「アカシア紀行・俳句」2008年6月30日(月)
6月最後の曇りの日、妻、義兄姉らと和歌山・紀ノ川市西野山の
華岡青洲の家、粉河寺から岩出市の根来寺を訪ねました。
華岡青洲は江戸時代世界で始めて麻酔薬を実用化した高名な医者ですが、
その家は24号線高野口の南、小島交差点の北約700メートルほどにあります。
今はフラワーヒル(華岡の直訳?)公園として記念館(ミュージアム)もあり、
その近くに家も大部分が復元されて春林軒の名で保存されています。
麻酔の薬草の四種の一つ「曼陀羅華(まんだらげ)」も育てられています。
公園内の直売店では、地元の野菜のほか「すもも」も売っていました。
近くにある青洲のお墓もお参りしました。
ミュ-ジアム内のバイキングレストランで昼食をいただいた後、
粉河寺を訪ねました。
粉河寺は奈良時代の猟師大伴孔子古(おおとものくじこ)が童行者の彫った
千手観音像を安置して創建し、鎌倉時代の盛時は寺領4万石だったとのことです。
境内に入ると立派な蓮葉型の御手洗の堂があり、杓に水を汲むとすぐに
蚊が寄ってきました。
立派な本堂への崖地を石庭として、大きな蘇鉄(そてつ)が植えられています。
庭師に聞くと、祭礼(お練り)まで4日しかなく一人なので忙しい。
蘇鉄も剪定しすぎると新葉が出なくなるので、芽がでても剪定しない株もある
とのこと。
大門を撮影して、さらに南の根来寺を訪ねました。
根来寺は平安時代高野山の高僧覚鑁(かくばん)が建て、のちに高野山の大伝法
院を移し、室町時代には寺領70万石、僧兵1万余の大寺となり、根来寺僧が種子
島から持ち帰った鉄砲伝来後は強力な鉄砲軍団となり、のちに雑賀衆とともに
秀吉の軍勢に焼き討ちされたとのことです。
そのとき残った太子堂や大塔には弾痕が残っています。
紀州徳川家の御殿の一部を移築した名草御殿や美しい庭も拝見しました。
その後24号線を北上し、栄山寺のレストラン「吉野川」で小句会のあと
解散しました。
青洲の里に李の実の青し 常朝
御手洗の杓を持つなり蚊の寄り来 常朝
弾痕は顔の高さよ青葉照る 常朝
(華岡青洲の里ミュージアム)
(曼陀羅華(まんだらげ))
(粉河寺の石庭)
(根来寺の庭)
2008年7月15日火曜日
64.北京・長城から天壇、故宮博物院など
「アカシア紀行・俳句」2008年6月21日(土)~24日(火)
梅雨の晴間をぬって、妻、次男一家4人、次男の妻の母上と北京に
4日間の旅をしました。
旅程は子供2人の次男夫婦の希望をいれて、北京在住の長男夫婦が
実にきめ細かく作ってくれました。
総勢は日本から7人、北京一家の3人、それに2日目からは、
長男がいつも通勤でお世話になっている運転手さんとその知り合いの
運転手さん合計12人の団体旅行になりました。
初日は、現地時間16時に着いた北京空港からHISのリムジンで送られた
ホテルに長男一家が迎えにきてくれて近くの四得公園にいきました。
子供たち3人を遊ばせるのが主な目的ですが、大きなゴム製の動物遊具、
光線銃つきの小列車、ゴムボールに乗る池など珍しいものがありました。
夜は近くの紫金府で初めて本格的な中華料理をいただきました。
このとき長男夫婦の子(男6才)が母親から頼まれて、店員の女性に、
中国語で「果物がありますか」と聞いてくれ、皆が杏(あんず)を
いただくことができました。
この子は北京の外国人向けの幼稚園で英語と中国語を習いました。
(というか、日本語が使えない幼稚園でした)
2日目は早朝から2台の車で北京市の北方、慕田峪(ぼでんこく、
Mutianyu)の長城に行きました。
7時半にホテルを出て9時前には長城下につくと、土産物店が20軒以上
あって熱心に客を呼んでいます。
我々は、リフトで長城へ登り、11時ころまで長城の上を歩いたり、眼下の
山々を眺めました。リフトで登る山にも栗の花が咲いて、桃の木には青い実が
なっていました。
下りはすべり台で滑り降りました。
ひとりずつ小さな船状の椅子に坐り、中央にあるブレーキ棒を倒すと進み、
引くとブレーキがかかる仕掛けです。約5分程で下に着きましたが、
スリルがありなかなか楽しい乗り物でした。
少し南の魚師傳で昼食後天壇を歩き、秀水街で買物をしました。
天壇は明、清朝の皇帝が天にお祈りをする場所だったようで、立派な円形の
建物がいくつもあります。出口の北門ではお年寄りが数人、琴や胡弓などの
楽器を演奏して楽しんでいました。
夕食は東三環長虹橋東南のレストラン「大董(だいとう)」での北京ダック
でしたが、そこのシェフが我々を調理場に案内して大きな炉でダックを焼いて
いる所を見せてくれ、また部屋で目の前で調理をしてくれました。
3日目は天安門から故宮博物院を歩きました。
4歳とほぼ2歳の子供が歩きつかれたので交替で抱いて歩いたのも
良い思い出です。
京味面大王でジャージャーメンをいただいたあと、胡同(フートン)という
古い町並みを5台の人力三輪車で約1時間かけて回りました。
先頭の一台は案内役の女性で日本語で説明してくれました。
途中四合院と呼ぶ民家の中も見せてもらい、北京の人々の生活の一端を
のぞきました。
のち長男一家の家(マンション20階)を訪ね、北京オリンピックの
鳥の巣スタジアムを見たあと、ショーつきのレストラン大宅門で夕食を
いただき、ホテルまで送ってもらい、一家と運転手さんと別れました。
4日目は6時半のリムジンで北京空港に行き、13時関西空港に着きました。
活気あふれる中国の首都を実感できた旅でした。
眼前に長城迫り栗の花 常朝
燕飛ぶ故宮の庭の人の波 常朝
(慕田峪の長城)
(天壇の龍の石段)
(故宮博物院・大和殿)
(胡同の街)
(鳥の巣スタジアム)
梅雨の晴間をぬって、妻、次男一家4人、次男の妻の母上と北京に
4日間の旅をしました。
旅程は子供2人の次男夫婦の希望をいれて、北京在住の長男夫婦が
実にきめ細かく作ってくれました。
総勢は日本から7人、北京一家の3人、それに2日目からは、
長男がいつも通勤でお世話になっている運転手さんとその知り合いの
運転手さん合計12人の団体旅行になりました。
初日は、現地時間16時に着いた北京空港からHISのリムジンで送られた
ホテルに長男一家が迎えにきてくれて近くの四得公園にいきました。
子供たち3人を遊ばせるのが主な目的ですが、大きなゴム製の動物遊具、
光線銃つきの小列車、ゴムボールに乗る池など珍しいものがありました。
夜は近くの紫金府で初めて本格的な中華料理をいただきました。
このとき長男夫婦の子(男6才)が母親から頼まれて、店員の女性に、
中国語で「果物がありますか」と聞いてくれ、皆が杏(あんず)を
いただくことができました。
この子は北京の外国人向けの幼稚園で英語と中国語を習いました。
(というか、日本語が使えない幼稚園でした)
2日目は早朝から2台の車で北京市の北方、慕田峪(ぼでんこく、
Mutianyu)の長城に行きました。
7時半にホテルを出て9時前には長城下につくと、土産物店が20軒以上
あって熱心に客を呼んでいます。
我々は、リフトで長城へ登り、11時ころまで長城の上を歩いたり、眼下の
山々を眺めました。リフトで登る山にも栗の花が咲いて、桃の木には青い実が
なっていました。
下りはすべり台で滑り降りました。
ひとりずつ小さな船状の椅子に坐り、中央にあるブレーキ棒を倒すと進み、
引くとブレーキがかかる仕掛けです。約5分程で下に着きましたが、
スリルがありなかなか楽しい乗り物でした。
少し南の魚師傳で昼食後天壇を歩き、秀水街で買物をしました。
天壇は明、清朝の皇帝が天にお祈りをする場所だったようで、立派な円形の
建物がいくつもあります。出口の北門ではお年寄りが数人、琴や胡弓などの
楽器を演奏して楽しんでいました。
夕食は東三環長虹橋東南のレストラン「大董(だいとう)」での北京ダック
でしたが、そこのシェフが我々を調理場に案内して大きな炉でダックを焼いて
いる所を見せてくれ、また部屋で目の前で調理をしてくれました。
3日目は天安門から故宮博物院を歩きました。
4歳とほぼ2歳の子供が歩きつかれたので交替で抱いて歩いたのも
良い思い出です。
京味面大王でジャージャーメンをいただいたあと、胡同(フートン)という
古い町並みを5台の人力三輪車で約1時間かけて回りました。
先頭の一台は案内役の女性で日本語で説明してくれました。
途中四合院と呼ぶ民家の中も見せてもらい、北京の人々の生活の一端を
のぞきました。
のち長男一家の家(マンション20階)を訪ね、北京オリンピックの
鳥の巣スタジアムを見たあと、ショーつきのレストラン大宅門で夕食を
いただき、ホテルまで送ってもらい、一家と運転手さんと別れました。
4日目は6時半のリムジンで北京空港に行き、13時関西空港に着きました。
活気あふれる中国の首都を実感できた旅でした。
眼前に長城迫り栗の花 常朝
燕飛ぶ故宮の庭の人の波 常朝
(慕田峪の長城)
(天壇の龍の石段)
(故宮博物院・大和殿)
(胡同の街)
(鳥の巣スタジアム)
63.奈良・北山十八間戸から東大寺・大仏殿裏の蛍狩
「アカシア紀行・俳句」2008年6月12日(木)
6月の晴れた日の夕方、妻、妻の友人、義兄姉らと奈良東大寺・大仏殿裏の
蛍狩に行きました。
集まった夕方7時ころはまだ明るかったので、暗くなるまでの数十分、
鎌倉・江戸時代の療養所跡である奈良・北山十八間戸に行きました。
北山十八間戸は、鎌倉時代の僧忍性がハンセン氏病の患者を救うため
般若寺の北東に建て、のち戦火で焼かれたので江戸時代に今の場所に移され、
後に復元されたもので、奈良市の北、旧奈良坂沿いの般若寺の南にあります。
名のとおり十八間の長い平屋ですが瓦屋根がきれいでした。
その後、東大寺大仏殿の北側の小川のほとりに行きました。
すでに薄闇に10人くらいの人がいて、蛍が数疋ゆっくりと飛んでいました。
見ていると蛍の数が増えてきて、20~30匹はいたでしょうか。
蛍は源氏蛍の仲間でやや大きいので大仏蛍と呼ばれています。
ある集団は同じ周期で蛍火を点滅させていました。
二月堂の湯屋の軒にも1、2疋が飛んでいきました。
蛍を見ていたら東大寺の太郎鐘がごーーんと響きました。
一人の子が一匹の蛍を手の平に置いて見ていたら急に飛んで逃げたので
まわりの子供達が大歓声をあげました。
その夜旧ドリームランド前のレストランで小句会の後解散しました。
大仏蛍呼吸合わせて火を灯す 常朝
掌を透かす如くに蛍かな 常朝
(北山十八間戸)
6月の晴れた日の夕方、妻、妻の友人、義兄姉らと奈良東大寺・大仏殿裏の
蛍狩に行きました。
集まった夕方7時ころはまだ明るかったので、暗くなるまでの数十分、
鎌倉・江戸時代の療養所跡である奈良・北山十八間戸に行きました。
北山十八間戸は、鎌倉時代の僧忍性がハンセン氏病の患者を救うため
般若寺の北東に建て、のち戦火で焼かれたので江戸時代に今の場所に移され、
後に復元されたもので、奈良市の北、旧奈良坂沿いの般若寺の南にあります。
名のとおり十八間の長い平屋ですが瓦屋根がきれいでした。
その後、東大寺大仏殿の北側の小川のほとりに行きました。
すでに薄闇に10人くらいの人がいて、蛍が数疋ゆっくりと飛んでいました。
見ていると蛍の数が増えてきて、20~30匹はいたでしょうか。
蛍は源氏蛍の仲間でやや大きいので大仏蛍と呼ばれています。
ある集団は同じ周期で蛍火を点滅させていました。
二月堂の湯屋の軒にも1、2疋が飛んでいきました。
蛍を見ていたら東大寺の太郎鐘がごーーんと響きました。
一人の子が一匹の蛍を手の平に置いて見ていたら急に飛んで逃げたので
まわりの子供達が大歓声をあげました。
その夜旧ドリームランド前のレストランで小句会の後解散しました。
大仏蛍呼吸合わせて火を灯す 常朝
掌を透かす如くに蛍かな 常朝
(北山十八間戸)
2008年7月14日月曜日
62.奈良・藤岡家住宅と広橋梅林・廃校
「アカシア紀行・俳句」2008年6月9日(月)
6月の雨模様の日、妻、義兄姉らと5人で奈良・五條市小和町の豚牧場と
藤岡家住宅を見学後、奈良・下市町の広橋梅林を訪ねました。
豚牧場では期待の生きた豚は見られず、レストハウス「ばあく」でソーセージや
ハムを買っただけでした。
藤岡家は五條市近内町、JR北宇智駅の西約1キロにある、江戸時代天保3年
以来の民家で俳人故藤岡玉骨氏のご実家です。
昔庄屋だった大邸宅の復元と公開をすすめているNGO「うちのの館」の
若い職員の人が、親切に我々に米倉や玉骨さんゆかりの俳句の短冊などを
見せてくれました。
復元工事がほぼ終わり、11月から公開されるとのことでした。
五條市栄山寺近くのレストラン「吉野川」で昼食後、広橋梅林に行きました。
広橋梅林は近鉄吉野線・下市口駅から南へ約8キロほどの下市町広橋地区の
山地にある梅林です。
我々は車で五條市から吉野川沿いに下市町に入りましたが、
車では通常橿原神宮方面から169号線を南下、吉野川(紀ノ川)の
千石橋を渡ってさらに7キロほど黒滝方面へ南下します。
広橋地区の坂の途中に選果場があり、一人おられた梅農家の人に尋ねると、
地区の共同選果場でなく、その農家専用とのことでした。
梅干の箱が山と積まれていましたが、殆どが3年間漬けるものとのことで、
1箱6千円とのこと。われわれは見せてもらうだけにしました。
のち、頂上に近い広橋小学校の廃校跡にいきました。
平成11年に下市小学校に合併されましたが校舎や運動場はほぼ残っています。
小さな校舎は2階建てですが、すぐ前の崖の上が運動場で、運動場からの坂に
橋がかけられ、校舎の2階につながっていました。
運動場に登ると、卒業記念の長さ2メートルほどの絵が掛けられており、
校庭から見られる山々の絵が、山名入りで描かれていました。
下市町広橋出身の歌人「前登志夫」も昔この小学校で学んだことでしょう。
橋の崖側にはうつぎ(空木)の白い花が咲いていました。
広橋のお葉付き銀杏を見たのち、梅林に行き青梅を見ましたが、
道端に一羽の雉がいました。今年は梅不作で実が少ないそうです。
橿原ロイヤルホテルで小句会後解散しました。
盛り沢山な一日でしたが俳句の方はもう一つでした。
青梅や庄屋に見たる句短冊 常朝
校庭は崖の上なり囀れり 常朝
校庭より二階への橋山空木 常朝
(藤岡家住宅)
(広橋小学校跡)
(卒業記念の絵)
6月の雨模様の日、妻、義兄姉らと5人で奈良・五條市小和町の豚牧場と
藤岡家住宅を見学後、奈良・下市町の広橋梅林を訪ねました。
豚牧場では期待の生きた豚は見られず、レストハウス「ばあく」でソーセージや
ハムを買っただけでした。
藤岡家は五條市近内町、JR北宇智駅の西約1キロにある、江戸時代天保3年
以来の民家で俳人故藤岡玉骨氏のご実家です。
昔庄屋だった大邸宅の復元と公開をすすめているNGO「うちのの館」の
若い職員の人が、親切に我々に米倉や玉骨さんゆかりの俳句の短冊などを
見せてくれました。
復元工事がほぼ終わり、11月から公開されるとのことでした。
五條市栄山寺近くのレストラン「吉野川」で昼食後、広橋梅林に行きました。
広橋梅林は近鉄吉野線・下市口駅から南へ約8キロほどの下市町広橋地区の
山地にある梅林です。
我々は車で五條市から吉野川沿いに下市町に入りましたが、
車では通常橿原神宮方面から169号線を南下、吉野川(紀ノ川)の
千石橋を渡ってさらに7キロほど黒滝方面へ南下します。
広橋地区の坂の途中に選果場があり、一人おられた梅農家の人に尋ねると、
地区の共同選果場でなく、その農家専用とのことでした。
梅干の箱が山と積まれていましたが、殆どが3年間漬けるものとのことで、
1箱6千円とのこと。われわれは見せてもらうだけにしました。
のち、頂上に近い広橋小学校の廃校跡にいきました。
平成11年に下市小学校に合併されましたが校舎や運動場はほぼ残っています。
小さな校舎は2階建てですが、すぐ前の崖の上が運動場で、運動場からの坂に
橋がかけられ、校舎の2階につながっていました。
運動場に登ると、卒業記念の長さ2メートルほどの絵が掛けられており、
校庭から見られる山々の絵が、山名入りで描かれていました。
下市町広橋出身の歌人「前登志夫」も昔この小学校で学んだことでしょう。
橋の崖側にはうつぎ(空木)の白い花が咲いていました。
広橋のお葉付き銀杏を見たのち、梅林に行き青梅を見ましたが、
道端に一羽の雉がいました。今年は梅不作で実が少ないそうです。
橿原ロイヤルホテルで小句会後解散しました。
盛り沢山な一日でしたが俳句の方はもう一つでした。
青梅や庄屋に見たる句短冊 常朝
校庭は崖の上なり囀れり 常朝
校庭より二階への橋山空木 常朝
(藤岡家住宅)
(広橋小学校跡)
(卒業記念の絵)