2010年11月12日金曜日

114.奈良・天河弁財天社・円空観音堂からみたらい渓谷

「アカシア紀行・俳句」2010年11月11日(木)

 11月の日本列島秋晴れの日、いつものメンバー7人で奈良・天川村の
天河弁財天社・円空仏の観音堂からみたらい渓谷を訪れました。

 9時すぎ飛鳥夢販売所前で集合し、309号線から黒滝経由で天川・河合に、
さらに南下し赤い橋を渡って天河弁財天社(天河大辨財天社)につきました。
ここは役の行者が修行の地として開いたと伝えられ、弁財天、吉野熊野の神、
南朝四代の御霊などを祀っています。
また、天の岩戸を開く時アメノウズメの命が持って踊った五十鈴(いすず)と
同様の鈴が祭ってあるため、芸能の神として多くの芸能人が参拝しているようです。

 駐車場から境内に入ると、右手の低い山に頂上まで達するような大きな銀杏が
見事な黄葉を輝かせていました。
左手の社務所の右に石段がありその上に拝殿があります。
石段の途中左に5つの末社がありその前に「天石」というい奇妙な形の
1メートルほどの石があります。
説明によると、これは鬼を閉じ込める4つの天石の一つだそうです。

 石探しのあと拝殿に着くと右側に能舞台があり左側に大きな五十鈴が
吊られています。綱を振っても大きすぎて音が出ませんでした。
どんどんお金が入りますよう弁財天にお祈りしたあと、拝殿の裏側の石段を降り、
行者堂や天石を見て、黒木御所跡の碑に行きました。

        神山と高さを競ふ銀杏黄葉    常朝

       (弁財天拝殿へ:クリックで拡大:以下すべて)

       (社務所)

       (弁天池)


 南北朝の頃、このあたりに一時南朝の御所があったとのことです。
石碑の奥の芝の広場に供養塔があり、南北朝の御霊の和解の供養として
数年前建てられたようです。
そばに崩れた猪垣があり、山の湧き水がバケツに溜められ、横の穴から水が
飛び出ていました。桜や朴の木もあり、枯れ葉がまだ多く木に残っています。

        湧き水の飛び出る馬穴秋日差   常朝

       (黒木御所跡碑)

       (南北朝供養塔)


 のち、さらに南の栃尾の観音堂に行きました。橋を渡った細い道の奥にあり、
お堂の前に3台くらいの駐車場があります。
江戸時代の遊行僧円空が作った観音像などの木彫りの仏像が4体安置されています。
格子戸を開けて中に入り、さらに格子の内側の円空仏を格子の下にある電灯の
スイッチを押して拝見しました。
いずれも杉の木彫で中央の観音様は1メートル以上ありやさしいお顔でした。
左は弁財天立像、右は金剛童子、護法神像です。
俳優滝田栄の寄贈の額もありました。
お堂の左に銀杏の巨樹があり、円空が植えたとされて、樹齢320年以上とのこと。
きれいな銀杏黄葉がちらちらと舞い降りて屋根にもかかっていました。

        円空仏のおももちやさし銀杏黄葉    常朝
        一葉また一葉と散れり銀杏黄葉     常朝
 
       (栃尾観音堂)

       (円空聖観音像)

       (滝田栄の額)


 12時を過ぎたので河合に戻り、かどやでアマゴ塩焼きなど昼食をいただいた
あと、みたらい渓谷に行きました。
ちょうど紅葉の時期で、多くの観光客が車で来ていました。
渓谷を見上げる橋の上から上流の岩を見ると、インド人(多分)が一人、岩の上で
踊っていました。
4,5人の観光グループの一人のようで、紅葉のあまりの美しさに感動しているようでした。
橋の下の岩を滑り落ちる水が宙を飛んで滝つぼに着水しています。
紅葉の頃の訪問ははじめてなので、渓谷の美しさに感動しましたが、
俳句はほとんでできませんでした。

        岩走り飛ぶ水迅き紅葉かな      常朝

       (みたらい渓谷)


 3時頃渓谷を離れて、309号線を戻り橿原観光ホテルで小句会後5時頃解散
しました。天気と紅葉に本当に恵まれた吟行でした。

2010年11月1日月曜日

113.井上内親王墓から西吉野・立川渡の釈迦堂・八坂神社

「アカシア紀行・俳句」2010年10月29日(金)

 秋雨の日と台風14号の日に挟まれた秋日和の日、いつものメンバー6人で
奈良五條市の井上(いのえ)内親王墓から西吉野・立川渡の釈迦堂などを訪ねました。

 栄山寺のレストラン「よしのがわ」で9時半前に集合し、まず五条市・紀の川の
南・168号線の霊安寺町に、井上内親王ほかを祭神とする御霊神社に参拝しました。

 井上内親王は聖武天皇の皇女で、光仁天皇の皇后になった人ですが、
天皇を呪詛したという讒言(多分)にあって、773年皇太子他部(おさべ)皇子と
共に、今は五条駅前の須恵町にあった藤原家の没官の家に幽閉され、
2年後775年に皇子と同じ日にになくなったとのことです。
(その後山部皇子が即位して桓武天皇になった)

 その後、さまざまな祟りがあったので、霊を鎮めるために、
桓武天皇は800年お墓を改葬し霊安寺と御霊神社が建てられました。
この御霊神社は後に周辺に建てられた22の御霊神社の本社とのこと。

 神社はバス停「霊安寺」を東へ登った丘の住宅地にあります。
神社の縁起によると本殿は寛永14年建立らしいですが拝殿は割合新しいようです。
20メートル四方位の斉庭は木々に囲まれ、1、2本の木は薄紅葉でした。
左側の大きな切り株2つに、それぞれ万両と柊(ひいらぎ)が生えて、
ヒヨドリが鳴いていました。

        拝殿の屋根越し低き薄紅葉    常朝

       (御霊神社:クリックで拡大:以下すべて)


 その後、168号線丹原交差点の南を西に入り、井上内親王墓に参りました。
名前は「宇智陵」となっていますが、御陵の周囲は広い柿畑です。
右隣は北田農園という柿農家で柿の直売をしていました。
御陵の生垣に柿直売の旗が立っています。
そのご主人はお墓の衛士でもあり、御陵に関する資料をいただきました。
御陵の農家側に衛士小屋があり、大正ガラスの窓が開いており、
落ち葉を掃くブロアーが置いてありました。
それぞれ柿を数キロずつ買ってから、御陵南方の吉祥寺を訪ねました。

        陵に柿直売の旗揺れて      常朝

        幽閉の后の墓に小鳥来る     常朝

       (井上内親王墓)

       (井上内親王墓)

       (柿農家)

 吉祥寺は真言宗の寺で、いただいた縁起書によると、柴水山(しばしさん)
ともいい、三大「毘沙門天出現霊場」の一つで、弘法大師が高野山の鬼門にあたる
この地に毘沙門天を祀ったのが起源だそうです。
昔は16も塔頭のある大寺でしたが、明治の排仏運動で、護摩堂(現本堂)、
鐘楼、庫裏のみが残ったと、縁起をいただいた住職からお聞きしました。
真言宗は檀家がないので、住職一人が寺の維持に努力されておられるようです。
庭の剪定も作務衣姿一人でとのこと。
 小さな山門を入った境内には数本の薄紅葉があり、本堂前には、
弘法大師が毘沙門天を拝したという護摩壇のような四角い植え込みがありました。
庭には、檜葉宿り木が枝についた珍しい椿や、モミジアオイなどさまざまな
草花の切り株がありました。
本堂裏には半鐘があり真言修行僧に食事など時間を知らせた鐘だそうです。

        山門は頭すれすれ薄紅葉     常朝

       (吉祥寺山門)
       (吉祥寺本堂)


その後、五条新町の和食レストラン「源兵衛」で昼食をいただき、
西吉野の立川渡を訪ねました。
ここは、先日NHKで放映された古い釈迦堂のある地区です。
車では、168号線を南下し、賀名生の南、宗川野で49号線に入り、1キロ程
立川渡郵便局の南の橋を渡ります。
釈迦堂は4間四方位の吹き抜きのトタン葺きの平屋ですが、
その奥に格子の檀があり、中に十一面観音が3体安置されています。
我々が着くとまもなく自治会長さんが車でこられたのですが、
順天堂大学の先生が来られたと勘違いされたようです。
会長さんによると、この堂は、昔、山の上にあった10軒以上の部落が、
疫病で全滅したので、この地域の村が合同で、移築したとのことです。
中の古い観音像は立派な彫刻なので、文化財指定の調査もされたのですが、
年代が不明で、現在は無指定だそうです。
中央は薬瓶、右は蓮の花瓶、左はひょうたんのような物を持った
立像ですがいずれもやさしいお顔です。

        吹き抜きの堂に古佛や秋深し   常朝

       (立川渡の釈迦堂)

       (釈迦堂の観音像)


そのあと左手の坂を上り、急な石段の上の八坂神社に参拝しました。
自治会長さんと後で来られた総代の人が、高く見える梢は大杉ですよ
と言われたのですが、石段下からはさほど大杉には見えません。
しかし石段を登ってそばに寄ると、周囲4メートルほどの巨樹でした。
走り根も巨大でした。

        走り根の上に走り根秋澄めり   常朝

       (八坂神社)
       (八坂神社のそばの人工滝)


釈迦堂で戻るともう一人の人が来ていてお堂の説明資料プリントを
見せてくれました。

 のち309号線経由で戻り橿原観光ホテルで小句会後6時すぎ解散しました