2013年11月30日土曜日

184.伊丹市・昆陽池公園から柿衛文庫

「アカシア紀行・俳句」2013年11年28日(木)     前へ     次へ

  11月も終わりのやや寒い日、いつものメンバー7人で、
伊丹市の昆陽池公園から、「みやのまえ文化の郷」の柿衛文庫など
を訪ねました。

 大阪方面から車では、阪神高速池田線(11号線)の北端、
池田ICから171号線を西南へ5キロの昆陽交差点を北上、800メートルの
立体駐車場が便利です。(今回は名神尼崎ICから北上しました)

 10時半頃に昆陽池公園の駐車場に着き、池の周囲の歩道を
歩きました。
歩道の脇の林の中で、幼稚園児が先生と団栗や松ぼっくりなどを
拾っているのに声をかけながら、野鳥観察橋に着きました。

 観察橋の北側には長さ100メートル程の給餌池があり、
左(西)端に餌場があります。
給餌池はコンクリートと石の弓状の突堤で囲まれていますが、
中には、真鴨、尾長鴨、緋鳥鴨、金黒羽白、白鳥、百合鴎などが
泳いでいました。

 給餌池の周囲にも先生と園児20人くらいがいて、鴨などを、
騒ぎながら見ていました。

 水鳥説明板のそばにいた鴨一羽を10人くらいの園児が囲んで、
かわいい! などと声を掛けています。

 男の人が一人給餌場で餌を投げ始めると、
鴨たちが飛んできて着水し、餌場に集まりました。
鴨達のうしろで、鴉も一羽、餌を欲しそうに見ていました。
そばにはメタセコイアに似たラクウショウ(落羽松、沼杉)があり、
根元に気根がぼこぼこ出ています。直径3センチほどの丸い実を
ぶら下げており、触るとバラバラになって落ちます。

 飛んで着水する水鳥たちを見ていると、鴨の水尾(波)は
2、3メートルなのに、百合鴎(都鳥)は1メートル以下と小さく
着水のしかたも上品でした。

 園児達にバイバイして野鳥観察場を出ました。


       団栗を拾ふ子袋をひきずりて     常朝

       鴨一羽園児の群に囲まるる      常朝

             (昆陽池公園駐車場:クリックで拡大:以後同じ)
             (公園案内図)
             (昆陽池)
             (野鳥観察橋)
             (ラクウショウの気根)

 昆陽池から南東3キロほどの伊丹1丁目北の「さと」で
昼食をいただいた後、1丁目交差点西100メートルの地下駐車場に
駐車し、「みやのまえ文化の郷」にある「柿衛文庫」を訪ねました。

 柿衛文庫は、伊丹の酒造家「岡田利兵衛(柿衛翁)」が収集した、
俳書を中心に書物3500、短冊など7500ものコレクションを保管展示
しており、今回の展示は雪をテーマにした、絵、掛軸、短冊など
でした。

 部屋は狭いですが、芭蕉直筆の絵巻、宗祇、鬼貫などの短冊の中に、

 右城暮石師の短冊

   雪嶺の尚彼方なる一雪嶺

 がありました。


 文庫を拝見してから、同じ敷地内の「岡田家住宅」と酒蔵を
見学しました。2人の男性説明員が丁寧に説明してくれました。

 酒蔵では、米を蒸す大きなかまど(2つ)と、発酵した「もろみ」を
絞る(上槽)搾り機を見せてくれました。
江戸時代の搾り機の跡が出てきたので、そこに搾り機を再現した
とのこと。

 柿衛文庫の名前の由来となった柿は、台柿という、へたの周囲が
盛り上がって、黒い筋のある柿で、今は2代目の柿の木が2本庭に
あります。
岡田家住宅内の売店で台柿を見せてもらいました。
江戸の文人達がこの柿を愛でたので、岡田家代々の当主の雅号に
柿の字がつくようになり、利兵衛氏の雅号は柿を守る意味で柿衛と
したため、文庫の名としたようです。


       翁忌の文庫に芭蕉の絵巻見る   常朝

       二代目の台柿を見る酒蔵跡     常朝

             (柿衛文庫入り口)
              (右城暮石の短冊)
              (酒蔵の蒸し釜)
              (蒸し釜の焚き口)
             (もろみの搾り機)
             (台柿)

 その後、南300メートルほどの、伊丹シテイホテルの喫茶コーナーで
小句会後5時頃解散しました。句会が終わる頃はロビーの客も少なく、
静かになりました。

2013年11月16日土曜日

183.東吉野・龍泉寺、きのこの館から石鼎庵

「アカシア紀行・俳句」2013年11年15日(金)     前へ   次へ

  11月の坂本龍馬の命日(かつ誕生日)、妻のお龍の涙雨かと
思われる雨の金曜日、いつものメンバー7人で、奈良県・東吉野村の
明治維新の先がけ・天誅組の墓などを訪ねました。

 桜井市阿部の天平庵で集合、女寄峠、内原、拾生から車を進め、
まず東吉野村・鷲家口の龍泉寺を訪ねました。

 龍泉寺は国道166号線のJAの東にある曹洞宗のお寺で、
インターネットによると1558年開創、瑞応山、というそうです。
天誅組の菩提寺でもあり、参道には藤本鉄石の歌碑もあります。

 坂道を登ると狭い駐車場があり、石段を登るとすぐ野見観音堂と
本堂(左)があります。右手には見事な紅葉が雨に濡れていました。
境内には樹齢1500年のもあるという岩松(岩ひば)の鉢が沢山置かれて
います。

 本堂の前には象の彫刻のある大きな玉石の香盤、裏には唐箕や馬鍬が
置かれ、山茶花、萩が咲いていました。軒に釣られた釣瓶には山柿が
挿されています。

 参拝後、傘をさして境内を散策していると、お寺の大黒さま(奥様)が
出てこられて、我々を本堂に案内していただいたうえ、
お茶や和菓子(水羊羹)までいただきました。

 大黒さまによると、俳句の人びとも時々訪れるようで、堂内の壁に
俳句の色紙額が2、3掛けられています。
本堂に続く観音堂の御前立野見観音像も参拝しました。
1.5メートル以上ありそうな立派な木彫でした。
本尊の前に立たれるので御前立ちというそうです。
ご本尊の聖観音は後の厨子に祀ってあるので見えません。
ここの観音様は首から上の病気にご加護があるとのこと。

 樹齢1500年の岩松鉢(2つ)もお聞きし、吉野杉の割り箸と、
天皇が使われるのと同じ吉野杉の割り箸もいただきました。
きのこの館に予約電話までしていただいて、お寺を辞した頃は、
雨も小止みになっていました。

       雨粒のあちこち揺らす紅葉かな    常朝

       玉石の香盤濡らす冬の雨       常朝

             (龍泉寺野見観音堂:クリックで拡大:以後同じ)      
             (玉石の香盤)
             (樹齢1500年の岩松2鉢)
             (御前立観音像)

 今日のテーマの一つであるきのこ料理をいただくため、
国道を西へ戻り、鷲家口の旧道・伊勢街道にある、天誅組のお墓の前の
「きのこの館」を訪ねました。店内には大きな木机があり、
真ん中の四角い大火鉢に金網が置かれています。
カウンターにワークキャップの女将がひとり料理を整えてくれました。

 まず、しめじ、しいたけ、エリンギなどを金網で焼いて、
それぞれが生姜醤油でいただきいたあと、きのこ飯定食を頂きました。
なめこ汁にはひらたけ、しいたけも入っていました。
きのこ飯と大根餅も美味でした。
お店の右手に3つあるしめじ栽培室も見せていただき、
それぞれきのこを買いました。
 
 その後、金網の猪垣を開けて、道路の川向うの湯之谷墓所に入り、
天誅組の藤本鉄石、松本奎三、森下幾馬などのお墓を参拝しました。
川にはきれいな水が流れ、梅もどきが赤い実をつけ、杉の根元には
野菊が咲いていました。

       さまざまな寒茸焼きて迷い箸   常朝

       天誅組終焉の地のなめこ汁    常朝

       天誅組墓地へ猪垣開けてゆく   常朝

            (きのこの館)        
             (しめじ栽培室)
             (天誅組志士の墓)

 鷲家口から、西南へ約3キロの東吉野村小川地区に入り、
村役場東側の南都銀行近くにある、龍泉寺の大黒さまに教えてもらった
和菓子店「西善」で和菓子を買ったあと、さらに南3キロの「小(おむら)」
地区の原石鼎庵旧居跡を訪ねました。

 石鼎庵(旧居跡)に着いた頃は、雨は完全に上がり、日差さえ差して
暖かくなっていました。
石鼎庵は、小地区の道路の北側の少し坂道を登った台地に移設されています。
坂には綿虫がふわりと飛んでいました。

 右手には薬師堂、左手は廃校となった小学校があり、
薬師堂との間の高台には、宇多喜代子の句碑(2011年5月14日建立)

     生国はここかもしれず蓬摘む  喜代子

 があります。
 
 石鼎庵には誰もおられず、勝手に戸を開けて入りました。
以前に訪れたので、座敷には上がらず、周囲を散策しました。

薬師堂の扉ははずされ、畳は上げられていました。
左手の庚申堂には石地蔵が立ち「身代わり猿」が沢山かかっています。

 廃校となった小学校の庭半分はゲートボール場となっています。
校舎の左部分はリハビリセンター、右は民俗資料館となっていますが、
誰もいません。右手に大きい奉安殿のような建物があり、
東側に天照寺の屋根が見えます。時々鵙のような鳥声が聞こえました。


       薬師堂扉はあらず冬の鵙     常朝

       飛び飽きてまた向き変ふや雪婆  常朝

     (石鼎の 淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守 の亜流ですが)

            (石鼎庵)        
             (薬師堂)
             (宇多喜代子句碑)

 前回同様、桜井市阿部交差点近くの天平庵で小句会を楽しんで
5時半頃解散しました。
午前中は涙雨でしたが、午後は日差さえ出て小春日となった秋の1日でした。

2013年11月2日土曜日

182.天理市永久寺跡から崇神天皇陵

「アカシア紀行・俳句」2013年10年31日(木)     前へ   次へ

  台風も過ぎてやっと好天になった10月最後の日、
いつものメンバー7人で、奈良県・天理市の永久寺跡などを訪ねました。

 永久寺は平安時代永久年間に建立された、奈良では4番目に大きい寺
だったようですが、明治の廃仏稀釈で廃寺となり、
今は本堂跡、潅頂堂跡などは柿畑となり、池が残っているだけです。

 天理街道(169号線)の勾田交差点を東へ約1.6キロの国道25号線から
ビニールハウスの横を右へそれると、永久寺跡への入口です。
池の東の奥に駐車スペースがあります。

 池の周囲の柿畑には、刀根早生柿が沢山残っていました。
木によっては、普通の渋柿もありましたが、
早生柿はもう収穫のピークが終わったようでした。


 池の北西の土手に芭蕉の句碑

  うち山やとざましらずの花ざかり 宗房(芭蕉の本名)

があります。句碑には渋柿と熟し柿が供えてありました。
(うち山は地名、とざまはよその土地の人々の意味とのこと)


 池の北側の木立には、後醍醐天皇菅御所跡の碑があります。
京から吉野へ落ちのびられたとき一時入寺された跡とのことです。 

 今も池の土手には一部紅葉の桜が数本あります。
池の南側は山裾で、小川が流れており、南東には休憩所も
あります。

 西側に休耕田もあり、周囲の木に烏瓜が沢山ぶら下がっています。
柿の木にさえ烏瓜の蔓が伸びて実が筆柿と混ざっていました。
柵に目の大きな案山子が立て掛けられ、空をにらんでいます。
また葡萄ハウスの廃屋があり中にも烏瓜がありました。

 ときどき山の辺の道を歩く人々が通ります。
3組くらいの小学生のグループも先生に引率されて、
草すべり用でしょうか、紐付きのダンボール板をそれぞれ持っていました。

 元気な子供達で挨拶すると、右手でハイタッチをする男の子も
女の子もいました。こちらも元気をもらいました。

       寺跡の池に映して柿畑        常朝

       柿の実に紛れてゐたる烏瓜      常朝

             (永久寺跡の池:クリックで拡大:以後同じ)
             (永久寺跡説明板)
             (内山永久寺の図)
             (後醍醐天皇菅御所跡)
             (案山子)
             (芭蕉(宗房)句碑)

 169号線の「さと」で昼食をいただいた後、三昧田交差点を東へ、
竹の内町の柿集配所を訪ねましたが、誰もいず、すでに出荷の時期が
終ったようでした。

 169号線朝和小学校前の果物店「おやまと」で柿や蜜柑を買ったあと、
さらに南の柳本町の崇神天皇陵を訪ねました。

 鴨が来ているかと期待しましたが、濠の水は少なく、低くなった
水面に水鳥は見えません。石段を登って拝所までは行けますが、
濠岸の左右への扉は南京錠で閉ざされ、中で草刈機で作業する
業者の人が時々鍵を開けて出入りしていました。

 左手(北側)の飛び地の丘(陪塚?)にあるオガタマの木には、
青い実が付いていましたがまだ小さいでした。
陵の周囲に歩道があり、左の道を行くと、アワダチソウの中に
フジバカマの群落があり、芒だけが風に揺れていました。
 丘の上や周囲を、まだ十分赤くはない赤とんぼが、
数匹飛んでいました。カマキリが一匹トランクに乗って、
崇神天皇陵から桜井の天平庵まで移動しました。

       天皇陵に鴨来てをらず秋暑し   常朝

       陵の辺に風の道なり銀芒     常朝

            (崇神天皇陵)
             (崇神天皇陵拝所)
             (崇神天皇陵の濠)
             (崇神天皇陵周辺地図)
             (トランクに乗っていたカマキリ)

 前回同様、桜井市阿部交差点近くの天平庵で小句会を楽しんで
5時頃解散しました。
10月最後の秋らしいお天気に恵まれた1日でした。