「アカシア紀行・俳句」2011年5月22日(日)
梅雨の前触れのような雨の日、いつものメンバー7人で、
大阪南港の野鳥園、難波宮跡から四天王寺を訪ねました。
野鳥園は大阪南港の咲洲(さきしま)の北端にある、
500メートル X 300メートル程の広さの大阪市の公園で、中には
海水を入れる「潮入り」の池として北側の西池・北池と南側の南池、
展望塔、北観察所、南観察所、遊歩道などがあります。
電車ではコスモスクエア駅から南へ約1キロです。
我々が阪神高速5号湾岸線の南港北出口からATC前を通って駐車場に
着いた9時半頃は雨で、展望室に入るとさらに激しくなりました。
展望室の大きなガラス窓からは、大阪の海と、低い堤防の前の
野鳥園の池が目の前に広がりました。
野鳥を探しましたが、最初は西池の干潟の左に軽鴨が3羽いるだけ
でした。しばらくすると川鵜が来て、そのうち、「キアシシギ」
の群が南池の干潟の向う側の岸辺にきました。
しばらくすると、干潮になり、潮が引いて干潟が大きくなり、
西池干潟と南岸のすき間が狭くなり、流れが出てきました。
そのうちきれいな婚姻色のアオサギが1羽流れに来て立ちつくします。
干潟の向う側(西側)には「シロチドリ」が数羽ツツツと走り始めました。
野鳥園の人が親切に大きな望遠鏡をセットしてキアシシギやシロチドリ
などを我々に見せてくれました。
飛んできた雪加(せっか)と鳴き声、ミサゴも教えてくれました。
12時を過ぎる頃には西空が明るくなり、明石大橋も見えてきました。
潮入りの池に波立て走り梅雨 常朝
青鷺立つ潮入り池に潮流れ 常朝
(野鳥園:クリックで拡大:以下すべて)
(野鳥園北池・潮入り池)
(野鳥園西池と干潟)
(野鳥園南池・潮入り池)
12時半頃からATC北館3階の和献洋彩店(にんにん)で昼食後、
難波宮跡に行くため、阪神高速で市内に戻り森ノ宮ICで高速を出ようと
しましたが、森ノ宮ICは入口のみで出口はなく高井戸から戻りました。
玉造筋を少し南下して西の難波宮跡公園に着きました。
ここは大化の改新(645)後約150年間断続的に都のあった所ですが、
今は300メートル四方ほどの広い公園となっており、
芝生と植林のほかには大極殿跡の石壇などがあるだけです。
雨は大体上がっていましたが、駐車場がないので、早々に宮跡を
離れました。
雨上がる難波宮址に楠の花 常朝
(難波宮跡公園)
その後谷町筋を南下して四天王寺を訪ねました。
四天王寺は天王寺駅の北500メートルにある、300メートル四方ほどの
大きな寺院です。
聖徳太子を祀る大阪市内最大のお寺で、推古天皇の頃太子によって
建てられたとのこと。
広い境内に五重塔と金堂、講堂、亀井堂、六時堂(六時礼讃堂)、
本坊など多くの建物があり、我々は東側の駐車場に駐車しました。
今日は聖徳太子の月命日で、入山料は無料でした。
金堂の救世観音を参拝したのち、亀井堂で水塔婆の供養を拝見しました。
お寺の堂守2人が水塔婆(ご先祖の霊などと書いた薄い木の板の
経木(きょうぎ))を、長い柄杓で、湧き水を流す大きな亀形石盤の中に、
沈めていました。亀井堂の前には石の転法輪がありました。
湧き水は金堂の下から引いてきているそうです。
のち、六時堂の前の石舞台を拝見しました。舞台の両脇の池には
大きなアカミミガメが沢山いました。
水塔婆長柄で掬ふ青葉寺 常朝
転法輪回す大寺楠の花 常朝
(四天王寺:クリックで拡大:以下すべて)
(四天王寺講堂)
(六時礼讃堂と石舞台)
(石舞台横の池)
(亀井堂説明板・内部は撮影禁止)
本坊庭園は時間がなくて拝見せず、4時半頃お寺を辞して、上六の
シェラトン都ホテルのカフェベルで小句会後解散しました。
2011年5月23日月曜日
2011年5月9日月曜日
125.磐之媛陵から日葉酢媛陵、松林苑跡
「アカシア紀行・俳句」2011年5月8日(日)
五月晴れの母の日、いつものメンバー6人で、
奈良・平城京北の磐之媛陵から歌姫町の松林苑跡を訪ねました。
磐之媛陵はアカシア紀行35(2007年6月16日)にも記入しましたが、
仁徳天皇のお妃の御陵で平城京北の水上池の北にあります。
10時頃御陵に着くと、写真家が数人三脚をお濠に向けて立てていました。
お濠の岸辺には、紫や黄色の杜若(かきつばた)が咲いており、
睡蓮と河骨の葉が水面をほぼ埋めていました。
南側の水上池の木立からは葭切(よしきり)の元気な声が聞こえます。
拝所の左側(西側)の松は枯れており、松の切株も2つありました。
葭切の声届きけり皇后陵 常朝
(磐之媛陵のかきつばた:クリックで拡大:以下すべて)
(拝所と黄かきつばた)
のち、水上池の西1キロメートルほどの成務天皇陵、日葉酢媛陵に
移動しました。車で、南の佐紀神社(ふたつあります)にはさまれた
御前池の東岸の道から狭い農道を北西に200メートルほど進み、
山上八幡神社の道から進むと衛士小屋の前に駐車場があります。
拝所は北向きですが、すぐ南側に称徳天皇陵の杜があります。
日葉酢媛は垂仁天皇のお妃です。
3つの御陵の青葉に囲まれたあたりは静かで時々鵯らしい声が
聞こえました。
成務天皇陵の拝所前の小さな池には杜若が咲き、
日葉酢媛陵の濠には亀や鯉が泳ぎ、軽鴨が一羽寄って来ました。
三陵の青葉の中の静けさよ 常朝
(成務天皇陵)
(日葉酢媛陵:垂仁天皇のお妃の御陵)
近くの食事処「中川」で昼食をいただいたあと、
日葉酢媛陵の西200メートルほどの瓢箪山古墳に行きました。
この古墳は長さ100メートルほどの前方後円墳ですが、
周囲の空濠・庭に竹落葉が音を立てて散っており、
夏鶯の声が聞こえました。
この古墳から東は平城京の禁園、松林苑だったとのことです。
松林苑は天皇家の庭(禁園)でしたが、南北1キロ、東西0.5キロほどの、
周囲が土塁で囲まれ、皇室用の農場のほか、楽人・歌姫の住居や
衛士府の兵の住居があったようです。
町名の歌姫は多分ここからきたのでしょう。
最近の調査ではさらに東側、こなべ古墳のあたりまで約1キロ四方の
禁園だったようです。
古墳のすぐ東側の道路に面して土塁の跡があります。
土塁跡は巾6メートル、南北20メートルくらいの雑木林のようで、
背の高い木立に竹が侵食していました。
禁園の跡に音立て竹落葉 常朝
(瓢箪山古墳:クリックで拡大:以下すべて)
さらに、東へ約500メートルほどのハジカミの池に行きました。
池は100メートル四方位で、中に小さな島が2つあり、
西岸には土塁跡が残っています。庭園の中の池かもしれません。
池には亀や軽鴨が泳ぎ、夏落葉の赤い葉が浮いていました。
禁園の池に紅夏落葉 常朝
母の日の采女の棲みし苑の跡 常朝
(ハジカミ池の土塁跡)
(ハジカミ池の浮島)
その後、歌姫街道(751号線)の北の、添(そう)神社を訪ねました。
添神社は「添御縣坐神社」で、速須佐之男命、櫛稲田姫命、武乳速命を
祀る、奈良時代からある古い神社です。
境内には長屋の王の歌碑と菅原道真の歌碑があります。
この神社は当時の県境にあり、旅の安全を守る神だったようです。
長屋の王の歌は
佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
(佐保から出立するとき神への手向けとして置く幣は
妻と無事再会できますようにと祈るためです)
道真公の歌は(百人一首)
このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
(今度の旅はあわただしく、幣をささげることもできない。
せめて、錦のような手向山のもみじを、
幣のかわりに神のみ心のままにお受けください)
いずれも旅の安全を祈る歌で、昔は県境の神社を手向山とも
呼んだようです。
境内の藤棚には藤の花が見事に垂れています。
大きな松が4本あり、大きな松ぼくりが落ちていました。
その後、ドリームランド跡の前のCOCOSで小句会後解散しました。
長屋王歌碑ある杜に藤の花 常朝
(添神社の藤)
(添神社の拝殿)
(長屋王の歌碑)
(菅原道真の歌碑)
五月晴れの母の日、いつものメンバー6人で、
奈良・平城京北の磐之媛陵から歌姫町の松林苑跡を訪ねました。
磐之媛陵はアカシア紀行35(2007年6月16日)にも記入しましたが、
仁徳天皇のお妃の御陵で平城京北の水上池の北にあります。
10時頃御陵に着くと、写真家が数人三脚をお濠に向けて立てていました。
お濠の岸辺には、紫や黄色の杜若(かきつばた)が咲いており、
睡蓮と河骨の葉が水面をほぼ埋めていました。
南側の水上池の木立からは葭切(よしきり)の元気な声が聞こえます。
拝所の左側(西側)の松は枯れており、松の切株も2つありました。
葭切の声届きけり皇后陵 常朝
(磐之媛陵のかきつばた:クリックで拡大:以下すべて)
(拝所と黄かきつばた)
のち、水上池の西1キロメートルほどの成務天皇陵、日葉酢媛陵に
移動しました。車で、南の佐紀神社(ふたつあります)にはさまれた
御前池の東岸の道から狭い農道を北西に200メートルほど進み、
山上八幡神社の道から進むと衛士小屋の前に駐車場があります。
拝所は北向きですが、すぐ南側に称徳天皇陵の杜があります。
日葉酢媛は垂仁天皇のお妃です。
3つの御陵の青葉に囲まれたあたりは静かで時々鵯らしい声が
聞こえました。
成務天皇陵の拝所前の小さな池には杜若が咲き、
日葉酢媛陵の濠には亀や鯉が泳ぎ、軽鴨が一羽寄って来ました。
三陵の青葉の中の静けさよ 常朝
(成務天皇陵)
(日葉酢媛陵:垂仁天皇のお妃の御陵)
近くの食事処「中川」で昼食をいただいたあと、
日葉酢媛陵の西200メートルほどの瓢箪山古墳に行きました。
この古墳は長さ100メートルほどの前方後円墳ですが、
周囲の空濠・庭に竹落葉が音を立てて散っており、
夏鶯の声が聞こえました。
この古墳から東は平城京の禁園、松林苑だったとのことです。
松林苑は天皇家の庭(禁園)でしたが、南北1キロ、東西0.5キロほどの、
周囲が土塁で囲まれ、皇室用の農場のほか、楽人・歌姫の住居や
衛士府の兵の住居があったようです。
町名の歌姫は多分ここからきたのでしょう。
最近の調査ではさらに東側、こなべ古墳のあたりまで約1キロ四方の
禁園だったようです。
古墳のすぐ東側の道路に面して土塁の跡があります。
土塁跡は巾6メートル、南北20メートルくらいの雑木林のようで、
背の高い木立に竹が侵食していました。
禁園の跡に音立て竹落葉 常朝
(瓢箪山古墳:クリックで拡大:以下すべて)
さらに、東へ約500メートルほどのハジカミの池に行きました。
池は100メートル四方位で、中に小さな島が2つあり、
西岸には土塁跡が残っています。庭園の中の池かもしれません。
池には亀や軽鴨が泳ぎ、夏落葉の赤い葉が浮いていました。
禁園の池に紅夏落葉 常朝
母の日の采女の棲みし苑の跡 常朝
(ハジカミ池の土塁跡)
(ハジカミ池の浮島)
その後、歌姫街道(751号線)の北の、添(そう)神社を訪ねました。
添神社は「添御縣坐神社」で、速須佐之男命、櫛稲田姫命、武乳速命を
祀る、奈良時代からある古い神社です。
境内には長屋の王の歌碑と菅原道真の歌碑があります。
この神社は当時の県境にあり、旅の安全を守る神だったようです。
長屋の王の歌は
佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
(佐保から出立するとき神への手向けとして置く幣は
妻と無事再会できますようにと祈るためです)
道真公の歌は(百人一首)
このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
(今度の旅はあわただしく、幣をささげることもできない。
せめて、錦のような手向山のもみじを、
幣のかわりに神のみ心のままにお受けください)
いずれも旅の安全を祈る歌で、昔は県境の神社を手向山とも
呼んだようです。
境内の藤棚には藤の花が見事に垂れています。
大きな松が4本あり、大きな松ぼくりが落ちていました。
その後、ドリームランド跡の前のCOCOSで小句会後解散しました。
長屋王歌碑ある杜に藤の花 常朝
(添神社の藤)
(添神社の拝殿)
(長屋王の歌碑)
(菅原道真の歌碑)