2012年6月25日月曜日

152. 九度山町・真田庵、慈尊院、丹生官省符神社から丹生都比売神社

「アカシア紀行・俳句」2012年6月24日(日)

  6月の梅雨曇りの日曜日、いつものメンバー5人で、和歌山県・九度山の
真田庵、慈尊院、丹生都比売神社などを訪ねました。

  葛城の山麓線(30号)、京奈和道・五條道路、高野口大野を過ぎて、
24号線を少し戻った名倉交差点を右折、九度山橋を通って、真田庵近くの
駐車場に留めさせてもらい、お寺についたのは10時ころでした。

  真田庵は、関が原の戦後から大阪冬の陣までの13年ほど、
真田昌幸、幸村親子らが住んだ屋敷跡に、1741年大安上人が地蔵菩薩の
一堂を創建したお寺で、今は善名称院(ぜんみょうしょういん)という、
真言宗の尼寺です。

  たまたま地蔵祭りの日で、大安上人の命日とのことで、
近所の主婦などが、お寺の弥勒堂に集まり、尼僧と一緒に般若心経、
観音経などをあげたあと、尼僧の法話がありました。
境内には絵馬堂の柱、軒瓦などあちこち真田家の六文銭の家紋があります。

  大安上人が清めて祈った紀ノ川の砂をいただいた里人に病気平癒などの
ご利益があり、朝廷にも知られ、後桃園天皇も土砂加持供養をされたので、
菊のご紋を許されたとのことです。

  境内には、幸村の雷封じの井戸、蕪村の句碑

               炬燵して語れ真田が冬の陣
               かくれ住んで花に真田が謡かな

 があり、
絵馬堂には由緒の額や昭和60年のNHK連続ドラマ「真田太平記」のポスターもあります。

               六文銭の家紋椅子にも地蔵祭    常朝

               九字を切る尼僧の声や地蔵祭    常朝

               (真田庵:クリックで拡大、以下同じ)       
               (真田庵の由緒額)
               (蕪村の句碑・かくれ住んで・・)

  法要の途中で我々はお寺を辞して、西1キロほどの慈尊院を訪ねました。
ここは空海(弘法大師)が高野山の表玄関として、高野山一山・荘園の政所
(寺務所)、宿所、冬期避寒修行場としたようで女人高野とも言われています。  

  参拝後、境内を散策していたら、住職が出てこられて、お話を聞きました。
 むかし空海の母・阿刀氏が、讃岐国多度郡から訪ねて来たが、
女人禁制のため、この政所に滞在したので、空海はひと月に9度は
必ず20数kmに及ぶ 山道(高野山町石道)を下りて母を訪ねたので、
この辺りを「九度山」といった とのこと。

  お寺に住んだゴンという犬が参詣者を高野山へ案内したとのこと。
また今も残る土塀は古さと厚さ(120センチ)で、日本一らしいです。
 2004年7月高野山と共に、世界遺産に認定されたとのこと。  

  お話のあと、住職は大きなナギの木に梯子を掛けて、電動のこでナギの枝を払いはじめました。

  境内には、世界遺産碑、大師像、案内犬「ゴン」の像、噴水、絵馬掛けなどが
あり、安産祈願で乳房の絵馬が掛けられています。

               あじさいや女人高野に乳房絵馬   常朝  

               (慈尊院)
               (乳房絵馬)
               (大師と案内犬ゴンの像)

  すぐおくに120段ほどの石段があり、その上は丹生官省符神社です。
石段右手には高さ2メートルほどの町石があり、180番とありました。
説明板によると、高野山まではここが出発点で、1町(110メートル)ごとに、
町石があるとのこと。(全部で20キロだが、実際は約24キロ)境内には緑色の
茅の輪が立てられていました。

 大師を高野山へ導いたといわれる狩場明神(高野御子大神)の使い黒犬・白犬を
大師と共に描いた大きな絵馬が立てられています。   

               町石の百八十町目木下闇   常朝

               (丹生官省符神社)
               (町石百八十町目:高野山への出発点)

 その後24号線に戻り、蔵の湯「野半の里」で固めのご飯の昼食をいただいた
あと、かつらぎ町の世界遺産・丹生都比売神社を訪ねました。

 丹生都比売神社は天照大神の妹姫「丹生都比売」ほかを祀る神社で、
 境内の池には大きな朱色の太鼓橋が掛けられています。
由緒書きによると、「丹生都比売」は砂の神で、全国の丹生のつく神社約180社の総本社とのこと。

 丹生の「丹:たん」は朱砂、辰砂(しんしゃ)ともいい、硫黄と水銀の化合した赤土とのこと。
鳥居をくぐるとすぐ太鼓橋で、その上から子供がシャボン玉を池に向かって流していました。 池には睡蓮、河骨(コウホネ)が咲いています。

 境内には、枯れ色の茅の輪があり、潜り方の説明書が掲示されていました。
手前の天幕には夏越の祓(なごしのはらえ:6月30日)の説明が掲示され、
名と年齢を書いた紙の人形(ひとがた)で身体になでて、ハアーッと3回、
息をかけて名・初穂料を書いた封筒に入れて、申し込むとのこと。
見本と朱印が押された人形と白紙の人形が置かれていました。

 立派な朱塗りの本殿の左手の草原の奥に、大きな石塔婆が4、5塔
立てられており、役の行者石厨子、御影堂、多宝塔の跡もありました。
境内右手(西)には坐りやすい大きな岩板が置かれていました。

               太鼓橋よりシャボン玉鯉の上    常朝

               人形に見本の朱印夏祓       常朝

               (丹生都比売神社)
               (丹生都比売神社本殿)
               (太鼓橋)

 3時すぎ、九度山橋に戻り、紀ノ川北詰の土手から、小田井関を訪ねました。
この井関は江戸時代1707年庄屋の大畑才蔵という人が、紀ノ川を一部堰きとめて
作り、岩出までの36キロの水路で、約1000町歩の田を潤したとのことです。

 大きな水門から落ちる水が水煙を高く上げ、その下では数羽の鵜が
羽を拡げたり、水に潜ってながされながら、魚を咥えたりしています。
まるで波と遊んでいるようにも見えました。

               咥えたる魚光らせり井関の鵜   常朝

               (紀ノ川の小田井関)


  天気予報は午後雨でしたが、結局雨に会わずに涼しい和歌山の吟行と、
香芝市での句会を楽しむことができました。

2012年6月8日金曜日

151. 丹生川上神社上社、福源寺、井光神社から金剛寺


「アカシア紀行・俳句」2012年6月7日(木)

  梅雨入り前の好天の日、いつものメンバー6人で、奈良・吉野郡川上村を
訪ねました。
主な目的は、南朝ゆかりの福源寺と神武天皇ご巡行のとき会われたという、
井戸から現れた井光(いひか)を祀る井光神社ですが、
その前にダム底から遷座した丹生川上神社・上社を訪ねました。

 丹生川上神社・上社は吉野に上社、中社、下社と3つある、水神を祀る神社
の一つです。(それぞれの水神は タカオカミ、ミヅハノメ、オカミノカミ)
平成10年、大滝ダムの建設によって水没する旧街道のそばにあった神社から
この山の中腹に遷座されました。

  大滝ダム沿いの169号線にあるホテル「杉の湯」の角の信号を左折し
急坂を1キロほど登ると、丹生川上神社・上社です。
初めて参拝した2004年から比べると新本殿もやや古びて、歴史ある神社に
ふさわしくなったようです。

  境内からは青葉の山に囲まれたダムを見下ろせますが、元の神社のあった
場所らしき土地が減水したダムの岸辺にみえました。

                水神の守れるダムや山青葉     常朝

                (丹生川上神社・上社:クリックで拡大、以下同じ)

                (上社からみた大滝ダム) 

                (藤本安騎生句碑:高龗神御遷座の山鷹渡る)
                (上社の説明板)

  そのあと、神社の前の坂を1キロほど登り、福源寺を訪ねました。
福源寺は、曹洞宗の寺ですが、役行者の開基とされ、平安時代に
文徳天皇の長子、惟喬親王(これたかしんのう)の岡室御所とされ、
全国の木地師(木工技術者)を育成された本拠となったようです。

 寺は坂の行き止まりにあり、駐車場から低い石段を登って参拝後、
境内を散策していたら、ご住職が本堂の障子を開けて出てこられ
本堂に入らせてもらいました。

そのうえ、内陣右の部屋に保管されている貴重な品々を拝見しました。

     吉野塗りの茶器、20種の桜の絵入りの漆器、夜桜塗りの茶器、
     らせん状に香の粉を置く香時計(漆器)、
     携帯用の茶道具(漆器)、蓋が盃になる酒桶(漆器)、
     後南朝の忠義王(自天王の弟)の鎧、
     蔵王権現の石頭、歓喜天の仏がん、などです。

 自天王と弟忠義王は南朝最後の後亀山天皇の玄孫で、
南北朝後、北朝の血統が途絶えたあと、旧南朝方として吉野で守っていた
御璽(ぎょじ:天子の印)を赤松家再興を願う遺臣らが奪い返そうとして、
吉野に攻め入った際、戦死したとのことです。(長禄の変1457年)
自天王のお墓は北山宮のあった北山村滝川寺(竜泉寺)にもあるらしいですが、
お二人のお墓は金剛寺にあるとのこと。
毎年2月5日福源寺と金剛寺でお二人をしのぶ朝拝式が行われているようです。

 本堂の観世音菩薩には、住職読経のなか一人ずつお参りしました。
本堂左手には、石段の上に納骨塔として大きな福祉供養塔があります。
その坂には朴の木の大きな青葉が影を作っていました。

                南朝の寺は山上朴青葉        常朝

                夜桜塗の茶器を見せらる青葉寺   常朝


                (福源寺本堂)
                (福源寺の説明板) 

 その後、ダム湖畔のレストラン「シーズン」で昼食後、ダムの上流の2つ目の
井戸地区の橋を渡って約3キロの山中にある井光(いかり)神社を訪ねました。
神社は山の中腹の斜面にある集落の北端にあり、向いには青葉の山が
迫っています。神社の前の水槽には鯉が泳いでおり、そばの土手には
雪の下が咲いていました。

 日本書紀によると、神武天皇が宇陀から軽装の兵を連れて吉野に巡行された際、
井戸の中から、身体が光り尻尾のある人が出てきたので、
天皇が問うと、、国津神で井氷鹿(いひか)と名乗ったとあります。
その井光を祀る神社ですが20軒位の井光集落の鎮守のようです。

 今は井光をいかりとも読み、地名も神社名も「いかり」とよむようです。
神社の本殿は小ぶりですが、右手に観音寺があります。本堂は閉まっており、
鐘楼の撞木(しゅもく)には補強の鉄板が巻かれていました。
井氷鹿の子孫でしょうか、頭の光った人が近くの家の屋根工事をしていました。

                風光る井光の里の山高し    常朝

                (井光神社)

                (井光の里の道)      
 2時半ころ、井光の里を降りて、169号線をさらに5キロほど南下、
柏木・北和田口から橋を渡り、北東の山を2キロほど登って金剛寺を訪ねました。
山道の分かれ道を右にとった行き止まりの駐車場に神の谷公民館があり、
その左手の石段の上です。

 金剛寺も役行者開基とされ、福源寺でお聞きした、自天王、忠義王を
祀っています。
この地は神の谷といい、忠義王の河野宮があった所らしいです。
無住寺ながら立派な本堂があり、右手には自天親王神社と
収納庫があり、左手は自天王陵という石碑、宮内庁の高札とともに、
自天王(北山宮・尊秀王)と忠義王(河野宮)のお墓があります。
自天親王神社の境内には山からの清水が流れ、桜の木が赤い実をつけ、
紫に熟した実は落ちていました。一つ口に入れると南朝の歴史のような(?)
苦い味がしました。


                自天王神社に苦き桜の実    常朝

                (金剛寺本堂) 
                (金剛寺の説明板)
                (自天親王神社)
                (後南朝由来の額)
                (自天王陵の石碑)

  4時前寺を辞して、橿原のロイヤルホテルで小句会後6時半頃解散しました。
梅雨前の好天に恵まれ、深吉野の青葉の山ときれいな空気を楽しめました。