2013年4月27日土曜日
171.宇陀の青蓮寺から仏隆寺
「アカシア紀行・俳句」2013年4年25日(木) 前へ 次へ
穀雨の頃の晴れながらやや風の寒い日、いつものメンバー7人で、
奈良・宇陀市の青蓮寺、仏隆寺を訪ねました。
最初は宇陀山中の大蔵寺を訪ねるつもりで、名阪国道・針ICの
針テラスに9時すぎ集合し、369号線を南下、榛原の南の栗野の山中に
車で登りかけましたが、途中でパトカーに止められました。
住職らしい方がおられて、入山禁止なので戻ってと言われました。
仏事目的かつ予約者以外は入山できないようです。
(あとでホームページをよく読むと、写真撮影などレジャー関連の
入山は禁止とのこと、5年前はOKでしたが)
入山者をとめるなら、もっと手前でするべき、とか、ぶつくさ
いいながら、山道でUターンして、同じく山中の青蓮寺を訪ねることに
しました。
370号線の捨生(すてう)を東へ右折、166号線で約6キロの菟田野・
宇賀志から山中の道を4キロほど登ると青蓮寺です。
ここは以前も訪ねましたが、奈良時代中将姫が配流された草庵を
もとに創立された尼寺(浄土宗)で、青葉の山中にあります。
谷に半分乗り出した駐車場に駐車し、坂道をゆっくり登って行くと、
軽自動車でケアマネジャーの女性が登ってきました。
あとで聞くとご住職を訪ねてこられたがお留守とのこと。
若い尼僧がおられて、我々を本堂、阿弥陀堂に案内してくれました。
本堂には中将姫の小さい坐像が祀られています。
寺の縁起によると、中将姫は14才のとき配流され、2年半後、狩りに来た
父上と再会、当麻寺で法如尼として当麻曼荼羅を感得されたのち、
19才のとき再びこの地に戻り、お堂を建てたそうです。
境内には見事な八重桜やシャクナゲなどが咲いており、
八重桜の下にはかわいいヒキガエルの子が一匹跳ねていました。
以前にあった物資運搬用のレール・ウエイは、車道ができたためか
なくなっていました。
八重桜下に尼僧の語らヘリ 常朝
中将姫の坐像小さし百合の花 常朝
(青蓮寺本堂:クリックで拡大:以後同じ)
(八重桜)
(中将姫遺跡の説明板)
(シャクナゲ)
(霧島?)
捨生に戻り、あきのの湯の「おときや」で昼食をいただいた後、
再び166号線東の水分神社橋から北上、369号線の榛原高井から、
約2キロの仏隆寺を訪ねました。
仏隆寺は弘法大師が最古の茶を栽培した地に、高弟堅恵(けんね)が
創設した真言宗の寺ということで、今は室生寺の末寺だそうです。
ここも以前彼岸花の頃などに何度か訪ねましたが、名物の大桜は終り、
人影はすくなかったです。
それでも、一本の大きな山桜が満開で白い花を散らし始めていました。
駐車場の無人販売所には鹿避けの網カーテンが掛けられていました。
階段を避けて右の坂道を登ると、土手に野甘草の若芽が伸びて、
春の草花が色々咲いています。
本堂下の道で大黒さま(お寺の奥様)とお会いしたら、
畑の草取りの最中だそうです。
高い猪垣の中の一反ほどの畑では、住職が草刈機を使っていました。
鹿や猪の被害は猪垣でなんとか止められたが、アライグマは土を掘って
侵入しじゃがいもなどを食べるそうです。
坂の途中の谷にある楓が柔らかい若葉を揺らしていました。
境内に入ると藤棚に白い藤が咲いて、大きな山梨の木が白い花を
つけていました。
500円の抹茶のサービスもあるようですが、畑の大黒様しか女性は
おられないようなので、あきらめて坂をおりました。
やはらかき風にやはらか若楓 常朝
本堂も庫裏も留守なり梨の花 常朝
(仏隆寺の地蔵堂)
(仏隆寺の説明板)
(山桜)
(本堂)
(仏隆寺の畑)
(山梨の花)
その後、針テラスに戻りメルカートロッソで小句会の後、解散しました。
朝はやや寒く昼はやや暑い位の、お天気に恵まれた春の一日でした。
2013年4月13日土曜日
170.河内・龍泉寺、烏帽子形八幡神社から岩瀬の塞神
「アカシア紀行・俳句」2013年4年11日(木) 前へ 次へ
春寒の晴れた日、いつものメンバー7人で、河内・富田林市の龍泉寺などを訪ねました。
集合地を葛城市の山麓道、屋敷山公園として、
まず、水越峠から309号線を西に約20キロの龍泉寺に参詣しました。
龍泉寺は河内長野駅の北東、約10キロの岳山のふもとにある古いお寺です。
入山料300円を納めていただいた説明書によると、
今は真言宗の霊場ですが、595年、推古天皇の勅命によって
蘇我馬子がこの地の池にいた悪龍を追い出して創建したとのこと。
その後、水が枯れ衰退した寺地で、
弘法大師が7日間雨乞いの祈祷をして雨が降り龍の八大龍王が戻り、
堂塔が再建されたそうです。
南北朝時代に岳山の山頂に南朝方の城を築いたので、戦乱で伽藍を
失い衰退し、織田豊臣時代、江戸時代から、修復されたようです。
境内には後醍醐天皇の皇子「尊性法親王」のお墓もあります。
池ほとりには雨乞いの井戸に、竜王の社が建てられ、
3つの池には聖天、弁財天、叱天(だてん)の社があります。
訪ねたときは池の工事中で水がほとんどなく、数人が島で整備をしていました。
井戸の石柵の一部は壊れて、社も古くなっていますが、戸を開けると、
井戸に春の水が溜まっていました。
護摩堂や威古神社を拝見してから車で、山を降りる途中のオレンジ園に
立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
すみれ咲く大師祈りし井戸ほとり 常朝
護摩堂の床にたまりし春埃 常朝
(龍泉寺仁王門:クリックで拡大:以後同じ)
(龍泉寺本堂)
(竜王の池)
(雨乞いの井戸)
(行者堂:護摩堂)
その後、河内長野駅の西側の烏帽子形八幡神社を訪ねました。
南側からは石段が高くて急なので、西側へ回り、広い道路脇に駐車して
鳥居をくぐり参拝しました。
烏帽子形八幡神社は、烏帽子形山のふもとにあります。
ウィキペディアによると、この山に楠木七城(河内七城)のひとつとされる
烏帽子形城があり、楠小二郎が城の鎮護として創祀したものとのこと。
また神社の説明板によると、1480年創建され、すさのおの命、
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、重要文化財とのことです。
本殿の左に古い宝屋(宝蔵)があり、その左に稲荷神社が
あります。我々のほか誰もいない静かな杜にときどき烏が鳴き、
小鳥のさえずりがありました。
宝蔵の壁に落書囀れり 常朝
(烏帽子形八幡神社)
(本殿)
(説明板)
神社を出ると1時を過ぎていたので、
河内長野駅の南東5キロの岩瀬のレストラン歩笑夢(ぽえむ)に行きました。
歩笑夢は南海電鉄高野線の千早口駅東の川沿い1キロほどで、
道の南側の川の対岸です。
遅い昼食をいただいてから周囲を散策しました。
庭には水仙、ムスカリなどの花が植えられ、桜や白い花の木がありました。
レストランの川下に蓮華田があり、蓮華が風に揺れ、川岸に虎杖
(いたどり)が伸びていました。
少し雨模様でしたが、川のさらに南側の山麓道に歩くと、大きな
「塞神(さいのかみ)」の案内板があり、その右に石組みの祠が2つあります。
菊などが供えられ、椿の花が落ちていました。
説明板によると
塞の神は、邪神を統御する神と信じられたが、
道祖神との習合で、旅行神、縁結び、安産の神となり、
猿田彦が祭神 とのことです。
塞の神はイザナギノミコトと関係があるようです。
近くの坂を登ると大きな桜にブランコがあり、ロープがたぐりあげて
ありました。
白とピンクの花の木が見えたので、
たまたまおられた農家の男性に聞くと、桃(源平桃)でした。
また白いラッパ形の花の木を聞くと、びっくり茱萸(ぐみ)とのことでした。
茱萸の枝は成長が早くて、剪定しないと垂れ下がるようです。
男性によると、北原白秋の唄「砂山(海は荒海向こうは佐渡よ)」
の3番の歌詞に「かえろよ茱萸原分けて」とある言葉の意味が、
茱萸を育ててやっとわかったと言われました。
レストランの白い花の木を聞くと梨の木と教えてくれました。
花蓮華笑い合ふごと揺れゐたる 常朝
塞の神祀る山道茱萸の花 常朝
(レストラン歩笑夢)
(塞の神案内板)
(塞の神)
(茱萸の花)
散策後、歩笑夢で小句会を楽しんだ後、170号線を北上、
西名阪道経由で奈良に帰りました。
春寒の晴れた日、いつものメンバー7人で、河内・富田林市の龍泉寺などを訪ねました。
集合地を葛城市の山麓道、屋敷山公園として、
まず、水越峠から309号線を西に約20キロの龍泉寺に参詣しました。
龍泉寺は河内長野駅の北東、約10キロの岳山のふもとにある古いお寺です。
入山料300円を納めていただいた説明書によると、
今は真言宗の霊場ですが、595年、推古天皇の勅命によって
蘇我馬子がこの地の池にいた悪龍を追い出して創建したとのこと。
その後、水が枯れ衰退した寺地で、
弘法大師が7日間雨乞いの祈祷をして雨が降り龍の八大龍王が戻り、
堂塔が再建されたそうです。
南北朝時代に岳山の山頂に南朝方の城を築いたので、戦乱で伽藍を
失い衰退し、織田豊臣時代、江戸時代から、修復されたようです。
境内には後醍醐天皇の皇子「尊性法親王」のお墓もあります。
池ほとりには雨乞いの井戸に、竜王の社が建てられ、
3つの池には聖天、弁財天、叱天(だてん)の社があります。
訪ねたときは池の工事中で水がほとんどなく、数人が島で整備をしていました。
井戸の石柵の一部は壊れて、社も古くなっていますが、戸を開けると、
井戸に春の水が溜まっていました。
護摩堂や威古神社を拝見してから車で、山を降りる途中のオレンジ園に
立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
すみれ咲く大師祈りし井戸ほとり 常朝
護摩堂の床にたまりし春埃 常朝
(龍泉寺仁王門:クリックで拡大:以後同じ)
(龍泉寺本堂)
(竜王の池)
(雨乞いの井戸)
(行者堂:護摩堂)
その後、河内長野駅の西側の烏帽子形八幡神社を訪ねました。
南側からは石段が高くて急なので、西側へ回り、広い道路脇に駐車して
鳥居をくぐり参拝しました。
烏帽子形八幡神社は、烏帽子形山のふもとにあります。
ウィキペディアによると、この山に楠木七城(河内七城)のひとつとされる
烏帽子形城があり、楠小二郎が城の鎮護として創祀したものとのこと。
また神社の説明板によると、1480年創建され、すさのおの命、
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、重要文化財とのことです。
本殿の左に古い宝屋(宝蔵)があり、その左に稲荷神社が
あります。我々のほか誰もいない静かな杜にときどき烏が鳴き、
小鳥のさえずりがありました。
宝蔵の壁に落書囀れり 常朝
(烏帽子形八幡神社)
(本殿)
(説明板)
神社を出ると1時を過ぎていたので、
河内長野駅の南東5キロの岩瀬のレストラン歩笑夢(ぽえむ)に行きました。
歩笑夢は南海電鉄高野線の千早口駅東の川沿い1キロほどで、
道の南側の川の対岸です。
遅い昼食をいただいてから周囲を散策しました。
庭には水仙、ムスカリなどの花が植えられ、桜や白い花の木がありました。
レストランの川下に蓮華田があり、蓮華が風に揺れ、川岸に虎杖
(いたどり)が伸びていました。
少し雨模様でしたが、川のさらに南側の山麓道に歩くと、大きな
「塞神(さいのかみ)」の案内板があり、その右に石組みの祠が2つあります。
菊などが供えられ、椿の花が落ちていました。
説明板によると
塞の神は、邪神を統御する神と信じられたが、
道祖神との習合で、旅行神、縁結び、安産の神となり、
猿田彦が祭神 とのことです。
塞の神はイザナギノミコトと関係があるようです。
近くの坂を登ると大きな桜にブランコがあり、ロープがたぐりあげて
ありました。
白とピンクの花の木が見えたので、
たまたまおられた農家の男性に聞くと、桃(源平桃)でした。
また白いラッパ形の花の木を聞くと、びっくり茱萸(ぐみ)とのことでした。
茱萸の枝は成長が早くて、剪定しないと垂れ下がるようです。
男性によると、北原白秋の唄「砂山(海は荒海向こうは佐渡よ)」
の3番の歌詞に「かえろよ茱萸原分けて」とある言葉の意味が、
茱萸を育ててやっとわかったと言われました。
レストランの白い花の木を聞くと梨の木と教えてくれました。
花蓮華笑い合ふごと揺れゐたる 常朝
塞の神祀る山道茱萸の花 常朝
(レストラン歩笑夢)
(塞の神案内板)
(塞の神)
(茱萸の花)
散策後、歩笑夢で小句会を楽しんだ後、170号線を北上、
西名阪道経由で奈良に帰りました。