2016年2月25日木曜日

231. 奈良・飛鳥神社から石川精舎跡

「アカシア紀行・俳句」2016年2月24日(水)    前へ     次へ

  時々日差があっても冬の寒さが戻った2月下旬、 いつものメンバー6人で奈良・飛鳥神社と
その周辺を訪ねました。

 飛鳥神社は正式には飛鳥坐神社といい、2月最初の日曜日のお田植え祭「おんだ祭」は
3年前我々も訪ねました。

 10台分位の駐車場に駐車し、鳥居へ進むとすぐ左に桃色の枝垂梅が咲いていました。
社務所の軒には鉄製の銅鐸が掛っていて、心棒を紐で揺らすととても良い音がします。

 石段を登って拝殿から参拝し、男性女性のシンボルの形の縁結びの神石など、
奇石の列を見てから、神社の南側の道を東へ約300メートル歩いて、大原神社を訪ねました。

 途中、右の竹藪の手前に白梅の木が数本、5分咲き位でした。
梅の景色を見ていると、うしろの神社の杜からうぐいすの声が聞こえました。
今年はじめて聞く鶯の初音で、飛鳥に来た甲斐がありました。
道脇の野菜畑に木枠があり、その中に立てた2本の木柱に没年月日が書いてあります。
裏を見るとそれぞれ初代、二代メリーの墓とありました。おそらく愛犬の墓でしょう。

 大原神社は小さな神社ですが、藤原鎌足の生家の跡といわれ、鎌足の産湯の井戸という、
石組みの小さな井戸枠があります。
男性が3、4人、井戸の左手の土手の雑木を伐って、切株をワイヤーで巻き上げて土手の上に
引き上げていました。井戸跡周辺の整備作業でしょうか。
我々が井戸へ降りようとすると、チェーンソーやワイヤー巻き上げ機を止めて、
通してくれました。

 大原神社の手前、西50メートル位の岡のふもとに「大伴夫人の墓」とされる石塔があります。
これは鎌足の母上の墓だそうです。

 鎌足は若い頃、このあたりの生家から、南の飛鳥の宮へ通勤をしていたのでしょう。

       日当たれる飛鳥の杜に初音聞く   常朝

       産湯の井戸よく手入れされ梅の村  常朝

        (飛鳥神社枝垂れ梅)      
              
        (結びの神石)
        (飛鳥神社拝殿)
        (大原神社説明板)
       
        (大原神社)
        (鎌足産湯の井戸)
        (大伴夫人の墓)

 お昼まで時間があったので、近くの飛鳥寺を訪ねました。
松瀬青々の句碑「ましまして斗帳に花の主かな」や、入鹿の首塚を拝見しました。
首塚のあたりは槻(つき:けやき)の広場だったそうで、644年鎌足が中大兄皇子と出会った蹴鞠(けまり)も
ここで行われたそうです。 首塚の周囲は菜畑で、男性がひとり白菜畑を手入れしていました。
また南側の畑には土器などの発掘現場があり、まもなく埋め戻されるそうです。

       首塚の風に菜の花揺れゐたる    常朝

        (飛鳥寺)
         (入鹿の首塚)
        (首塚南の発掘現場)

 その後、橿原観光ホテルで昼食をいただき、石川精舎跡を訪ねました。
石川精舎は、蘇我馬子が、百済から送られた仏像を石川の我が家に安置したとのことで、
おそらく仏教の学習や修行をさせた「寺」のようなものでしょう。

 近鉄の橿原神宮前駅の東600メートルほどの石川池(剣池)の西100メートル位にある
畝傍東小学校の北の本明寺という寺が石川精舎跡らしいです。

 迷いながら我々が着いたのは、草原の空地の東側の塀で囲まれた小さな無住寺でした。
狭い境内に入ると、馬子の供養塔といわれる大きな石の五輪の塔があります。
何の表示や説明板がなく、本当に精舎跡かと疑いたくなりました。
しばらくすると老夫婦がハイキング姿で来られたので、聞くと飛鳥から歩いてきたとのこと。
時々飛鳥へ来た時立ち寄るそうです。

 境内の隅には高い梅の木がほぼ満開でした。
本堂の右手には椿の木が花を沢山落としていました。

       精舎跡今は無住寺落椿       常朝

       精舎跡五輪塔ひとつ春寒し     常朝

        (本明寺-石川精舎跡)
         (本明寺の白梅)

 その後再び橿原観光ホテルに戻り、ケーキをいただきながら小句会後4時半頃解散しました。
寒の戻りながら一応天気に恵まれ、飛鳥の古都をゆっくり散策できた一日でした。

2016年2月13日土曜日

230. 京都・高台寺の涅槃図

「アカシア紀行・俳句」2016年2月12日(金)    前へ    次へ

  立春をすぎて少し暖かくなった日、 いつものメンバー6人で京都・東山の高台寺をを訪ねました。
主な目的は涅槃図です。

 高台寺は豊臣秀吉の妻「ねね殿」(北政所:出家後は高台院)が秀吉の菩提を弔うため慶長11年
(1606)に建てた寺ですが、家康が堀直政に普請を命じたそうで、直政像が開山堂に祀られています。
また「ねね殿」はその前慶長4年から、京都御苑の南にあった高台院殿に住まいしたそうです。

 我々が高台寺駐車場に着いた11時前は車も少なかったですが帰る頃はほぼ一杯になっていました。
東山の大きな霊山観音像を見上げながら、北の拝観受付の方へ歩くと、湖月茶屋の脇の大きな梅の木は
早くも2分咲き位の花をつけていました。 右手には道真公を祀った天満宮があります。

         (高台寺:クリックで拡大:以下同じ)
          (高台寺の梅)
         (この裏側は墓地用の馬穴置き場)

 拝観料600円を納めて、苔の庭を右へ曲がり、観月台と観月橋のある池を左に眺めました。
池のほとりには古い梅の薄い苔を載せた太い幹(鉄幹)が切られて、脇から若い枝が蕾を
つけていました。

 本堂である方丈に靴を袋に入れて上がりました。
廊下からは見事な白砂と石の庭が見えます。
部屋の左手に大きな涅槃図が掛けてあり、女性が10人以上の人々の前で絵解きをしていました。

 説明が一通り終わり人々が離れたあと、我々も図の近くに進み、改めて説明を聞きました。
他の涅槃図と違い、図の周囲に八相図という50センチ四方位の絵が8面あり、釈迦の誕生(前)から
修行、悟り、涅槃までの生涯が描かれています。
左の修行の絵には、少女スジャータが痩せた釈迦にミルクを与えている図もかろうじて見えます。

 涅槃図の左の菩提樹には母・摩耶夫人が与えたとぃう薬袋が掛けられ、
横たわる釈迦の前では、菩薩や弟子、動物たちがそれぞれなげき悲しんでいる様子が
描かれています。

 女性は、図には十二支の動物たちが描かれているが、十二支に猫が入っていないので、
猫が描かれていない。その理由は、釈迦のために薬を持ってくるように弟子のアーナンダ
からいわれて運んできたネズミを猫が邪魔したためだ、と説明してくれました。
虎も涙を見せずに大きな目でこちらを見ていました。

       鉄幹に薄き苔のせ梅ふふむ     常朝

       涅槃図の虎は涙をこらへゐし    常朝

       涅槃図の猫探すほど暇あらず   常朝

        (方丈の庭)       
          (開山堂と観月橋)
        (庭園説明図)
        (臥龍池と臥龍廊)

 その後、方丈を出ると、東側の臥龍池の岸で青鷺と鴨が一羽ずつ池を見ていました。
この鷺は去年夏同窓生と拝観のとき、観月橋の屋根に止まっていた青鷺でしょうか。
まず2つの池に挟まれた開山堂をお参りしました。
開山堂には絵天井があり、中央に三江和尚像、左に堀直政像、右に兄夫婦、木下家定と妻雲照院
の像が祀られています。

 臥龍池を巡る道を登るとねね殿の霊を祀る霊屋(おたまや)があります。
坂の土手には、早くも落椿がありました。

 霊屋の内陣には左手にねね殿の像、右手に秀吉の像があり、中央は菩薩像の厨子を
須弥壇に祀っています。
いずれも美しい金泥を配した蒔絵で飾られており、この高山寺蒔絵は有名だそうです。
さらに登って傘亭と時雨亭を拝見しました。

 傘亭と時雨亭は説明の女性によると、いずれも伏見城から移転した茶室とのこと。
正式な茶室のような作りではなく、秀吉とねね殿のごく身内の茶室といった感じですが、
傘亭は伏見城の池の畔にあったので、小舟が茶室にそのまま入れるようにまん中が土間で
入口が大きくあいています。

 時雨亭は伏見城の高台にあって見晴らしを楽しんだのでしょう、茶室は二階になっています。
孟宗竹の竹藪の道を降りて、駐車場に戻り、三条通り東の蹴上のウエスチン都ホテル2階で
遅い昼食をいただき、奈良に戻りました。

       ねね殿の霊屋(たまや)高きに落椿  常朝

       船入りし茶室は広し春日差       常朝

        (傘亭への道)
               
         (船が入った茶室・傘亭)
        (時雨亭)

 途中青谷梅林を見ようと城陽南中学校そばまで行きましたが、4年前訪ねたはずの梅林の入口
がわからず、時間も遅かったのであきらめて、旧ドリームランド前のココスで小句会を楽しんだあと解散しました。
2月にしては暖かい早春の京都・東山を楽しんだ一日でした。

2016年2月7日日曜日

229. 奈良・登弥神社の粥占

「アカシア紀行・俳句」2016年2月1日(木)    前へ    次へ

  先月末から比べて やや寒くなった立春前の曇り空の日、 大和郡山市石木町の
登弥神社(とみじんじゃ)の粥占(かゆうら)を訪ねました。

 登弥神社は、物部氏の始祖と言われる ニギハヤヒのミコト(饒速日尊)をはじめ、
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と誉田別命(ほむだわけのみこと)ほかを祀る古い神社です。

  神社に着いた6時半頃、まだ境内は暗かったですが、すでに30~40人位の人が集まり
神官と数人が境内の焚き火にあたっていました。 筒粥祭と書いた旗が数本立てられ、
境内の左側には 大きな釜を3~4人の女性が囲み、小豆粥が炊かれていました。 

 拝殿には祭壇が組まれて、中央に占いの竹の束(筒竹)と、さまざまなお供え物が置かれています。
竹は長さ20センチ位で、37本が束ねられており、中にはすでに5時頃から釜で炊かれた
小豆粥が入っています。

 粥占は、炊かれている小豆粥の中に筒竹を入れて、その中に入る米や小豆の量で、
農作物の豊凶を占うようです。一本ずつ農作物に対応していますが、筒には農作物の名前が
記入されず、束の竹の順番で決まっているようです。

 7時、宮司を含め5人の神官と、郡山市長はじめこの地域の農業関係者15人の参列者が
拝殿に上がり、太鼓の音と共に神事が始まりました。

 その頃には境内はほの明るくなってきましたが、少し雨がぱらつきすぐ止みました。
祝詞のあと参列者それぞれが玉串奉奠(たまぐしほうてん)をして、約20分位で神事が終わり、
拝殿に長い机が置かれて、占いの竹を切り割って、それぞれの農作物の豊凶を占いました。
占いの吉凶は竹の中の粥と小豆の量によるようです。

 神官の一人が竹束から一本ずつ竹を渡し、別の神官が細長い包丁で割って占いをし、
コシヒカリ「下(げ)」などと読み上げ、書記担当の神官が記入していきます。
占いの豊凶に関係なく淡々と結果が読み上げれている中、書記は時々脇の火鉢に手を
かざしていました。

 20分位で農作物に対応する37本の竹が割られて占いが終わり、
結果が拝殿の右に掲示された紙に記入されました。

 その後、参加者全員に釜の小豆粥がふるまわれました。
行列の最後の方にならび小豆粥をいただきましたが、見かけより量が多く、寒い身体が
温まりました。 運転担当の妻にすすめられ笹酒のお神酒もいただきました。
焚き火で温めた1.5メートル程の青竹4,5本に入れたお神酒を、直径3センチほどの竹の杯
でいただきました。

 その後、焚き火にあたって毎年参加されているらしい参列者の男性、女性と話しました。
神社北東の新県立病院など周囲が大きく開発され、年々自然が減っていくのが気がかりで、
子供達にも自然も行事も残したいといった話でした。


       参道に夜明けの光粥占す      常朝

       粥占の竹音立てて割られけり    常朝

       粥占の平気な声で出来は下と   常朝

         (登弥神社拝殿:クリックで拡大:以下同じ)
          (祭壇の筒竹)
         (明るくなった境内)
         (筒竹を割る神官)
         (割られた占いの筒竹)
         (小豆粥のふるまい)
         (粥占の結果表)
         (粥占の説明板)

 神社の西に占い用の竹藪がありますが、やや寒いので今回は見ずに帰宅しました。
テレビなどでは時々粥占を見ますが、本物を見るのは始めてで、
とても科学的とは思えない占いですが、昔の人々の神仏に頼る気持も想像できました。
また数百年もこの行事を続ける地元の人々の努力にも感銘を受けました。