったので
食べ直しました。



         皇后陵調査始まる木の芽晴      常朝

         闇鍋の外は青空鳥声も         常朝

        (註:闇汁の明かりをつけて食べなほす  は
         運河同人勝井良雄氏の 既発表の御句
         闇汁会電気をつけて食ひ直す
         の類想句だったので削除しました。2008年3月2日) 


        (神功皇后陵)

        (神功皇后陵調査団)

55.奈良・押熊王子旧跡から、押熊観音、常光寺

「アカシア紀行・俳句」2008年2月22日(金)


 2月にしては暖かい日、妻、妻の友人、義兄姉らと奈良・押熊王子旧跡を訪ねました。
この旧跡は、奈良市・西大寺の北約3キロの押熊地区内のミドリ電化の西約500
メートル、押熊八幡社の北東約100メートルくらいの低い丘の上にあります。
押熊地区は昔は農村地帯でしたが今は奈良市の外環状道路「ならやま通り」
にある大きなショッピングセンター街になっており、その交差点の南西側に旧道と
住宅地があって、古くからの神社やお寺が残っています。
我々が10時半ころ着くと、農家の主婦がひとり、旧跡のすぐ下(南側)の畑で
ジャガイモを植えたりしていました。

押熊王子旧跡は、正しくは、忍熊王子・麛坂(カゴサカ)王子旧跡です。
案内板には、日本書紀の仲哀天皇の時代の話が書かれています。
それによると、忍熊王子と麛坂王子は、仲哀天皇と大中姫のお子達でしたが、
仲哀天皇がなくなったあと、その皇后であった神功皇后との間にできた
のちの応神天皇との後継争いの戦争で、兄の麛坂王子は今の大阪市北区で、
弟の忍熊王子は琵琶湖の瀬田の渡しでなくなったとのことです。
戦いは、神功皇后が新羅遠征後、九州で生まれた皇子、応神天皇を擁した皇后軍
と、迎え撃つ両王子軍との間で、今の大阪や山城地域であって両皇子の死で
終ったようです。
土地の人々はこの伝承(?)を大切に、皇子の墓としてこの地を守り、
今でも毎年4月18日はお祭をして農作業を休むそうです。
旧跡はコンクリートブロックの壁と、うっそうとした木々に囲まれた小さい丘に
小さい石の祠があり、そこに2枚の石の板がはめられており、
その左に小さい五輪の塔(実は4層)があるだけで正規のお墓ではないようです。
反乱軍とされた王子は皇子でありながら当然大きな墓は作られなかったの
でしょう。
左側からは竹薮が押し寄せており、土手には青草がありました。
南側に大きな、周囲2.6メートル、樹齢2、300年と思われる山桜の古木があり
幹には苔がびっしりでした。
畑に根が伸びているので、畑の北側は土手のままにしているとのことでした。
そのうち、主婦のお孫さんの2才位の、かわいい女の子が母親と畑にきて、
畑に水をやろうとしたり、あちこち歩き回りました。
主婦らと話をして帰るとき猫車に置いてあった大きな大根を数本いただきました。

 その後、近くの願心寺という押熊観音、さらに右奥の常光寺を訪れました。
押熊観音は高さ3メートル以上の金ぴかの観音像で境内も狭く、私には俳句は
できませんでした。
常光寺は広い境内をもつ立派な寺ですが、明治時代の廃仏稀釈運動で一旦廃寺
となり、私学校(小学校)となったあと、再建されたので今も本堂は民家と
同じような仮堂です。
参道の右は寺庭で伸び放題の梅の木が10本位あり、2、3本は白い花をつけていました。
梅の影が草原に落ちていましたが、弱い日差のためか、枝先の影は草に紛れて
消えていました。虫害でしょうか、花をつけた枇杷の木が2本倒れていました。
由緒書きなどをいただこうと声をかけましたが、お寺は留守でした。

参道脇には三椏(みつまた)の木が2本、まだ白い花をつけており、
蜜柑の木が一本沢山実をつけていました。
多分小鳥の餌に、その蜜柑の実を半分に切って、あちこちの木々の枝に挿してありました。


         山桜の苔に日当たる雨水かな   常朝

         半分は竹薮なれど山芽吹く    常朝

         枝の影草に紛れて梅白し     常朝


        (忍熊王子・麛坂王子旧跡)

        (常光寺の池)

2008年2月16日土曜日

54.奈良・龍田大社から、武烈天皇陵、志都美神社

「アカシア紀行・俳句」2008年2月15日(金)


 2月の晴れて風の寒い日、妻、義兄姉らと奈良・龍田大社にお参りしました。
龍田大社は風の神を祀る神社で、毎年7月第一日曜の風鎮祭(ふうちんさい)の
手筒花火などで有名で、JR大和路線・三郷駅の北約500メートルほどにあります。
境内は広くて、拝殿の奥には本殿、摂社、末社が6、7棟もあり、
右手に緑の屋根の祈祷参集殿、左手には、白竜神社、恵比寿神社、稲荷神社
などがあります。
境内のあちこちに3月の厄除まいりの幟旗が立って、拝殿の前には
1週間ほど前に降った雪の塊が高さ50センチ位で残っていました。
また、拝殿前左には、祈祷殿の去年の大きな注連縄がとぐろを巻くように
置かれていました。
白竜神社の竜神に水を掛け、境内を巡ったあと、神様が降臨されたという
龍田山の御座峰の場所を社務所の女性にお聞きしましたが、
そこは神社から離れた飛び地にあり、現在の三室山の西、
雁多尾畑(かりんどばた)の東にあり、風鎮祭の翌日神官がお祭を
するとのことでした。
本殿そばには俳句の秋の季語の「龍田姫」もお祀りしてあるようですが、
拝殿奥に進むことはできませんでした。

 その後、香芝市今泉の武烈天皇陵を訪ねました。
御陵はJR和歌山線の志都美(しずみ)駅の西約500メートルほどの
香芝市今泉地区にあります。
武烈天皇は、日本書紀には雄略天皇の4代あとの暴逆な天皇と描かれて
いますが、御陵はちょっとした山のような立派な御陵で、衛士小屋の
再築工事中でした。
我々は、御陵の右手から御陵の周囲の細い道を一周しました。
道には犬ふぐりや日本たんぽぽの花が咲いており、御陵は間伐されていました。
ほぼ半周したら広い道に出てさらに進むと、御陵東側の志都美(しずみ)神社に
着きました。

 志都美神社は、聖徳太子が飢えた人に食べ物を与えられたという、
ここ片岡の地にある古い神社で、鳥居からの参道も長く、木々はうっそうと
しています。藤原氏の遠祖で、天照大神を岩戸からお招きしたという
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)ほか数神をお祀りしているとあります。
拝殿も絵馬堂も古いのですが、氏子の人々が大切に守っているのでしょう。
絵馬堂の中に掃除道具などが積まれてやや物置の感がありましたが。
神社の森、社叢(しゃそう)には周囲2メートル以上のコジイの木などが
あり県の天然記念物らしいですが、木には近づくことはできません。
コレラが流行った明治12年、祈願して死者が一人も出なかったという
神徳を記した記念碑が本殿裏の石垣にありました。
道路脇の石燈籠のそばに三椏(みつまた)の花が咲いていました。



         下ろされし注連とぐろ巻く春社   常朝

         間伐をされし陵草萌ゆる      常朝

         絵馬堂の南京錠に余寒風      常朝


        (龍田大社)

        (武烈天皇陵)

        (志都美神社)

        (志都美神社・コレラの碑)

2008年2月8日金曜日

53.奈良・三輪大社のおんだ祭と桧原神社

「アカシア紀行・俳句」2008年2月6日(水)


 2月の初旬、妻、義兄姉らと奈良・桜井市の三輪大社のおんだ祭に行きました。
おんだ祭とは御田祭、お田植祭ともいい、豊作を願うお田植え神事で、
各地の神社で行われますが、三輪大社のおんだ祭は、拝殿で行われます。
我々が拝殿の庭に着いた10時半ころ、神官7人が白い狩衣と青い袴姿で
石段を登り、拝殿に入りました。
まもなく、祝詞奏上、お祓いのあと、お田植神事がはじまりました。
最初作男(神官のひとり)が、竹で田の土をならして鍬で畦ならしの仕草を
します。鋤の柄の下の方に紙が貼ってあり、それを男がめくると「わらえよ」と
書いてあり、皆が大笑いしました。おんだ祭は、笑うほど豊年だそうです。
そのあと、休もうといって拝殿の縁に座り、薬缶を取り出して水を飲んだりします。
薬缶の蓋の裏側を我々に見せると、そこにも「わらえよ」と書いてあり
また大笑いです。
縁のすぐ下の参拝者にみかんを分けたりしたあと、籾撒きをします。
その後、赤いたすきをした巫女が二人、杉の葉の「早苗」を拝殿に
植えたりする田植舞をしておんだ祭が終わり、小さな袋に入った籾を
沢山、参拝者に撒きました。
我々も1つ、2つ拾うことができ、今年の福をもらった気がしました。

 参道そばの森正で昼食後、三輪の恵比寿神社にお参りしました。
恵比寿神社はJR三輪駅の南西へ約200メートルほどのところにあります。
5日から7日まで初戎で、初市もあり屋台などが多く出ていました。
その植木市で苗木などを買ったあと、山の辺の道の桧原神社にいきました。
桧原神社は崇神天皇の頃、皇居にお祀りしていた天照大神を、皇女・豊鋤入姫が
斎宮として、この地(笠縫)に移し、のちに伊勢に移されたということから、
元伊勢とも言われる古い神社で、今は三輪大社の分社とのことです。
この地は山の辺の道の途中で三輪山の中腹にあり、西に大和盆地を一望でき、
二上山も見えます。境内の松の根元で竜の玉(竜のひげという草の青い実)を
探したり、近くの柿畑の剪定を見たりして帰りました。



        田植舞きりりと巫女の赤たすき        常朝

        山の辺の斎庭(ゆにわ)に澄めり竜の玉    常朝

       
       (三輪大社のおんだ祭:薬缶の蓋にわらえよとあります)

       (三輪大社のおんだ祭:巫女の田植舞い)

       (桧原神社の三つ鳥居) 

2008年2月5日火曜日

52.大阪・道明寺の初天神・鷽替え神事

「アカシア紀行・俳句」2008年1月25日(金)


 正月の初天神の日、義兄姉らと大阪府・藤井寺市の道明寺天満宮の
初天神に行きました。
道明寺天満宮は西名阪高速道路の藤井寺ICを下りて東の、土師ノ里の
交差点の南にあります。
ここは昔土師氏の土地で、土師神社と土師寺があり、その寺に道真公の
おばの覚寿尼公がおられ、大宰府左遷の際立ち寄られた縁などから、
土師寺が道明寺となり、天満宮が祀られたとのことです。
明治時代の神仏分離令で道明寺は西に移され、尼寺となったようです。
我々が10時半ころ天満宮に着くと、すでに数十人の人達が、
梅の庭園の奥の赤い鳥居の前に並んでいました。
庭の梅も何本かは白や紅の花をつけていました。

 11時から鷽(うそ)替え神事が始まり、縄の張り巡らされた本殿前の庭に
順番に入り、一人ひとりに10X15センチ位の紙袋が渡されました。
この袋に小さな木製の鷽の人形がはいっており、底に印があると
後で大きな金あるいは銀の鷽に替えてもらえるそうです。
「かえましょう」「かえましょう」の神官の声に合わせて、互いに袋を交換しました。
なんとなく気恥ずかしいので鷽を交換するときは、皆笑顔になっていました。
何十人かの人と交換後、笑顔に疲れて群集を離れて義兄と休みました。
太鼓の音で鷽替え神事は終わり、袋の鷽を見ましたが、高さ5センチ位の
かわいい鷽でしたが印はなくはずれ(?)でした。
その後、境内の盆梅展、骨董市などを見て、大和川北のシャロンで昼食後、
石川河川公園の鴨などを見て帰りました。



        鷽替の笑顔に疲れ休みけり     常朝

        和綴じ図書茣蓙に売りをり初天神   常朝

       
       (初天神・鷽替え神事)

       (初天神・骨董市) 
  

51.奈良・正暦寺から弘仁寺

「アカシア紀行・俳句」2008年1月8日(火)


 正月、妻、義兄姉らと奈良・新薬師寺の初薬師に行ったあと、
正暦寺を訪ねました。
正暦寺は奈良市の南の菩提山町にある紅葉で有名な寺です。
平安時代正暦3年(992)に建立されたのでこの名になったのでしょう。
ここは室町時代清酒発祥の寺でしたが、最近500年ぶりに寺山で
こうじ菌が見つけられ、昔の醸造法がこの寺で復活しました。
我々はまず菩提山川の東側の福寿院(客殿)に入り、
大原住職のご案内で、孔雀明王や襖絵、お庭を拝見したあと
酒造に関連してこうじ菌発見の話などをお聞きしました。
山中で木の葉などから菌を採取したそうです。
今は、600リットルくらいの酒をお寺で醸造し、協力の11社の
酒造会社に分けて清酒にしてもらっているそうです。
福寿院から谷道を登り本堂にいくと、まだ戸が閉められていましたが、
我々の声で、尼僧が戸を開けて下さり、本堂に案内してくれました。
本堂には、薬師如来や不動明王が安置されており、尼僧から境内に
入ってくる猪対策の話などをお聞きしました。
そういえば本堂境内は電柵(電線の柵)が張り巡らされていました。
谷を下りる途中酒造用の大きな酒樽などを拝見して寺を辞しました。

 そのあと近くの虚空蔵山にある弘仁寺を訪ねました。
弘仁寺は、弘仁5年(814)、空海が創建したと伝えられる真言宗の寺で、
十三詣り(元服の祝)で知られています。
正月の寒い日なので参拝者はほかには2、3人しかおらず、静かな雰囲気で
鳥の声だけが聞こえました。
本堂には虚空蔵菩薩が安置され、本堂右には明星堂があります。
本堂の軒には、算額が2つ掛けられていました。
算額は江戸時代和算で何かの算術の問題が解けたとき、これを祝って
寺社に奉納した額で、写真は石田算楽軒の算額です。
日差を受けた堂の縁側が映って内容は読めませんでした。
読めたとしても理解できないでしょうが。
帰り道、門の外の道には白い枇杷の花が咲いていました。



        酒発祥の寺の谷路の叔気かな    常朝

        算額に映る堂縁日脚伸ぶ       常朝

        虚空蔵山辞するとき見し枇杷の花   常朝

       
       (正暦寺の本堂)

       (弘仁寺の算額) 

 

50.奈良・新薬師寺の初薬師

「アカシア紀行・俳句」2008年1月8日(火)


 正月、妻、義兄姉らと奈良・新薬師寺の初薬師に行きました。
新薬師寺は、春日大社の南600メートル程にあり、バスでは
破石町(わりいしちょう)バス停から東へ徒歩10分ほどの、
ところにあり、国宝の薬師如来、十二神将などで有名な寺です。
すこし離れて西隣には奈良市写真美術館があります。
南門を入ると、広い庭の左右に山茶花が咲き、低い屋根の本堂が
どっしりと木々に囲まれて美しいたたづまいでした。
また本堂前には2本の幡(ばん:細長い旗)が建てられて、
その柱(幡柱)の頂上には青い龍が庭を向いています。
この日は、初薬師ということで、本堂に入ると、二人の寺僧が
法要の準備で燭台などを立てていました。
本尊の前に写経台があり、若い女性がオーバーを膝に置いて
写経していました。本尊にお参りしたあと、有名な
伐折羅(ばさら)大将などを拝見後、境内を散策して
地蔵堂などを拝見しました。
早くも庭の蝋梅が咲いていましたが風のすぎたあと、
ゆっくり揺れていました。
我々は午後の法要には参列せず、高畑町の「吟松」で昼食後、
さらに南の山中にある正暦寺を訪ねました。



        幡柱の竜の青さよ初薬師      常朝

        蝋梅の風過ぎてのち揺れゐたる   常朝

       
       (新薬師寺)

2008年2月4日月曜日

49.京都・宇治田原の茶祖明神から柿屋

「アカシア紀行・俳句」2007年12月20日(木)


 師走も押しせまった寒い日、妻、妻の友人、義兄姉らと京都・宇治田原を
訪ねました。目的は煎茶の始祖を祀る茶祖明神を参拝し柿屋を見ることと、
ついでにそこで作られる古老柿(ころがき)を買うことです。
茶祖明神は、江戸時代現在の緑色の煎茶の製造法を確立し、江戸で発売した
地元出身の永谷宗円を祀る神社で、宇治田原町役場の東約4キロの
国道307号線沿いの宇治田原郵便局のさらに南東2キロほどの谷道の
奥にあります。
もともとここは村の鎮守のような比較的小さい神社(大神宮神社)ですが、
昭和になって永谷宗円が茶祖の神として祀られたようです。
神社のそばに生家の跡があり、そこには製茶道具やほいろ跡を保存する施設
として永谷宗円生家が建てられています。4方の軒には大きな茶壷が置かれて、
茶の花が咲いていました。
庭には、屋敷神が祀られ、柚子と橘などが供えてありました。
そのあと、宇治田原の国道に戻り、柿屋を見学しに行きました。
最初は国道から町立図書館へ行く橋の北側の柿屋を訪ね、古老柿を買ったあと
見物させてもらいました。そこは農家の主人1人が働いており、まもなく柿屋を
たたむと言っていました。
柿屋は大きな刈田の半分位の場所に、巾10メートルほど、高さ6~8メートル
ほどに長い丸木で組み立てられており、あとは穭田(ひつじだ)といわれる、
残る稲株から少し伸びた稲葉がまだ緑色をしている田でした。
そのあと、郷の口の交差点を南下して、橋のところで大きな柿屋への道を聞くと、
農家の主婦らしい人が自転車で案内してくれました。
その柿屋では5,6人の人が忙しく働いており、少し離れた農家の自宅へも
案内してくれました。偶然その家は「古老柿作りの名人」と宇治田原町の
ホームページで紹介されている森口半治さんのお宅だったので、
名人の古老柿を買うことができました。




        柚橘供ふ茶の祖の屋敷神     常朝

        穭田を半分刈りて柿屋組む    常朝

       
       (宇治田原の茶祖生家)

       (宇治田原の柿屋:2004年12月14日撮影しました)

48.奈良・おん祭の還幸の儀

「アカシア紀行・俳句」2007年12月17日(月)


 師走の寒い夜、懐中電灯を持って、妻、妻の友人、義兄姉らと奈良・おん祭の
還幸の儀に参列しました。
おん祭は春日大社の摂社である若宮のお祭で、平安時代関白藤原忠道公が
疫病退散などを祈願して始めて以来870年以上続く、奈良の代表的な祭です。
おもな行事は12月15日午後の大宿所詣(おおしゅくしょもうで)から、
18日午後の後宴能(ごえんののう)までですが、クライマックスが例年17日の
神様の行列です。
この日は未明から深夜までの24時間、若宮が神殿から出られて、各時代の行列や
お旅所での奉納のさまざまな芸能を楽しまれて帰られるまで祀ります。
お旅所での芸能は、おん祭の行列が終った夕方4時から夜12時直前まで、
神楽、田楽、猿楽、舞楽、舞などが次々と奉納されますが、すべてを拝見した
ことはありません。
今回は、夜10時半頃お旅所で集合して、舞楽などを拝見後、神様が神殿に
帰られる還幸(かんこう)の儀に参列しました。
お旅所は縄で囲まれた約30メートル四方くらいの広場で、春日大社参道の
一の鳥居から東へ数十メートル入ったところの左側にあります。
そこに約9メートル四方の舞台がしつらえられて、舞楽などが奉納されます。
夜11時半ころ最後の舞が終ると、ただちに大勢の神官がお供え物などを
下げたあと、神様を大勢で囲んでお旅所から参道へお連れしました。
そのとき、神官達がなんとも言えない「ウオーウオー」といった声をだします。
松明さえ消して真っ暗な参道を、神様が大勢に囲まれて去っていきました。
大勢の人達が神様の後を追うように、砂利音だけの参道を神社に向かって
歩き始めましたが、我々はそこでお見送りしました。
参道の竹垣には夜露が降りており、空を見上げるとオリオン座など冬の星座が
輝いていました。



        神還る声おうおうと星冴えて     常朝

        竹垣に夜露ありたるおん祭      常朝

       
       (奈良・おん祭行列1:これは2003年撮影しました)

       (奈良・おん祭行列2:これは2003年撮影しました)

       (奈良・おん祭のお旅所)
    

47.奈良・石光寺から笠堂、叡福寺

「アカシア紀行・俳句」2007年12月10日(月)


 師走の少し寒いけれど天気の良い日、義兄姉らと奈良・石光寺を訪ねました。
石光寺(せっこうじ)は中将姫と牡丹の庭園で有名な寺で、
奈良の二上山の東のふもと、葛城市染野(国道165号線沿い)にあります。
中将姫は藤原鎌足の曾孫豊成の娘で15歳で中将の位を得た才媛でしたが、
継母に殺されそうになり、奈良・菟田野の日張山の中腹にある青蓮寺に
かくまわれていましたが、狩に来た父に発見され、のちに当麻寺で尼僧となり、
蓮の糸で曼荼羅(当麻曼荼羅)を織りあげたという伝説があり、その糸を
染めたのが石光寺の井戸だそうで、井戸のそばに中将姫の像があります。
我々が10時半ころ寺の庭に入ると10人位の人が、広い庭園に散らばって、
藁苞(わらづと)に覆われた寒牡丹の花を眺めたり、散策していました。
我々も寒牡丹を眺めたり、庭の山茶花などを拝見しました。
寺の閉じられた裏門の前には新しい藁苞と支柱の竹が積まれていました。
牡丹を覆う藁苞の中まで良い日差が入って、時々ひよどりの声がしました。

 その後、近くの笠堂にいき、近くの古墳や池を散策しました。
笠堂は、石光寺から南西約600メートルほどですが、
一旦国道165号線に出て、南へ2つ目の信号を右折して1キロほど
西へ行ったところの小高い丘にあります。
昔阿弥陀仏を祀っていたという台のようなものが笠堂の天井にあります。
池のほとりからは二上山がとても近くに見え、紅葉がすっぽり包んだだけでなく、
ふもとの低い丘までも紅葉でした。

 そのあとモンチッチ(元 ポンキッキ)という変な名の、野菜サラダのおいしい
レストランで昼食後、竹之内峠を越えて、大阪府太子町の叡福寺(えいふくじ)・
聖徳太子御廟をお参りしました。
仁王様の立つ南大門を越えると境内は予想外に広く、金堂や多宝塔など、
多くのお堂があり、奥の御廟は3重の屋根のある立派な建物でした。
庭で松の手入れをしている人がそばの三鈷の松の木を教えてくれました。
三鈷の松とは、2本づつある普通の松葉葉と違い、葉が3本づつある松の
ことをいうそうで、その立派な松の木はすべて葉が3本でした。
このような松を見たのは生まれて初めてです。
五葉の松を手入れしていたその人は、鋏を使わず、手で松をなでて、
枯葉を落としていました。



        裏門は藁苞置場寒牡丹      常朝

        二上山包みて余る冬紅葉     常朝

        撫でて葉を落す五葉の松手入   常朝

       (石光寺の寒牡丹)

       (叡福寺の聖徳太子御廟)


       

2008年2月3日日曜日

46.長岡京市・光明寺から長岡京跡・乙訓寺

「アカシア紀行・俳句」2007年11月5日(月)


 11月紅葉の頃、妻、義兄姉らと京都・長岡京市の光明寺を訪ねました。
光明寺は、浄土宗の祖、法然上人が最初に念仏を唱えられ、のちに平家物語に
有名な熊谷次郎直実が建てたお寺で、東海道本線長岡京駅から北西約5キロ、
京都西山のふもと粟生野(あおの)広谷にあります。
写真の総門をくぐり、広い階段を登ると御影堂(本堂)があり、右横に上人の
石棺がありました。そして境内いたるところ紅葉でした。
左奥の御本廟の石段下にいると、鐘が鳴り、大勢の女子高校生が廊下を渡って、
本堂にゆっくり入っていきました。たまたまこの日は京都西山高校の
授戒会(仏弟子となる儀式)の日だったのです。
全員が合掌しながら本堂へ入る姿に、日本の若い人達もまだまだ宗教的な心を
持ってくれるのだと感心し安心しました。
そのあと、石段下の菊花展をみて、お寺を辞し、長岡京跡で大極殿跡などを
見たあと、乙訓寺を訪ねました。
京跡は今はほとんど草地で秋草がぼうぼうと生えていました。
乙訓寺は平安の昔、桓武天皇の皇子早良親王が幽閉された寺です。
境内には橘の木があり金色の実がたわわに鈴なりになっていました。
最初山門とはわからなかった門には桜の返り花が咲いていました。



        授戒会の娘等の合掌紅葉照る     常朝

        史跡碑の高々とある花野かな     常朝

        親王の幽閉の寺返り花        常朝


       (光明寺の総門)


       (長岡京跡)

       (乙訓寺の橘)