「アカシア紀行・俳句」2011年5月8日(日)
五月晴れの母の日、いつものメンバー6人で、
奈良・平城京北の磐之媛陵から歌姫町の松林苑跡を訪ねました。
磐之媛陵はアカシア紀行35(2007年6月16日)にも記入しましたが、
仁徳天皇のお妃の御陵で平城京北の水上池の北にあります。
10時頃御陵に着くと、写真家が数人三脚をお濠に向けて立てていました。
お濠の岸辺には、紫や黄色の杜若(かきつばた)が咲いており、
睡蓮と河骨の葉が水面をほぼ埋めていました。
南側の水上池の木立からは葭切(よしきり)の元気な声が聞こえます。
拝所の左側(西側)の松は枯れており、松の切株も2つありました。
葭切の声届きけり皇后陵 常朝
(磐之媛陵のかきつばた:クリックで拡大:以下すべて)
(拝所と黄かきつばた)
のち、水上池の西1キロメートルほどの成務天皇陵、日葉酢媛陵に
移動しました。車で、南の佐紀神社(ふたつあります)にはさまれた
御前池の東岸の道から狭い農道を北西に200メートルほど進み、
山上八幡神社の道から進むと衛士小屋の前に駐車場があります。
拝所は北向きですが、すぐ南側に称徳天皇陵の杜があります。
日葉酢媛は垂仁天皇のお妃です。
3つの御陵の青葉に囲まれたあたりは静かで時々鵯らしい声が
聞こえました。
成務天皇陵の拝所前の小さな池には杜若が咲き、
日葉酢媛陵の濠には亀や鯉が泳ぎ、軽鴨が一羽寄って来ました。
三陵の青葉の中の静けさよ 常朝
(成務天皇陵)
(日葉酢媛陵:垂仁天皇のお妃の御陵)
近くの食事処「中川」で昼食をいただいたあと、
日葉酢媛陵の西200メートルほどの瓢箪山古墳に行きました。
この古墳は長さ100メートルほどの前方後円墳ですが、
周囲の空濠・庭に竹落葉が音を立てて散っており、
夏鶯の声が聞こえました。
この古墳から東は平城京の禁園、松林苑だったとのことです。
松林苑は天皇家の庭(禁園)でしたが、南北1キロ、東西0.5キロほどの、
周囲が土塁で囲まれ、皇室用の農場のほか、楽人・歌姫の住居や
衛士府の兵の住居があったようです。
町名の歌姫は多分ここからきたのでしょう。
最近の調査ではさらに東側、こなべ古墳のあたりまで約1キロ四方の
禁園だったようです。
古墳のすぐ東側の道路に面して土塁の跡があります。
土塁跡は巾6メートル、南北20メートルくらいの雑木林のようで、
背の高い木立に竹が侵食していました。
禁園の跡に音立て竹落葉 常朝
(瓢箪山古墳:クリックで拡大:以下すべて)
さらに、東へ約500メートルほどのハジカミの池に行きました。
池は100メートル四方位で、中に小さな島が2つあり、
西岸には土塁跡が残っています。庭園の中の池かもしれません。
池には亀や軽鴨が泳ぎ、夏落葉の赤い葉が浮いていました。
禁園の池に紅夏落葉 常朝
母の日の采女の棲みし苑の跡 常朝
(ハジカミ池の土塁跡)
(ハジカミ池の浮島)
その後、歌姫街道(751号線)の北の、添(そう)神社を訪ねました。
添神社は「添御縣坐神社」で、速須佐之男命、櫛稲田姫命、武乳速命を
祀る、奈良時代からある古い神社です。
境内には長屋の王の歌碑と菅原道真の歌碑があります。
この神社は当時の県境にあり、旅の安全を守る神だったようです。
長屋の王の歌は
佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
(佐保から出立するとき神への手向けとして置く幣は
妻と無事再会できますようにと祈るためです)
道真公の歌は(百人一首)
このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
(今度の旅はあわただしく、幣をささげることもできない。
せめて、錦のような手向山のもみじを、
幣のかわりに神のみ心のままにお受けください)
いずれも旅の安全を祈る歌で、昔は県境の神社を手向山とも
呼んだようです。
境内の藤棚には藤の花が見事に垂れています。
大きな松が4本あり、大きな松ぼくりが落ちていました。
その後、ドリームランド跡の前のCOCOSで小句会後解散しました。
長屋王歌碑ある杜に藤の花 常朝
(添神社の藤)
(添神社の拝殿)
(長屋王の歌碑)
(菅原道真の歌碑)
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