2010年12月13日月曜日

115.京田辺・一休寺から棚倉孫神社、流れ橋

「アカシア紀行・俳句」2010年12月11日(土)

 師走中旬のやや寒い日、いつものメンバー5人で京田辺の
一休寺から棚倉孫神社、流れ橋を訪ねました。

 京奈和高速道を田辺西ICで降りて、洛南の山手幹線を少し北上すると、
一休寺への案内板があり、左折すると50台くらいの駐車場があります。
10時前総門からゆるい坂を登り、拝観料500円を納めて境内に入りました。

 いただいた案内書によると、鎌倉時代建立の臨済宗の寺で、一休禅師が
康正年間(1455~)に再興、師恩に報いるために酬恩庵と命名したようです。

 受付のすぐ右手に菊の御紋のある一休禅師のお墓がありました。
一休禅師は後小松天皇の皇子といわれ、お墓は宮内省管轄とのこと。
さらに進んで右手の中門から庫裏と方丈を拝観しました。
中門わきには高いカリンの木が黄色い実をつけており、
庭には沙羅の冬木が数本赤肌を見せていました。

 庫裏は板敷で囲炉裏があり、炭火がおこされ、そばにカリンの実が
置いてあります。
方丈に渡ると広縁があり、立派な枯山水の庭に山茶花が咲いていました。
広縁のある方丈中央に一休禅師のお像が安置され、となりの部屋には
洞庭湖の描かれた襖絵が見えます。
廊下を左回りに巡って周囲の方丈庭園を拝見し庫裏に戻りました。

 のち、中門より北側(奥側)の本堂や老若の一休像、開山堂などを拝見し、
紅葉の残る回遊路を通って受付に戻りました。
ほうきを持った少年一休像は頭がテカテカに光っていました。
晩年の一休禅師をお世話した盲目の森女の遺跡などは、今回は見ることが
できませんでした。

        庭巡り戻れば強き囲炉裏の火    常朝

        一休像のまなざし強し冬紅葉    常朝

       (一休寺総門:クリックで拡大:以下すべて)

       (一休寺庫裏)

       (方丈庭園)

       (一休禅師像)


 三山木駅西のこぶや亭で昼食をいただき、22号線を戻って一休寺の
東500メートル程の棚倉孫神社(たなくらひこ)に参拝しました。
ここは秋の瑞饋神輿(ずいきみこし)で有名ですが、12月の今は、
境内社殿に神輿が置かれているだけです。
大小二つの神輿があり、いずれも屋根はずいきで葺かれており、
花や豆や麦などの作物で美しく作られた紐や壁で飾られていました。
拝殿右には山茶花の大樹が遥拝所の石碑の上にあり、痩せた狛犬に
時雨が降ってきました。
絵馬流し(絵馬掛けの台)には多くの絵馬が掛けられ、その屋根は
銅板で緑青がきれいでした。

        絵馬流しの屋根に緑青冬の杜    常朝

       (棚倉孫神社)

       (ずいき神輿(小))


さらに22号線を北上し、上津屋の流れ橋を訪れました。
流れ橋のそばには駐車場がないので、流れ橋交流プラザのある四季彩館の
駐車場に車を停めました。
四季彩館には売店やレストランもあります。
流れ橋はそこから東へ歩いて2、3分の木津川に掛かっています。
橋は木の板をつなぎ合わせたような作りで、幅2.5メートル、
長さ370メートルほどもありますが橋下の大方は枯野原です。
流れても復元しやすいように、すべての木板がワイヤーで
つながれています。
どこで、ワイヤーが留められているかと雨の中を歩いて探したら、
その端が中流のコンクリートの橋桁につながれていました。
つまり、流されると橋板はつながったまま川の真ん中の橋桁に
ぶらさがる感じになるようです。
去年10月の台風で流れた時の写真が掲示されていたので、
カメラで複写させてもらいました。

        枯野原一直線に流れ橋    常朝

       (流れ橋。手前は茶畑)

       (2009年10月台風18号で流れつつある流れ橋)

       (2009年10月台風18号で流れた流れ橋。横に長く見えるのが橋板)

      

そのうち雨は小止みになりましたが、3時頃に四季彩館から
木津川の東側を奈良方面に戻り、梅谷口の喫茶店「杏樹」で
小句会後解散しました。

2010年11月12日金曜日

114.奈良・天河弁財天社・円空観音堂からみたらい渓谷

「アカシア紀行・俳句」2010年11月11日(木)

 11月の日本列島秋晴れの日、いつものメンバー7人で奈良・天川村の
天河弁財天社・円空仏の観音堂からみたらい渓谷を訪れました。

 9時すぎ飛鳥夢販売所前で集合し、309号線から黒滝経由で天川・河合に、
さらに南下し赤い橋を渡って天河弁財天社(天河大辨財天社)につきました。
ここは役の行者が修行の地として開いたと伝えられ、弁財天、吉野熊野の神、
南朝四代の御霊などを祀っています。
また、天の岩戸を開く時アメノウズメの命が持って踊った五十鈴(いすず)と
同様の鈴が祭ってあるため、芸能の神として多くの芸能人が参拝しているようです。

 駐車場から境内に入ると、右手の低い山に頂上まで達するような大きな銀杏が
見事な黄葉を輝かせていました。
左手の社務所の右に石段がありその上に拝殿があります。
石段の途中左に5つの末社がありその前に「天石」というい奇妙な形の
1メートルほどの石があります。
説明によると、これは鬼を閉じ込める4つの天石の一つだそうです。

 石探しのあと拝殿に着くと右側に能舞台があり左側に大きな五十鈴が
吊られています。綱を振っても大きすぎて音が出ませんでした。
どんどんお金が入りますよう弁財天にお祈りしたあと、拝殿の裏側の石段を降り、
行者堂や天石を見て、黒木御所跡の碑に行きました。

        神山と高さを競ふ銀杏黄葉    常朝

       (弁財天拝殿へ:クリックで拡大:以下すべて)

       (社務所)

       (弁天池)


 南北朝の頃、このあたりに一時南朝の御所があったとのことです。
石碑の奥の芝の広場に供養塔があり、南北朝の御霊の和解の供養として
数年前建てられたようです。
そばに崩れた猪垣があり、山の湧き水がバケツに溜められ、横の穴から水が
飛び出ていました。桜や朴の木もあり、枯れ葉がまだ多く木に残っています。

        湧き水の飛び出る馬穴秋日差   常朝

       (黒木御所跡碑)

       (南北朝供養塔)


 のち、さらに南の栃尾の観音堂に行きました。橋を渡った細い道の奥にあり、
お堂の前に3台くらいの駐車場があります。
江戸時代の遊行僧円空が作った観音像などの木彫りの仏像が4体安置されています。
格子戸を開けて中に入り、さらに格子の内側の円空仏を格子の下にある電灯の
スイッチを押して拝見しました。
いずれも杉の木彫で中央の観音様は1メートル以上ありやさしいお顔でした。
左は弁財天立像、右は金剛童子、護法神像です。
俳優滝田栄の寄贈の額もありました。
お堂の左に銀杏の巨樹があり、円空が植えたとされて、樹齢320年以上とのこと。
きれいな銀杏黄葉がちらちらと舞い降りて屋根にもかかっていました。

        円空仏のおももちやさし銀杏黄葉    常朝
        一葉また一葉と散れり銀杏黄葉     常朝
 
       (栃尾観音堂)

       (円空聖観音像)

       (滝田栄の額)


 12時を過ぎたので河合に戻り、かどやでアマゴ塩焼きなど昼食をいただいた
あと、みたらい渓谷に行きました。
ちょうど紅葉の時期で、多くの観光客が車で来ていました。
渓谷を見上げる橋の上から上流の岩を見ると、インド人(多分)が一人、岩の上で
踊っていました。
4,5人の観光グループの一人のようで、紅葉のあまりの美しさに感動しているようでした。
橋の下の岩を滑り落ちる水が宙を飛んで滝つぼに着水しています。
紅葉の頃の訪問ははじめてなので、渓谷の美しさに感動しましたが、
俳句はほとんでできませんでした。

        岩走り飛ぶ水迅き紅葉かな      常朝

       (みたらい渓谷)


 3時頃渓谷を離れて、309号線を戻り橿原観光ホテルで小句会後5時頃解散
しました。天気と紅葉に本当に恵まれた吟行でした。

2010年11月1日月曜日

113.井上内親王墓から西吉野・立川渡の釈迦堂・八坂神社

「アカシア紀行・俳句」2010年10月29日(金)

 秋雨の日と台風14号の日に挟まれた秋日和の日、いつものメンバー6人で
奈良五條市の井上(いのえ)内親王墓から西吉野・立川渡の釈迦堂などを訪ねました。

 栄山寺のレストラン「よしのがわ」で9時半前に集合し、まず五条市・紀の川の
南・168号線の霊安寺町に、井上内親王ほかを祭神とする御霊神社に参拝しました。

 井上内親王は聖武天皇の皇女で、光仁天皇の皇后になった人ですが、
天皇を呪詛したという讒言(多分)にあって、773年皇太子他部(おさべ)皇子と
共に、今は五条駅前の須恵町にあった藤原家の没官の家に幽閉され、
2年後775年に皇子と同じ日にになくなったとのことです。
(その後山部皇子が即位して桓武天皇になった)

 その後、さまざまな祟りがあったので、霊を鎮めるために、
桓武天皇は800年お墓を改葬し霊安寺と御霊神社が建てられました。
この御霊神社は後に周辺に建てられた22の御霊神社の本社とのこと。

 神社はバス停「霊安寺」を東へ登った丘の住宅地にあります。
神社の縁起によると本殿は寛永14年建立らしいですが拝殿は割合新しいようです。
20メートル四方位の斉庭は木々に囲まれ、1、2本の木は薄紅葉でした。
左側の大きな切り株2つに、それぞれ万両と柊(ひいらぎ)が生えて、
ヒヨドリが鳴いていました。

        拝殿の屋根越し低き薄紅葉    常朝

       (御霊神社:クリックで拡大:以下すべて)


 その後、168号線丹原交差点の南を西に入り、井上内親王墓に参りました。
名前は「宇智陵」となっていますが、御陵の周囲は広い柿畑です。
右隣は北田農園という柿農家で柿の直売をしていました。
御陵の生垣に柿直売の旗が立っています。
そのご主人はお墓の衛士でもあり、御陵に関する資料をいただきました。
御陵の農家側に衛士小屋があり、大正ガラスの窓が開いており、
落ち葉を掃くブロアーが置いてありました。
それぞれ柿を数キロずつ買ってから、御陵南方の吉祥寺を訪ねました。

        陵に柿直売の旗揺れて      常朝

        幽閉の后の墓に小鳥来る     常朝

       (井上内親王墓)

       (井上内親王墓)

       (柿農家)

 吉祥寺は真言宗の寺で、いただいた縁起書によると、柴水山(しばしさん)
ともいい、三大「毘沙門天出現霊場」の一つで、弘法大師が高野山の鬼門にあたる
この地に毘沙門天を祀ったのが起源だそうです。
昔は16も塔頭のある大寺でしたが、明治の排仏運動で、護摩堂(現本堂)、
鐘楼、庫裏のみが残ったと、縁起をいただいた住職からお聞きしました。
真言宗は檀家がないので、住職一人が寺の維持に努力されておられるようです。
庭の剪定も作務衣姿一人でとのこと。
 小さな山門を入った境内には数本の薄紅葉があり、本堂前には、
弘法大師が毘沙門天を拝したという護摩壇のような四角い植え込みがありました。
庭には、檜葉宿り木が枝についた珍しい椿や、モミジアオイなどさまざまな
草花の切り株がありました。
本堂裏には半鐘があり真言修行僧に食事など時間を知らせた鐘だそうです。

        山門は頭すれすれ薄紅葉     常朝

       (吉祥寺山門)
       (吉祥寺本堂)


その後、五条新町の和食レストラン「源兵衛」で昼食をいただき、
西吉野の立川渡を訪ねました。
ここは、先日NHKで放映された古い釈迦堂のある地区です。
車では、168号線を南下し、賀名生の南、宗川野で49号線に入り、1キロ程
立川渡郵便局の南の橋を渡ります。
釈迦堂は4間四方位の吹き抜きのトタン葺きの平屋ですが、
その奥に格子の檀があり、中に十一面観音が3体安置されています。
我々が着くとまもなく自治会長さんが車でこられたのですが、
順天堂大学の先生が来られたと勘違いされたようです。
会長さんによると、この堂は、昔、山の上にあった10軒以上の部落が、
疫病で全滅したので、この地域の村が合同で、移築したとのことです。
中の古い観音像は立派な彫刻なので、文化財指定の調査もされたのですが、
年代が不明で、現在は無指定だそうです。
中央は薬瓶、右は蓮の花瓶、左はひょうたんのような物を持った
立像ですがいずれもやさしいお顔です。

        吹き抜きの堂に古佛や秋深し   常朝

       (立川渡の釈迦堂)

       (釈迦堂の観音像)


そのあと左手の坂を上り、急な石段の上の八坂神社に参拝しました。
自治会長さんと後で来られた総代の人が、高く見える梢は大杉ですよ
と言われたのですが、石段下からはさほど大杉には見えません。
しかし石段を登ってそばに寄ると、周囲4メートルほどの巨樹でした。
走り根も巨大でした。

        走り根の上に走り根秋澄めり   常朝

       (八坂神社)
       (八坂神社のそばの人工滝)


釈迦堂で戻るともう一人の人が来ていてお堂の説明資料プリントを
見せてくれました。

 のち309号線経由で戻り橿原観光ホテルで小句会後6時すぎ解散しました

2010年9月26日日曜日

112.飛鳥稲淵から大和神社紅しで踊り

「アカシア紀行・俳句」2010年9月23日(木)


 猛暑の名月の翌日、秋分の日、前線の雨の中、いつものメンバー7人で
飛鳥の棚田で有名な稲淵などを訪ねました。

 飛鳥駅前の夢販売所で集合した10時頃は土砂降りだったので、
小止みになるまでと、まず飛鳥資料館を訪ねました。
資料館の庭は広くて、噴水の石人像(復元)などが置かれ、
中には高松塚の出土品、キトラ古墳の壁画(復元)や山田寺の発掘された
回廊などが展示されています。
1時間位見学後、稲淵へ行きましたがまだ雨は降っていました。
勧請縄の下の飛鳥川は雨で増水して堰水がはげしく落ちています。
棚田の彼岸花はまだ1~3分咲きといったところですが、雨の中
カメラマンが大勢きていました。
また棚田の道にはコンテストの案山子が沢山ありましたが、
雨中を歩くのをやめて、稲淵を去りました。

        勧請の男縄女縄に秋出水     常朝

        鳥を見ず棚田案山子のコンテスト 常朝

       (飛鳥資料館:クリックで拡大:以下すべて)

       (飛鳥・稲淵の勧請縄)



 天理の千寿亭で昼食にゅうめんなどをいただいた後、大和神社を訪ねました。
23日は神社の秋の大祭で、朝からの神事のあと、1時半からは
紅しで踊りが始まりました。
紅しで踊りは江戸時代飢饉で雨乞いをしたら雨が降り豊年になったのを神に
感謝するために始まった踊りらしいです。
大正時代以後途絶えていたのを、昭和30年代に復活した婦人会による踊りです。

 1時すぎ参道左側(南側)の朝和会館から赤いしで(幣)を持った約40人の
踊り子があらわれ、一列に拝殿にすすんで神事を行いました。
踊り子は青や黄緑の衣装に赤いたすきをかけ、赤い鼻緒の草履姿です。
1時30分すぎ、まだ雨が少し降っていましたが、拝殿前の広場で、
太鼓と音頭のもと、踊りが始まりました。
踊りは10分くらいでしたが、素朴ななかに華やかさと味わいのある踊りで、
終わったあと、拍手がありました。
雨への感謝の踊りなので、雨の中が良かったのかもしれません。
今年は雨のためか幼稚園児の踊りはなかったです。
境内には、崇神天皇御鎮座地の標板が立ち、里芋の鉢が並んでいました。
その後、雨も小止みになったので境内北側の畑に出てみました。
藪の椿の実が光り、畑に紫苑が咲いて、巻向山が雨に煙っていました。


        小鳥来る崇神天皇御鎮座地    常朝

        雨乞いの踊り紅しでささげ振り  常朝

       (大和神社拝殿で祈祷)

       (紅しで踊り)


その後、奈良の菊水レストランで小句会後解散しました。

2010年9月11日土曜日

111.上賀茂神社烏相撲と正伝寺

「アカシア紀行・俳句」2010年9月9日(木)


 9月の菊の節句(重陽)の日、いつものメンバー7人で京都・上賀茂神社
などを訪ねました。
この日は、神社では重陽神事として、斎王代が出られる神事のあと
相撲童子による「烏相撲(からすすもう)」がおこなわれます。

 烏相撲は、祭神「わけいかづち(別雷)の神」の外祖父 賀茂建角身命
(かもたけ つぬみのみこと)が神武天皇東征に際し、八咫烏(やたがらす)
と化(な)って先導された故事を記念して、菊の節句に奉納される
ようになったとのことです。

 桓武天皇が京都に遷都されたとき以降、八咫烏の子孫にこの地を与えられ、
先祖の神を祀るようになったのが(上と下の)賀茂神社らしいです。

上賀茂神社は京都堀川通りを北上して、御薗橋を渡ればすぐですが、
電車では地下鉄北大路駅など主要駅からバスがあります。
我々は左側の駐車場に車を止めて、一の鳥居に戻り境内の広い道
(葵祭の行列の道)を、土俵のある細殿の前まで歩きました。

 10時頃、相撲童子24人が神職などに先導されて入場し、
本殿の方から斎王代も出られて清めの儀式後本殿で神事が行われました。
その後11時頃童子達は土俵の西側(ねぎかた)と東側(ほうりかた)に
別れて坐り、斎王代は細殿の御簾の向こう側に坐りました。
まず、神職二人が、細殿の前で、烏のしぐさでぴょんぴょんと横に跳ねて、
弓と太刀を立砂の立て掛け奉納し、烏の鳴き真似をしました。
別の神職が土俵に8の字を描いて地取りをし、童子の名簿(差し符)を
読み上げたのち、東西から一人ずつ立って相撲の取り組みが始まりました。

 相撲童子は小学校5、6年生位の男の子達ですが、やせっぽちの子もいました。
よく日焼けした身体に白いさらしの褌を巻いて元気に相撲を取っていました。
途中土俵の土をならすため「えぶり」と熊手で「土俵なおし」を
何度もしていました。相撲は3巡するので、途中菊酒をいただきました。
その後ふれあいの会のコワイおばあさんがきて「ここは会の席やで、どいて」と
テントの下の日陰に坐っていた我々を立たせました。
うしろにはまだ空席があったのですがこれもふれあいの一つでしょうか。
相撲は12時前に終わり斎王代と記念撮影をして神事は無事終りました。

        土俵なほし何度もありて宮相撲   常朝

        花びらに埋まる菊酒いただけり   常朝

       (上賀茂神社一の鳥居:クリックで拡大:以下すべて)

       (神馬)

       (童子の相撲)

       (御手洗川)

       (斎王代と記念撮影)



 本殿参拝後、鳥居の前のみそぎ茶屋で昼食をいただき、
神社の西約1.5キロの山麓にある禅寺「正伝寺」に詣でました。
正伝寺は、由来書によると、鎌倉時代、東厳慧安(とうがんえあん)禅師が
創立した臨済宗南禅寺派の禅寺で、方丈などが重要文化財です。
とくに、方丈は、伏見桃山城の御成殿を移建し本堂にしたこともあり、
広縁の天井は、関ヶ原の戦の前、徳川の忠臣鳥居彦左衛門らが
立て籠もって戦った血の跡のついた廊下板を利用したので、
今も黒い血の跡が残っています。
広縁からは小堀遠州の石庭と借景の比叡山がきれいに見え、
法師蝉が鳴いていました。比叡山から烏も飛んできました。

        登高や比叡山より烏来る  常朝

       (正伝寺山門)

       (本堂:方丈)

       (石庭と比叡山)

       (血天井のある広縁)

       (中門)



その後、京都ホテルオークラB2のカフェヌーヴで小句会後解散しました。

2010年8月22日日曜日

110.比叡山延暦寺

「アカシア紀行・俳句」2010年8月17日(火)


 8月の残暑というより盛夏の猛暑の続く日、いつものメンバーで
京都・比叡山延暦寺を訪ねました。

京都東山通り(東大路)の百万遍・今出川通から300メートル北の
山中越え(志賀越道)を東へ登ると、比叡山ドライブウエイに
入りますが、途中「夢見が丘」で止まって、琵琶湖を眺めました。
琵琶湖の南の方のすばらしい眺めで、大津プリンスホテルや
赤いヨットが見えました。

        ホテルの影赤きヨットの入りけり  常朝

       (夢見が丘の眺め1:クリックで拡大:以下すべて)

       (夢見が丘の眺め2)


延暦寺の本堂ともいうべき根本中堂の駐車場に車を留め、
入山料550円で中堂の境内に入りました。
そこからは下り坂ですが両側に、開祖の伝教大師・最澄の
一代記を描いた絵看板が並んでいます。

途中に大講堂と鐘楼があり、50円を納めて鐘を撞く人が絶えない
ようでした。

大きな中堂では尼様が団体の人々へ説教中で、参拝後、
下の方に見える護摩壇で一人の僧が護摩を焚いているのを
拝見しました。護摩の煙が堂の黒い天井に登り、
中庭にも流れていました.

        中堂の護摩を見る背に風涼し    常朝

       (絵看板:最澄の出家)

       (絵看板:天台宗の開立)

       (根本中堂の門)

       (鐘楼)


その後、中堂の向かいにある「鶴喜そば」で昼食をいただき、
奥比叡ドライブウエイを通って、根本中堂の北約6キロくらいの
横川(よかわ)に行きました。
横川は、道元、親鸞、日蓮などの高僧が若いころ仏教を学び
修行した所で、再建された横川中堂や元三大師堂、恵心堂、定光院
などがあります。
中堂下の弁天池(龍ヶ池)には、澄んだ水に睡蓮が咲き、
井守(虫へんに栄・虫へんに原:イモリ)が泳いでいました。

        絵看板並ぶ参道法師蝉      常朝

        道元の学びし谷に井守浮く    常朝

       (横川の入口)

       (横川中堂)

       (龍ヶ池と弁天堂)

       (龍ヶ池の睡蓮とイモリ(画面のまん中))


 その後、ロテルド比叡(ホテル)の喫茶室でアイスコーヒーをいただき、
小句会後解散しました。
下界の京都市内へ戻るとまだまだ暑かったので、よい避暑にもなりました。