「アカシア紀行・俳句」2012年3月4日(日)
3月の桃の節句の翌日曜日、西行法師ゆかりの地を見ようと、
いつものメンバー7人で大阪府河南町・弘川寺から高貴寺などを訪ねました。
弘川寺は3年前の秋に訪ねましたが、その日も雨でした。
(アカシア紀行95、2009年11月6日記)
今回もあいにく曇から雨の予報でした。
ここは、葛城山の西の山麓にある、飛鳥時代に役の行者が開いた、
天武天皇の勅願寺で、鎌倉時代、西行法師が晩年を過ごした寺です。
南北朝の頃、南朝方が奮戦し弘川城主が自刃したとのこと(由緒書)。
我々は車で南阪奈道路の太子ICを出て、今回はすぐ右折れし
ほぼ一本道のグリーンロードを通って弘川の地につきました。
9時半頃ついたお寺の本堂は障子がしっかり閉じられ、本尊の薬師如来坐像は
拝見しませんでした。
西行忌は旧暦2月16日ですから、新暦では3月下旬でしょう。
少し忌日には早いですが、石段の坂を登って西行法師のお墓を
お参りしました。
坂途中の西行堂の桧皮葺には1円玉が無数に光っており、
小綬鶏が数回鳴きました。
西行法師が「ちょっとこい」と誘うのでしょう。
お墓に供えられた蜜柑や春菊などを見て、春落葉が敷き詰めた円墳の周囲を
歩きました。
下の畑では落葉の焚火をしながら、農夫が一人鍬を打っていました。
今回は西行庵跡まで登らず降りようとした頃雨が降って来ました。
本坊の受付は無人で、駐車場にいますとの掲示で、メンバーがご住職を呼びに
行き、やっと本坊を拝見できました。
今回は奥の西行記念館を拝見できませんでしたが、長い廊下に沿って、
部屋や山に続く立派な庭を拝見しました。
本坊前の梅畑は紅白の梅がほぼ3分咲きでした。
堂裏に作務衣を干せり梅の寺 常朝
小綬鶏や西行墓は坂の上 常朝
(弘川寺本堂:クリックすると拡大:以下すべて)
(西行墓)
(弘川寺本坊の庭)
11時半頃、国道309の道の駅「かなん」の向いのレストラン「愚留芽」で昼食を
いただき、小雨の中、平石の山中の高貴寺を訪ねました。
駐車場に着くと、お寺の老犬がしっぽを引きずりながら我々に寄ってきて、
迎えてくれました。
高貴寺は、飛鳥時代に役の行者が開いた、文武天皇の勅願寺といわれ、
江戸時代中期の高僧「慈雲尊者」が再興した真言宗の寺です。
山門から入ると左手に長い道場があり、その先に本堂と庭があります。
庭には明治期の女流歌人「石上露子」の没後50年(2009年)を記念した、
歌碑「人の世の旅路のはての 夕づく日あやしきまでも 胸にしむかな」があります。
また本堂の左の講堂裏の谷には観音経の経塚があり熊野や金剛山の修験者の
新しいお札が置かれていました。
紅梅の蕾はまだ固く、菩提樹の葉についた実が沢山木に残っていました。
谷側の道の左側の崖には山茶花二輪見え、戻る途中の溝に、花樒(しきみ)と
梅の枝が数本差されていました。
老犬の出迎へありし梅の寺 常朝
梅の枝を溝に挿したる山の寺 常朝
(高貴寺本堂)
(高貴寺説明板)
(石上露子歌碑)
(高貴寺の老犬)
(高貴寺の道場)
その後、太子カントリークラブ東側を北上して、小野妹子の墓を
訪ねました。
小野妹子は飛鳥時代の遣隋使で華道の祖とされているようです。
科長神社の右手の石段を上がると、途中に道祖小野妹子の石碑があり、
さらにその上の丘に妹子の円墳があります。
玉垣で大切に守られていました。
墓地からは早春のうすみどりの棚田が見おろせます。
円墳の右手に休憩所、石段途中左手に水琴窟がありましたが、水を流しても
鳴りませんでした。
妹子の墓明るく照らす春の雨 常朝
水琴の音を聞きたや春の雨 常朝
(小野妹子墓)
(休憩所)
(墓地より早春の棚田)
(水琴窟)
2時すぎ、府道32号線を西へ走り、太子町南交差点の西の
「サントル ドウ ビラージュ」で小句会後解散しました。
雨は小止みになっていましたが雨水の候の静かな吟行でした。
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