5月の若葉風の土曜日、いつものメンバー6人で、大阪四條畷市の
室池園地から四條畷神社、野崎観音などを訪ねました。
奈良方面から室池へは、阪奈道路を西へ、生駒登山口を右折北上して
数キロの園地の駐車場が基点です。
室池は、昭和62年頃、大阪府民の憩いの場「むろいけ園地」として
整備された、大池4つもある東西約1キロの森林公園です。
昔は氷室があったそうでおそらく名前の由来でしょう。
駐車場から南へ400メートルほど森の中を歩くと、
谷に100メートル以上の木道がある湿生植物園があります。
花菖蒲などはまだでしたが、数本の白と一本の紫のカキツバタが
咲き始めていました。
著莪の花やツツジ、藤のほか、近くでは見られない、チョウジソウ、
クリンソウ、紫サギゴケなどが見られ、鶯とアカガエルが美声を
競っていました。
園路をおおう枝から緑の尺取虫が細糸でぶら下がっていたので、
指に這わせてもっと早く歩けとけしかけました。
園路の入口付近では子育て中でしょうか、鴉の群が騒いでいました。
入口の園地案内所に職員の方が戻っていたので、
高い声の蛙は「アカガエル」、トキワソウのような紫の花の名は
「紫サギゴケ」、大きなシャモジのような葉は水芭蕉と教えてもらいました。
鳥声と聞けば蛙よ湿生園 常朝
尺取に歩け歩けと谷の道 常朝
(室池の木道:クリックすると拡大:以下すべて)
(紫サギゴケ)
その後、163号線・東中野交差点の「さと」で昼食をいただいた後、
170号線を南下、四條畷神社を訪ねました。
四條畷神社は南朝の忠臣楠木正成の息子・正行公ほかを祀るため、
最後に高師直軍と戦った飯盛山(城)の麓に明治初年に建てられた
神社です。吉野・如意輪寺の扉に矢尻で彫られた、
「帰らじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞ留むる」
の歌を残して22才で戦死しました。
境内の墓(五輪の塔)のそばにその時植えられたクスノキが、
今は巨樹となり、若葉を風にきらめかせていました。
楠公の杜にかがやき楠若葉 常朝
(四條畷神社)
(桜井の別れ:楠木正成と正行公)
(五輪の塔と楠巨樹)
さらに170号線を南下して、野崎観音にお参りしました。
野崎観音(慈眼寺)は、昭和の始め、東海林太郎の歌、
「野崎参りは屋形船でまいろ・・・」と、お染久松の悲恋物語で有名な
大東市の寺です。駐車場は参道の南100メートル位を左折して登ります。
電車ではJR片町線「野崎駅」から東へ600メートルほどです。
石段を登ると、中国風の山門があり、立ち葵紋の幕の張られた本堂があり、
右手に中興の祖といわれる「江口の君」のお堂があります。
慈眼寺(野崎観音)は、奈良時代行基が千手観音を安置したのが
始まりらしいですが、戦乱で荒れていたのを平安時代・江口の君や、
江戸初期・青厳和尚が中興したそうです。
歌にある「どこを向いても菜の花盛り・・」ののどかな風景は
近くにはなく、屋形船が参拝者を運んだ天神橋からの川は今は
ありませんが、飯盛山の深い緑は今もお寺に迫っています。
本堂の左手に松瀬青々に師事した西村白雲郷の銅像があります。
境内の東側の池のそばには「お染久松」の塚があり、
観音会館の壁には近松半二の浄瑠璃「お染久松」の新版歌祭文の
絵巻が長い額に掛けられていました。
歌祭文によるとお染は観音様詣りといって久松と逢ったそうです。
結局身分の違う二人は悲恋に終り、久松は閉じ込められた蔵の中、
お染は蔵の外で自害したそうです。
お染久松塚に寄り来し黒揚羽 常朝
(野崎観音(慈眼寺))
(お染久松の歌祭文)
約1キロ、飯盛山の山中の楠公寺を訪ねました。
ここは、昭和25年妙春日祥法尼が開基した日蓮宗の寺で、
楠木正行公をお祀りし、祈祷本尊は鬼子母神とのことですが、
本堂は障子で閉じられています。
しばらく境内にいると、四條畷高校の男女の生徒達が、
軽々と(?)境内を抜けて飯盛山頂上への山道を駈けて行きました。
寺から約200メートルの車巾一杯の山道を登ると、
NHKとEASY851のFMアンテナ塔があり、数台のスペースがあったので
駐車し、東側の山頂まで急坂をロープなどを持って登りました。
山頂は飯盛山城跡で、楠正行公の若い顔の銅像などがあり、
老鶯が一羽、高さ4メートル位の木に隠れて鳴いていました。
そのうち鶯の枝がわかり身体をふるわせて鳴いている姿を見ました。
また山頂からは青葉の枝の間からはるかに明石大橋が見えました。
狭い山頂の周囲の草原に「ミヤマナルコユリ」が小さな蕾を
鈴のようにいくつかつけていました。
老鶯は隠れ上手よ歌上手 常朝
小楠公の像初々し青葉風 常朝
(楠公寺)
(楠木正行像)
さわやかな5月の天気に恵まれた一日でした。
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