「アカシア紀行・俳句」2011年6月8日(水)
例年より早い梅雨の晴れ間の日、いつものメンバー6人で、
京都・雲ケ畑の惟喬(これたか)神社から志明院、菩提の滝などを訪ねました。
雲ケ畑は洛北・賀茂川の源流にある山あいの町です。
京都・堀川通から賀茂川沿いに府道38号・61号線を北上して、
雲ケ畑の高雲寺下に着いたのは朝10時すぎでした。
高雲寺は惟喬親王が開いたとされる禅寺です。
惟喬親王は平安時代前期・文徳天皇の第一皇子でしたが、
母が藤原家出身でなかったので、皇位を継がず洛北に隠棲・
出家されたとのこと。
高雲寺は今は無住の禅寺ですが、道路から50段ほどの急な
石段の上なので、昇るのはあきらめました。
寺の下の雲の畑小学校は、6月4日NHKの路線バスの旅番組で
放映されたように全学児童4人で、耐震工事のためか、校舎に
金網が張ってありました。
北側の中学校は3月に休校になったようです。
学校の金網を見てから約1.5キロ北の惟喬神社を訪ねました。
惟喬神社は、雲ケ畑北部のバス停・岩屋橋の洛雲荘を左折して
すぐの狭い道の北側にある小さな神社で、26才でなくなった
親王を祀る神社です。
惟喬親王が大事にしていた雌鶏が死に、村の人が憐れんで
祀ったので雌鳥(めとり)神社とも云われたそうです。
今も本殿の扁額には「雌宮」とあります。
向いのおうちの道路際に都忘れのような花が咲いていたので、
庭仕事の老主婦に聞くと、深山嫁菜とのことでした。
鶏愛でし皇子の社に照る青葉 常朝
(惟喬神社:クリックで拡大:以下すべて)
(惟喬神社の案内板)
(本殿と扁額)
そのあと、狭い道を西へ約1キロ登って岩谷不動の志明院を
訪ねました。
この寺は、役行者が開き、弘法大師が再興した真言宗の寺ですが、
大師が修行したという大きな岩窟の中に清水が湧いており、
それが賀茂川の源流とされたようです。
入山料300円を納めて、お寺の大黒さんから境内の説明を受け、
仁王門から本殿へ登り、さらに岩を掘った階段などを登って、
5メートル四方位の舞台のついた岩窟(岩屋)に行きました。
高さ5メートルほどの大岩の下が深くえぐられて暗い岩窟に
なっており、岩のくぼみに清水が溜まっていました。
置かれた柄杓で賀茂の源流の清水をいただきました。
大岩には太さ3センチほどの藤蔓が食い込んでいました。
本堂(不動堂)のそばには九輪草が、参道には山芍薬が咲いて、
鵤(イカル)が鳴いていました。雪の下はつぼみでした。
空海の岩窟暗く滴れり 常朝
藤蔓の食ひ込む岩よ滴れり 常朝
九輪草賀茂源流の岩の下 常朝
(志明院山門:クリックで拡大:以下すべて)
(志明院案内板)
(山芍薬)
預けていたカメラを返してもらい、山門などを撮影してお寺を辞し、
岩屋橋に戻り、さらに上流2、3キロの舗装道路の行き止まりまで移動、
地道の林道沿いの源流の谷を見ながら弁当をいただきました。
(舗装道の行止りの谷)
(紅空木)
紅空木(べにうつぎ)やピンクのアカシアなどを見ながら
岩屋橋から約1キロ南を右折、持越峠を越えて菩提の滝に行きました。
峠道の左側に鹿がいましたが、車が近づくと草むらに逃げました。
峠を降りて162号線(周山街道)に入り、すぐ左の道から
中川町を南下、約1キロで左の菩提道に入り狭い谷道を南東へ
約1.2キロ進み、菩提の滝まで行きました。
途中の北山杉の山々は間伐材が置かれたりしていますが、
割合管理が行き届いているようでした。
菩提の滝は菩提道の大岩の切通しの南側にあり、切通しの道からは
滝頭(滝の上)が見えます。
道際の石段を20-30段降りると、高さ10メートル位の滝が
狭い滝壺に落ちて、大きな音を立てていました。
周囲は岩ばかりなのでよく響くのでしょう。
崖には「こあじさい」が咲いて、左の上方には不動像があり、
そのあたりで虫柱がたっていました。
親王の谷にひそかに紅空木 常朝
滝不動の前を動かず虫柱 常朝
(菩提の滝)
(菩提の滝説明板)
その後162号線を南下、高山寺前を通って京都に戻り、
丸太町通りから河原町通りの市役所前の京都ホテルオークラB2の
ロリーヴォ・フェリーチェで小句会後5時頃解散しました。
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