2011年10月23日日曜日

137.都祁城福寺、水分神社から三谷の赤いそばの花、瀧蔵神社

「アカシア紀行・俳句」2011年10月22日(土)


 一日中雨の予報の週末、いつものメンバー7人で奈良市・都祁の城福寺、
水分神社などを訪ねました。
いつもの天気女パワーで、雨雲を東へ追い出したのでしょう、夜の雨は殆ど
上がっていました。

 9時半針ICの針テラスで集合後、369号線を南下、貝が平口バス停を西へ
右折し山道を1キロほど走ると、右手の山麓に小さな石段とその上の寺が
見えます。都祁の隠れ寺ともいうべき、無住の城福寺です。

 小さな本堂と、集会所兼社務所のような建物があるだけですが、石段を登ると、
田や畑の谷の景色が見えます。
狭い境内には、銀杏がぎんなんを落し、楓が薄紅葉を見せ、山茶花がまばらな
花をつけています。

 インターネットによると、本尊は薬師如来で向かいの谷の山椒魚を飲むと、
「癌封じ」の効き目があるので、がん薬師といわれるそうです。
(へびを飲むのでなく山椒魚でした)
よく読めませんが、薬師如来を称えるような歌が本堂の壁に掛けられています。

 石段そばの大きな薄紅葉の古木には大きなうろ(洞)があり、反対側に
突き抜けていました。
障子の破れ目からカメラで如来を撮影させていただきました。

        隠れ寺洞ある巨樹の薄紅葉      常朝

        (城福寺:クリックすると拡大:以下すべて)

        (城福寺の本堂内)


 その後、369号線に戻り、都祁水分神社を訪ねました。
ここは平安時代からある水分神社で、参道も100メートル以上の立派な神社で、
奈良時代には聖武天皇が西国行幸のおり、400人の従者と寄られた頓宮(仮宮)
の地との伝承があり、参道入口北側にその石碑があります。

 本殿を参拝後、北側の山辺の御井に行きました。
御井はうっそうとした森の中の大杉の根元にある周囲8メートルほどの泉で、
伊勢斎宮の仮宮跡とも言われています。
万葉集に

   山辺の 御井を見がてり 神風の 
          伊勢処女(おとめ)ども 相見つるかも
                      (万葉集巻1-81)
 
 の歌がある御井はこことのことですが、他にも、毛原廃寺跡、鈴鹿市山辺町にも
御井とされる井戸があります。
この泉の方が神の森の中なので、御井にふさわしい気もしますが。

 その先は畑があり、茶の花が咲いて、ヘクソカズラの実や、野老(ところ)の実が
絡み付いていました。
右手には観音寺という無住寺と墓地があり、ときどき鵯の声と鵙の声が聞こえ、
鵯か鵙かわからない時もありました。
柿も実り、周囲は秋の季語だらけでした。

        杉葉敷く山辺の御井の水澄みて    常朝

        鵯の声いや鵙の声とけりつかず    常朝

        (都祁水分神社)

        (神社の説明板・拝殿右の軒)

        (山辺の御井)


 昼になったので、針テラスにもどり、カフェテリアで昼食をいただき、
再び369号線から白石交差点を西へ右折して、38号線の小夫(おぶ)の三谷
に行きました。
三谷は近年、山野草の里作りの会が自然保護などを目的に活動している山畑と
谷田の地域です。
38号線の上の郷の「三谷 山野草の里」の案内板で左折して、東南へ約1キロ、
最初の神社前の駐車場をすぎて、低い峠を越えた谷にある野草などのお店の
下の駐車場に留めました。

 山麓や畑の周囲に自然のままの遊歩道があり、田は電柵で囲まれていました。
田の上の棚田状の畑に赤いそばの花が咲いています。
赤い蕎麦の花は生まれて初めて見ました。

また「サワフタギ」の青い実や「イナカギク」「ヤクシソウ」などの花もあり、
クサヒバリがリリリリと高く鳴いていました。

        送電線下に真赤き蕎麦の花      常朝

        谷越えて鳴き交はしをり草雲雀    常朝

        (三谷:山野草の里)

        (赤い蕎麦の花)


 しばらく山野草の里を散策後、38号線に戻り、奈良精工の前を東南へ左折して、
約1キロの瀧蔵神社を訪ねました。
山桜の古木(権現桜)が崖から左へ覆っている参道を過ぎると、鐘楼があります。
昔は神宮寺(権現の寺)であったとのことです。
神社の境内は、ほぼ山頂にありますが、9年前に訪ねた時と比べ、拝殿も崖上の
本殿もずいぶん色鮮やかになっていました。
あまりにきれいすぎて、俳味がなくなったようです。
そのとき聞こえた懸巣の声もなく、静かな山の神社でした。


        秋雨に色鮮やかに崖の宮       常朝

        (瀧蔵神社の鐘楼)

        (神社の説明板)

        (瀧蔵神社本殿)


 3時半から桜井市の165号阿部交差点東の天平庵で小句会後5時頃解散
しました。
予報に反して天気にめぐまれ秋の都祁路を楽しむことができました。

2011年10月3日月曜日

136.伊賀上野城、鍵屋の辻、蓑虫庵から国分寺跡

「アカシア紀行・俳句」2011年10月2日(日)

 10月始めの秋らしい天気の日、いつものメンバー7人で伊賀上野を
訪ねました。
名阪国道(25号線)を天理から東へ約40キロ、上野ICで降りて北上し
西大手で右折、上野西小学校の北側にある駐車場から城跡を歩きました。

 上野城は城作りの名人といわれた藤堂高虎が
戦国時代織田信雄、筒井定次らが建てた城を改築した城ですが、
江戸時代は天守閣がなく、明治時代解体されたのを、昭和10年模擬天守が
建設されのちに国の史跡になったようです。

 天守に近づくと、和太鼓が聞こえてきました。
たまたま城まつりの2日目で、舞台で和太鼓の演奏中でした。
間をおいて忍者などのコスプレ行列など賑やかでした。

 我々は真っ白な天守に登らず、奥の堀端まで歩き、日本一高いという、
石垣などを見ました。鴨はまだ来ていませんでした。
母に連れられた幼子が拾った団栗を両手一杯にして見せてくれました。

        天守閣の白透きとほる天高し     常朝

        城跡の団栗両手に見せくれし     常朝

        鴨来るを待ちて静かな城の濠     常朝

        (伊賀上野 城まつり:クリックすると拡大:以下すべて)

        (城の濠と石垣)


 のち本丸北側の俳聖殿に行きました。
俳聖殿は昭和17年芭蕉生誕300年を記念して私財で建設された檜皮葺きの
2層の八角堂で、上の屋根は八角でなく、芭蕉の笠を模した丸屋根です。

 入口の芭蕉祭の句額(去年の分)を見ていたら、年配の人が出て来て、
中へ案内され、建設の由来や芭蕉の話を色々してくれました。

 芭蕉祭の代表句を数十句載せた句額は昭和21年頃からの分が、
中に掲示されています。
中央の壇には、お弟子さん達の絵から顔を復元したという伊賀焼の
芭蕉翁坐像があり、芭蕉俳句を読み込んだ歌が流れていました。


        秋深し芭蕉像聞く俳句の歌      常朝

        (俳聖殿)

        (芭蕉翁像)


 のち、城の西約700メートルの鍵屋の辻に行きました。
鍵屋の辻は有名な、荒木又右衛門と渡辺数馬の仇討ちの場所です。
辻のすぐそばの数馬茶屋に車を止めて、数馬祝い膳をいただきました。
決闘の前に食べたとされる「そば」といわし、かやくご飯
などですが、「そば」で「いわしたる」(やっつけるの関西弁)の
意味だそうで、又右衛門達が喜んだそうです。???。

 数馬茶屋は明治初期に一旦なくなった「よろずや」茶屋を、昭和51年に
名を変えて再建されたとのこと。
女将の話では、再建後は毎年芭蕉祭の頃、東京などから深夜バスなどで
俳人が来て句会をするそうです。

 女将がドナルド・キーンさんとの付き合いがあることも聞きました。
キーン氏は東北大震災後、日本帰化を決意され、9月に再来日された
文化勲章受賞の日本文学者、コロンビア大学名誉教授です。

 女将は、茶屋再建直後の芭蕉祭に、当時の永井文部大臣と伊賀を訪れた
ドナルド・キーン氏に気に入られ、今でもやりとりのあるとのことで、
再来日後の葉書を2、3枚見せてもらいました。
大臣と一緒の時は、SPが料理を毒見をしたそうです。
きっかけは茶屋で、キーン氏から芭蕉の俳句をいくつか
知っているかと聞かれ、奥の細道冒頭を暗誦したことだそうです。
芭蕉祭などで伊賀上野にきたときは、よく数馬茶屋に来られたとのこと。
その時は、携帯で途中の車の位置を聞き、着かれたとき丁度熱い料理を
出せるよう、分単位でがんばったとも。

 鍵屋が7軒長屋としてあったという通りを歩きましたが、
今は鍵職人はおらず、瓦屋がありました。

        鍵屋なき鍵屋の辻の薄紅葉      常朝

        (数馬茶屋)

        (仇討ち説明板:鍵屋の辻)


 昼食後、城の南約700メートルの蓑虫庵を訪ねました。
蓑虫庵は芭蕉の弟子「服部土芳」の住居跡で藁葺きの庵や
よく手入された庭があります。
 入園料300円を払って入ると、苔と椿、夏椿、百日紅などの庭があり
萩や彼岸花が咲いていました。
土芳の墓石や芭蕉の「よく見れば薺花咲く垣根かな」などの句碑があり
ますが、鳥の声は聞こえず静かな庭でした。
建物の中で女性が庵の説明をしてくれました。
芭蕉の教えを土芳が記述した三冊子なども展示されています。

        鳥追ひの貝殻載せて蓑虫庵     常朝

        (蓑虫庵:貝殻を載せた屋根)

        (説明板)


 蓑虫庵を出て、名阪国道に戻り、上野東ICから東約2キロの、
伊賀国分寺跡を訪ねました。
奈良時代、ここは、東側の国分尼寺(長楽山)とともに伊賀の国の
国分寺があったそうです。
9年前訪れた時と比べて、草も刈られて整備されていますが、
300メートル四方位の広大な草原があるだけで、
中門跡、金堂跡、講堂跡、塔跡などの標識が立っているだけです。
周囲の土塁跡らしい薮には、ヒヨドリバナ、芒、萩、漆紅葉、
ヌルデ紅葉、秋の野芥子などが秋の色どりを添えていました。


        礎石なき金堂跡に芒照る      常朝

        (伊賀国分寺跡)

        (説明板)



 3時半ころ名阪国道の針ICに戻り、メルカートロッソで
小句会後5時半頃解散しました。
あまり良い句はできませんでしたが、天気にめぐまれ秋の伊賀路を
楽しむことができました。

追記:2019年2月24日ドナルド・キーンさんは心不全で死去されました。96才。
朝日新聞によると、氏は1922年ニューヨーク生まれ、コロンビア大学在学中に
源氏物語に触れ、1942年米海軍日本語学校後、語学将校としてハワイ、沖縄で従軍、
日本兵の日記翻訳や捕虜の通訳をした。戦後ハーバード大、ケンブリッジ大で日本文学を
研究、1953年から京都大学留学、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などと交流
徒然草、奥の細道などを英訳、1992年コロンビア大学名誉教授、1997年日本文学の歴史発行、2008年文化勲章受賞、2011年の大震災後日本国籍取得した。