2008年11月16日日曜日

76.奈良・法徳寺のお十夜

「アカシア紀行・俳句」2008年11月15日(土)

 天気予報に反し雨にならなかった夜、いつものメンバー5人で
奈良・奈良町にある法徳寺(融通念仏宗)のお十夜に招かれ参列しました。
お十夜は浄土宗の11月の法要ですが、このお寺のお十夜も昔から続いており、
薬師寺の高田好胤管長時代から管長や長老の講話をいただいている
とのことです。
本来十日間の法要ですが今は一晩だけの法要になっているようです。

 法徳寺は、奈良町の十輪院の西隣の寺で、元興寺の別院「多聞院」が、
江戸時代初期に融通念仏宗の寺院として再興されたようです。
本堂、観音堂、毘沙門堂などから成り、本堂にご本尊の阿弥陀如来立像と、
箱入り十一尊天得如来画像を祀られています。
最初気がつかなかったのですが、道に面して毘沙門堂が西隣にあり、
その毘沙門天立像は、元興寺伽藍の鬼門の護持のためとのことです。

 法要はお寺の四隅をそれぞれの方向の四天王で守られた本堂で、
住職と薬師寺の僧6~7人の読経で始まりました。
最初正面に十一尊如来画像の掛軸が箱から出され正面に掛けられました。
参列者は、約100人でお年寄りからお寺の坊やまでさまざまの年齢の
人がいました。
中には子犬の模様のジャンパーを着た高齢のご婦人や白髪の老人も
いました。お寺の坊やは、3~4才でしょうか、小さな袈裟を着て
大きな数珠を持たされ、母親らしき人が座蒲団に座らせていましたが、
途中から飽きてきたのか廊下に出てしまいました。

 お経は無量寿経でしょうか、拍子木や鉦のリズムでなかなか
迫力がありました。
法要は30分くらいでしたが、そのあと7時頃から薬師寺の松久保長老に
よる講話がありました。

 今回のテーマは、「諸法実相・・」で難しい内容ですが、
小豆島の洞雲山坂手観音寺の岩山に夏の間の午後3時から5分だけ
日光で現れる観音像の話など、要は信心の有無が観音様や阿弥陀様の
救いの有無に現れるということのようでした。
 講話のあと、十一尊如来画像の巻物の箱でひとり一人背中を叩く、
加持祈祷がされました。

 その後別室で小豆のお粥とお漬物の接待を受けました。
お漬物の塩加減が最高でお粥もなかなかの味でした。
お十夜は初めてで貴重な体験でした。

         ジャンパーは子犬の模様十夜婆    常朝     
          
         美しき白髪羨し十夜爺          常朝

         拍子木に調子づきたる十夜寺     常朝   

        (法徳寺・奈良観光ホームページより)

75.長屋王墓・吉備内親王墓・白山神社から竹林寺

「アカシア紀行・俳句」2008年11月14日(金)

 小春日和のあたたかい日、10月初以来のメンバー3人で奈良の平群を
訪ねました。

 まず近鉄生駒線平群駅の北400メートルくらいにある、長屋王のお墓を
参拝しました。長屋王は天武天皇の高市皇子のお子で、奈良時代左大臣の
とき讒言にあってその妃吉備内親王とお子と共に自殺に追い込まれました。
この長屋王の変は藤原氏の陰謀といわれています。
1988年、奈良市二条大路の当時のそごう百貨店建設の際、その邸宅跡に
大量の木簡が発見されて有名になりました。

 我々が着いたときは、一人のお年寄りがお墓の玉砂利の掃除をしていて、
丁寧に団栗を拾って箕の中に入れていたので少し団栗拾いを手伝いました。
お墓は、径15メートルの円墳ですが周囲は鉄柵で囲まれ、丁寧に守られて
います。
柵内の樫の木などに烏瓜が巻き付き、小さな赤い実が沢山ぶら下がって
いました。

 そのあと平群中学校の西の白山神社を訪ねました。
神社は棚田の奥にありますが、平安時代の高僧「道詮律師」が建てた
富貴(ふき)寺(廃寺)の神宮寺で、拝殿の左に弥勒堂があります。
本堂の上の山中には道詮律師の墓があり、十一重の石塔があります。
裏の参道を登ると、菊畑が開けており、十月桜が咲いていました。
のち、村の坂を登り、60坊あったといわれる富貴寺の中の一つの坊跡に
いきました。大きな槙の樹の下の小さなお堂の藁葺きはトタンで覆われ、
窓は破れていましたが、山茶花が咲いていました。
神社下の駐車場へ戻る途中の小さな池に布袋葵が浮かんでおり、
その葉や茎の上を「かまきり」が水に漬かりながら動いていました。

 平群東小学校の北側の「たらふく」で昼食後、
吉備内親王墓を参拝しました。
なぜか長屋王のお墓より少し大きく奥行きがあります。
階段下には無人ですが衛士小屋があります。
以前お参りしたときはつつじの帰り花が咲いていましたが、
今は高い樫の木などを蝶が一匹飛んでいるだけでした。

 さらに第二阪奈道路沿いの竹林寺にある行基のお墓を参拝しました。
168号道路からは有里交差点の信号から約500メートル北西へ登ります。
行基は大仏建立にも貢献した奈良時代の高僧ですが、のちにこの地に
竹林寺を建てて住んだとのこと。
お墓は低い方墳でぎっしり生えた熊笹の周囲だけが刈られており、
その跡に小さな草紅葉が見えました。
左の竹林寺の本堂は巾6~7メートルの比較的小さく新しい建物です。
境内の裏庭には小さな蓮池と神変大菩薩(役の行者)のお堂があり、
左の広場の奥に鎌倉時代の高僧忍性の墓がありました。


         小春日に眠る如くに親王墓      常朝     
          
         走り根の律師の墓へ冬来たる     常朝

         内親王墓の高みに秋の蝶       常朝   

        (長屋王の墓・写真はすべてクリックで拡大)

        (富貴寺の坊の跡)

        (吉備内親王の墓)

        (行基の墓)

2008年11月10日月曜日

74.仏隆寺・鹿火屋・千本杉から大野寺・琴引峠

「アカシア紀行・俳句」2008年11月9日(日)

 立冬すぎた雨もようの日、常のメンバー6人で奈良・宇陀市高井の仏隆寺を
はじめ宇陀路を訪ねました。
仏隆寺は、いただいた縁起によると平安時代(850年)、弘法大師(空海)
の高弟堅恵(けんね)により創建された真言宗のお寺です。
場所は近鉄大阪線・榛原駅経由、バス停留所・高井から徒歩約30分の
山の中腹にあります。
我々は車で、榛原駅南の369号線を東南へ約4キロの高井・バス停から左へ
それて狭い道を2キロほど上りました。

 仏隆寺は春は桜の巨樹、秋は彼岸花で有名ですが
我々が訪ねた日は雨がぱらつく深秋のさみしい日でした。

 下の地蔵堂の萱葺き屋根から雨しずくが落ち、谷清水はかなり急流でした。
そこから長い登りの石段の脇には山桜の巨樹が黄葉で、茶の花、リンドウ、
キリンソウ、釣鐘人参などと、本堂右には貴船菊が咲いていました。
 
 上の本堂では、本尊の十一面観音、右の玉眼の弘法大師像、左の堅恵像に
お参りし、唐の得宗から拝受し大和茶発祥のもととなったともいわれる、
寺宝の茶臼を拝見、手で回させてもらいました。
本堂右の堅恵上人の石室は、平成10年の台風7号で倒れた5本の大杉の下に
なっても壊れなかったそうです。

 その後、仏隆寺から坂道を降りて約1キロ位の谷の右側にある
鹿火屋(かびや:鹿・猪などを追うための農小屋)を訪ねました。
たまたま小屋は留守でしたが、焼帛(やきしめ:煙で猪などを追うもの)
や竹製の添水(そうず)などを拝見しました。
杉山と棚田の境には長い猪垣がありました。

 さらに500メートルほど降りた所を左に上る旧伊勢本道の500メートル
ほどにある旅籠跡の松本家と千本杉、千井戸を訪ねました。
千本杉は樹齢500~600年、径70~80cmの 5、6本の杉の大木が、
根元がゆ着して生えているもので、目の高さの周囲22メートル、
高さ30メートルの圧倒される巨大さです。
千本杉を守っておられる、その屋敷の主婦の人がたまたまおられて、
色々お聞きしました。
千本杉には神が宿っており、不思議なご利益があるそうです。
訪ねてきた娘婿のフランス人がこの樹に長く祈ったとのこと。
道の標識に千仏堂へ500メートルとあったので、うろうろして、
やっと東北の赤埴(あかばね)地区に千仏堂を見つけましたが、
高さ24センチの仏像が260ほど並んで祀られているだけでした。

 369号線のきらく寿司で昼食後、大野寺と磨岩仏を参拝しました。
磨岩仏はやや磨耗していますが、銀杏など紅葉がきれいでした。
その後、三本松の琴引峠に行きました。
琴引峠は全国行脚をしたという鎌倉幕府執権・北條時頼が琴を弾いたとか、
義経や静が琴を弾いたとかの伝説があるそうです。
旧伊勢街道の峠なので芭蕉翁も通ったでしょう。
鉄道敷設で峠道はなくなっていますが、室生東小学校の南の長命寺の境内
にある『琴彈峠跡』の碑などを見て、境内の大木のカヤの実を拾いました。
さらに北東500メートルほどの道の駅「宇陀路室生」で小句会後解散しました。


         地蔵堂萱先ひかる冬の雨      常朝     
          
         杉山に一樹の黄葉の明るさよ    常朝

         千本杉の湧水細く冬来たる     常朝   

        (仏隆寺の石段と山桜・写真はすべてクリックで拡大)

        (仏隆寺の地蔵堂)


        (千本杉)

        (大野寺の磨崖佛)

        (琴引峠・長命寺境内)

2008年11月2日日曜日

73.石清水八幡宮から松花堂庭園

「アカシア紀行・俳句」2008年10月31日(金)

 秋晴れの10月最後の日、常のメンバー6人で京都府八幡市の
男山にある石清水八幡宮に参拝しました。
石清水八幡宮は平安時代に大安寺の僧、行教が宇佐八幡の神託を受けて
創建したといわれる王城守護の神社で、祭神は応神天皇、神功皇后
ほかです。
昔、源義家がここで元服して「八幡太郎義家」と云ったそうです。
また徒然草52段に、仁和寺の僧が麓の極楽寺、高良神社などを八幡宮と
勘違いして帰ってしまった話があります。

 電車では、京阪の八幡市駅から男山山上までケーブルがありますが、
我々は国道24号線、府道15号線を経由して22号線から八幡の東側の
駐車場に11時ころ着きました。
今は高良神社は駐車場の西側山麓に小さくありますが、昔はもっと
立派だったのでしょう。
駐車場の北側には八幡宮の屯宮(お旅所)がありますが、
我々は勘違いせずに、正しい八幡宮を目ざしました。

 大きな石の鳥居から表参道のゆるやかな石の階段をゆっくり
50分ほどかけて頂上の八幡宮まで歩きました。
紅葉はまだでしたが野良猫が5匹ほど参道に遊んでいました。
途中甘酒などの売店がありましたが閉店中でした。
頂上の長い参道を歩くとカラフルで立派な宮が見えましたが、
これは楼門と翼殿でした。
左側から本殿の見える門に少し入ると若い巫女がきて、
立入禁止といわれ階段を戻りました。
男山の由来を聞くともとは「雄徳山」で変化したらしいとのことです。
本殿は改修中で、裏に仮本殿があり、七五三の一家族が祈祷後の
お参りにきていました。7歳の男子と振袖姿の5歳の女の子でした。

 帰りは、裏参道を降りましたが、途中石清水の井戸と社があり、
さらに下りると松花堂跡がありました。
江戸時代松花堂弁当の由来の僧、昭乗が棲んだ坊の跡だそうです。

 午後1時すぎ、南2キロほどの松花堂庭園を訪ねました。
この庭園は八幡市の庭園ですが、明治24年ころ男山から
移築された松花堂などを中心に作られた、東西100メートル、
南北150メートルほどもある広い日本式庭園です。
吉兆松花堂店やミュージアムもあります。
まず吉兆で松花堂をいただいたあと、庭園を拝見しました。

 庭園は、外園の中に内園があります。
外園には吉井勇の歌碑、緋鯉のいる池と、小堀遠州の再現茶室
(松隠)や宗旦の茶室(梅隠)、水琴窟などがあり、
内園の北奥に明治24年移築された松花堂(茶室)と泉坊書院があります。

茶室も風雅ですが、庭のあちこちに四目垣、竹枝穂垣、
網代垣、建仁寺垣、御簾垣など、竹を上手に使った垣があり、
種々の椿(金魚葉椿など)も植えられ、山茶花や薄紅葉が
きれいでした。庭園の通行止めの石、止石も見ました。

夕方奈良女子大北側の喫茶店「ライム」で小句会後解散しました。


         松花堂跡に青き実藪茗荷      常朝

         石清水の流れを隠す落葉かな    常朝

         内園の光やはらか薄紅葉      常朝

        (石清水八幡宮翼殿と楼門・写真はすべてクリックで拡大)
 
        (石清水)

        (松花堂跡)

        (松花堂庭園 内園への門)