「アカシア紀行・俳句」2011年11月19日(土)
ほぼ日本全国雨の予報の土曜日、いつものメンバー6人で三重県柘植の
徳永寺、福地城跡、油日神社などを訪ねました。
我々は、雨の中9時半すぎ名阪国道針ICの針テラスで集合し、
まず名阪国道東約30キロの上柘植ICから北上して1.5キロの、柘植小学校の
西にある徳永寺を訪ねました。
徳永寺は伊賀市柘植町にあり、天正10年6月2日、織田信長が本能寺で
討たれた時、堺にいた徳川家康が急きょ三河に帰る時立ち寄った浄土寺です。
10時半頃着いた寺は檀家の法事の最中で、雨の中読経が続いていました。
インターネットによると、この時の家康の逃避行は「伊賀越え」として語られ、
この時のもてなしに家康から寺領と葵紋の使用を許されたようです。
住民が見張りに立ったという山もすぐ後にあり、薄紅葉が見えました。
大きな本堂の左には閻魔堂があり、赤顔の閻魔大王の左右に司録、司命らが
白い顔で並んでいます。葵紋の鬼瓦も軒に立ててありました。
閻魔堂の官吏白顔冬の雨 常朝
家康の寄りたる寺や冬の雨 常朝
(徳永寺:クリックすると拡大:以下すべて)
(鐘楼)
(閻魔堂)
その後訪ねた福地城跡は寺の南、名阪国道沿いにある福地氏の城跡で、
明治以来、芭蕉公園として整備されています。
伊賀SAの北側の旧国道25号から狭い道を南に入るとすぐ見える木立の中を
走ると、数台の駐車場があり、城趾の碑と芭蕉公園の木碑がありました。
雨の中低い石段を登ると、石垣の上に木造のレストランがありますが、
閉店中でした。さらに進むと、芭蕉生誕の地の石碑と四阿(あずまや)があり、
中の机に投句箱が置かれ、上に入選句の額が掛かっていました。
左手に「ふるさとや臍の緒に泣くとしの暮」の芭蕉句碑があり
紅葉もいくつか見えました。
入口の芭蕉生誕350年モニュメント広場には寒桜が咲いていました。
雨が止みそうにないので、早々に城を退去し伊賀SAで昼食をいただきました。
百歩程で登れる小城大紅葉 常朝
(福地城跡)
(福地城跡説明板)
(城跡のあずまや)
(城跡の紅葉)
昼食後、伊賀ICからUターンして、上柘植交差点から約6キロ北上し、
甲賀の油日神社を訪ねました。
油日神社はアカシア紀行80(2009年1月15日)にも書きましたが、
聖徳太子創建と伝える甲賀の社です。
祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)と猿田彦神で、鳥居の先には
立派な楼門と回廊・格子戸のある拝殿の奥に本殿があります。
いずれも桧皮葺で一部は苔さえ生えています。
この神社では、昔甲賀忍者の土豪が信長対策などの集会を何度も
開いたでしょう。
左手には35メートルの高野槇の木、さらに左奥には鐘楼、
右手には馬の銅像、池、社務所と資料館があります。
白洲正子さんが「隠れ里」で紹介した能面などを見学したかったのですが、
衣装などの展示会が雨のため中止で、2年前同様、資料館も閉館でした。
右手の杜から拝殿の軒まで続く溝には冬の雨水が音立てて流れていました。
甲賀者集ひし社冬の雨 常朝
斎庭の溝音立て流る冬の水 常朝
桧皮葺よりひかりの雫冬の雨 常朝
(油日神社)
(奉納の油缶)
(油日神社拝殿)
その後、近くの神宮寺を参拝しました。
ここも浄土宗で法然聖人13才の像があり、使われている(!)釣瓶の井戸、
紅葉の銀杏、朴の木があり、本堂右手の砂利にタマサンゴが
赤や黄、緑の実をつけています。
雨の中、朴の葉が寺の砂利に音を立てて散っていました。
神宮寺の砂利に音立て朴落葉 常朝
(神宮寺)
(神宮寺の朴落葉)
かなりの雨の中、針テラスに戻り、メルカートロッソで小句会後
午後4時半頃解散しました。
天気に強い我々のグループでは一日中雨の吟行は始めてでした。
2011年11月20日日曜日
2011年11月6日日曜日
138.斑鳩・上宮遺跡公園から太子道
「アカシア紀行・俳句」2011年11月5日(土)
立冬近い、曇のち雨の予報の土曜日、いつものメンバー7人で奈良・斑鳩の
上宮遺跡公園から太子道を訪ねました。
太子道は聖徳太子が、愛馬黒駒に乗り、従者調子丸と飛鳥-斑鳩を往復された、
いわば太子の通勤ルートです。(参照:藤原浩氏のエッセイの地図 など)
国道25号線の中宮寺東交差点を南下して斑鳩東小学校の東にある
上宮遺跡公園に着いたのは朝9時すぎでした。
ここは、平成3年の発掘調査で、大型の建物数件の跡が確認され、
平城宮と同型の瓦が出たことから、称徳天皇の行宮(離宮)と推定され、
埋め戻された跡に作られた公園です。
このあたりは成福寺跡も含め聖徳太子の宮跡と伝えられているようです。
公園には円形の石舞台があり、観月能(毎年9月22日)、
桜祭能(4月第1日曜)などが行われているようです。
山茶花が咲き、桜や百日紅、さつき、もみじなどが紅葉し始めていました。
また聖徳太子像や万葉集などの歌碑がいくつかあります。
太子像裾にかかれる芒の穂 常朝
(上宮遺跡公園:クリックすると拡大:以下すべて)
(上宮遺跡公園説明板)
(上宮遺跡の一部)
(上宮遺跡説明板)
しばらく散策後、東南約1.2キロの安堵町・太子道の飽波神社に行きました。
小さい神社ですが、氏子の人が箒で境内を掃除していて我々のために、
御手洗所の水栓を開けてくれました。
左手奥には、太子の腰掛け石(舟石)があり、拝殿には「なもで踊り」の
絵馬が掛けられています。拝殿右にモチノキの巨樹があり、木立に鵙が
鳴いていました。
鵙鳴けり太子憩ひし杜の石 常朝
(飽波神社)
(飽波神社説明板)
(なもで踊りの絵馬)
その後、西名阪国道を越えて南下し、川西町の島の山古墳、比売久波
(ひめくわ)神社を訪ねました。
島の山古墳は全長190mの周囲に濠のある前方後円墳ですが、掘り出された
石が6つあるとのことで、石棺の天井石が神社の踏石になっています。
濠は緑色ににごり、鴨や鳰が泳いでいます。
古墳本体は竹藪が覆い、裾の方に柿の実が2つ赤色を添えていました。
古墳の西隣は、比売久波神社で、久波御魂神(くばみたま)と天八千千姫
(あまはちち)を祀る養蚕の神社で、御神体は桑の葉だそうです。
境内左手奥に、箕輪寺跡があり、明治の頃小学校だった頃の本堂の写真が
ありました。
左の遥拝所前では広場に子供達の描いた絵に銀杏が散っています。
また裏手の草原にはコマツヨイグサが黄色い花をつけていました。
子等描きし斎庭の線画銀杏散る 常朝
(島の山古墳)
(比売久波神社)
(比売久波神社説明板)
11時半すぎ、東南へ600メートルほどの三宅町・屏風の太子道にある
白山神社と屏風・杵築神社を訪ねました。
道の東側の杵築神社は拝殿もありますが、白山神社は小さい本殿があるだけです。
(杵築神社)
(白山神社)
杵築神社の境内には木立があり、左手に「屏風の清水」と名付けた小さな
井戸枠があります。「矢尻の井」の石碑も立ち、聖徳太子が従者の弓で地面を
掘ると清水が湧いたので、以来、太子がこの地を通られる時、
愛飲されたと説明板にあります。
今は井戸枠内に石が置かれているだけです。
拝殿には、「おかげ踊り」と「聖徳太子接待」の絵馬が掛けられています。
大きな狛犬の口は赤く歯は白く塗られて、左の阿吽の吽の足には禁足紐が
3本結んでありました。
また、神社入口には水草「あざさ」の鉢がいくつか置かれています。
道の西側の白山神社には、太子の乗馬像の写真と説明板があり、
ここにあった像が第2次大戦で供出されたそうです。今は本殿の奥に
2メートル四方位の石の台があるだけです。
狛犬の塗りの歯白し冬隣 常朝
(屏風の清水:矢尻の井)
(聖徳太子接待の絵馬)
(白山神社・太子像の説明板)
その後、中宮寺東交差点北側の「玄米庵」で昼食をいただき、
雨模様になったのとメンバーの夕方の予定のため、矢田の「茶暮里」で
小句会後3時すぎ解散しました。
太子道は、今日はまだその北半分以下しか通っていませんが、
地元の人々が太子と触れ合ったあとを訪ねることができました。
立冬近い、曇のち雨の予報の土曜日、いつものメンバー7人で奈良・斑鳩の
上宮遺跡公園から太子道を訪ねました。
太子道は聖徳太子が、愛馬黒駒に乗り、従者調子丸と飛鳥-斑鳩を往復された、
いわば太子の通勤ルートです。(参照:藤原浩氏のエッセイの地図 など)
国道25号線の中宮寺東交差点を南下して斑鳩東小学校の東にある
上宮遺跡公園に着いたのは朝9時すぎでした。
ここは、平成3年の発掘調査で、大型の建物数件の跡が確認され、
平城宮と同型の瓦が出たことから、称徳天皇の行宮(離宮)と推定され、
埋め戻された跡に作られた公園です。
このあたりは成福寺跡も含め聖徳太子の宮跡と伝えられているようです。
公園には円形の石舞台があり、観月能(毎年9月22日)、
桜祭能(4月第1日曜)などが行われているようです。
山茶花が咲き、桜や百日紅、さつき、もみじなどが紅葉し始めていました。
また聖徳太子像や万葉集などの歌碑がいくつかあります。
太子像裾にかかれる芒の穂 常朝
(上宮遺跡公園:クリックすると拡大:以下すべて)
(上宮遺跡公園説明板)
(上宮遺跡の一部)
(上宮遺跡説明板)
しばらく散策後、東南約1.2キロの安堵町・太子道の飽波神社に行きました。
小さい神社ですが、氏子の人が箒で境内を掃除していて我々のために、
御手洗所の水栓を開けてくれました。
左手奥には、太子の腰掛け石(舟石)があり、拝殿には「なもで踊り」の
絵馬が掛けられています。拝殿右にモチノキの巨樹があり、木立に鵙が
鳴いていました。
鵙鳴けり太子憩ひし杜の石 常朝
(飽波神社)
(飽波神社説明板)
(なもで踊りの絵馬)
その後、西名阪国道を越えて南下し、川西町の島の山古墳、比売久波
(ひめくわ)神社を訪ねました。
島の山古墳は全長190mの周囲に濠のある前方後円墳ですが、掘り出された
石が6つあるとのことで、石棺の天井石が神社の踏石になっています。
濠は緑色ににごり、鴨や鳰が泳いでいます。
古墳本体は竹藪が覆い、裾の方に柿の実が2つ赤色を添えていました。
古墳の西隣は、比売久波神社で、久波御魂神(くばみたま)と天八千千姫
(あまはちち)を祀る養蚕の神社で、御神体は桑の葉だそうです。
境内左手奥に、箕輪寺跡があり、明治の頃小学校だった頃の本堂の写真が
ありました。
左の遥拝所前では広場に子供達の描いた絵に銀杏が散っています。
また裏手の草原にはコマツヨイグサが黄色い花をつけていました。
子等描きし斎庭の線画銀杏散る 常朝
(島の山古墳)
(比売久波神社)
(比売久波神社説明板)
11時半すぎ、東南へ600メートルほどの三宅町・屏風の太子道にある
白山神社と屏風・杵築神社を訪ねました。
道の東側の杵築神社は拝殿もありますが、白山神社は小さい本殿があるだけです。
(杵築神社)
(白山神社)
杵築神社の境内には木立があり、左手に「屏風の清水」と名付けた小さな
井戸枠があります。「矢尻の井」の石碑も立ち、聖徳太子が従者の弓で地面を
掘ると清水が湧いたので、以来、太子がこの地を通られる時、
愛飲されたと説明板にあります。
今は井戸枠内に石が置かれているだけです。
拝殿には、「おかげ踊り」と「聖徳太子接待」の絵馬が掛けられています。
大きな狛犬の口は赤く歯は白く塗られて、左の阿吽の吽の足には禁足紐が
3本結んでありました。
また、神社入口には水草「あざさ」の鉢がいくつか置かれています。
道の西側の白山神社には、太子の乗馬像の写真と説明板があり、
ここにあった像が第2次大戦で供出されたそうです。今は本殿の奥に
2メートル四方位の石の台があるだけです。
狛犬の塗りの歯白し冬隣 常朝
(屏風の清水:矢尻の井)
(聖徳太子接待の絵馬)
(白山神社・太子像の説明板)
その後、中宮寺東交差点北側の「玄米庵」で昼食をいただき、
雨模様になったのとメンバーの夕方の予定のため、矢田の「茶暮里」で
小句会後3時すぎ解散しました。
太子道は、今日はまだその北半分以下しか通っていませんが、
地元の人々が太子と触れ合ったあとを訪ねることができました。