2008年12月30日火曜日

79.童仙房・沈下橋から柳生芳徳寺

「アカシア紀行・俳句」2008年12月18日(木)


 師走の朝曇りの日、いつものメンバー7人で南山城村の童仙房から野殿の
神社や木津川あたりを吟行しました。
やはり午後は晴れになりました。

 童仙房は江戸時代までは京・大和・尾張の三国にはさまれた山地だった
ようですが、明治政府が開拓を勧めたとのことです。
JR関西本線の大河原駅の東から山地へ狭い山道を10キロほど走ると
急に田畑が広がる童仙房につきました。

 まず案内板に従い「總神寺」をお参りしました。
ここは日蓮宗の寺で、日譽上人が昭和41年開山されたとのこと。
しかし境内には本堂、釈迦堂、日蓮上人の像などのほかに神社もあり、
八幡大菩薩、素戔鳴尊、のほか、ハワイの火の神女神ペレまで祀っています。
また神馬像や大きな鷲の像もあります。
境内はやや高台にあるので冬霞の山々や村の一部が見えました。
庭の苔には日陰カズラが日差を受けて若緑色を見せていました。

 その後東の野殿という所の千体仏があるという福常寺にいきましたが、
小さな無住のお堂があるだけで、中は拝観できませんでした。
庭の土手には龍のひげの青い玉がいくつかありました。
さらに東の六所神社を訪ねました。
せまい道の奥に立派な杉林の参道があり、萱葺きの落ち着いた
覆い屋(本殿)と萱葺きの舞殿があります。
舞殿には「京都の自然二百選」の認定証が掲げられていました。

 のち木津川付近へ戻り、「レストランおしはら」で昼食後、
木津川の沈水橋に行きました。
レストランの壁の上の方には女店主が書かれた人生標語が
30枚くらい貼ってあり、その中には私も好きな
「諦めなければ失敗でない」「目に見えないものが一番大事」
などもありました。庭には破芭蕉が数本立っていました。

 沈水橋はこのあたりには二つあり、二つとも車を止めて歩きました。
大水が出ると水中に沈みますが流れないよう、コンクリートの低い橋があり、
小型車がやっと通れる狭い巾でした。
歩くとすぐ下を冬の澄んだ川が流れ寒風が吹いてきます。
 二つ目の橋では偶然、鮒の放流を見ることができました。
漁業組合の2人が小型トラックで「へら鮒」の小鮒を500キロ運び、
車の水槽のホースから大きなバケツへ何度も小鮒を入れ、
橋のたもとから放流するところを、カメラに撮らせてもらいました。

 まだ少し時間があったので、夕方笠置経由で柳生の芳徳寺を訪ねました。
芳徳寺は柳生藩の柳生氏の菩提寺ですが、母が生前、歌人であった
先代の奥様に師事していたので母を乗せて車で何度か訪ねました。
ひさしぶりに訪ねると正木坂道場や学舎が立派になっていました。
寺の落葉の道の奥には柳生家墓所があり上泉伊勢守、石舟斎、
徳川家の剣道指南であった柳生藩初代の宗矩(むねのり)、子の十兵衛三厳
(みつよし)以下、80基ほどの墓石があります。
中には酒好きの人の盃型の傘と徳利型の墓石もありました。
4時頃お寺を辞して、奈良市内の喫茶店で小句会後解散しました。


         女神ペレ祀ってゐたる冬の杜   常朝     
          
         破芭蕉破りて音を確かめし    常朝

         放流の小鮒離れず冬の川     常朝
  
        (總神寺・写真はすべてクリックで拡大)

        (六所神社)

        (レストランの標語)

        (沈水橋)

        (鮒の放流)

2008年12月9日火曜日

78.九品寺・葛城山から傘堂

「アカシア紀行・俳句」2008年12月4日(木)


 小春日和の日、いつものメンバー6人で奈良・御所市の九品寺を最初に、
葛城吟行に行きました。
翌日は寒い雨でしたからいつもこのメンバーは天気に恵まれています。

 九品寺は近鉄・御所線の御所駅から南西約3キロほどの、葛城山の
東のふもと楢原(ならはら)地区にある立派な寺で、奈良時代行基が開き、
のちに弘法大師が中興したといわれています。
我々は車で南阪奈道路の大田南出口から山麓線を約4キロ南下しました。

 境内の裏山に沢山の石仏が階段状にぎっしり安置されていて、
全部で1600体以上あるようですが「千体仏」あるいは「千体石仏」と
いわれています。

 道脇にも石仏のある細い急坂の参道を登ると、紅葉の木々の下に
その千体仏がありました。
南北朝の兵士を弔う石仏とのことで、目鼻は殆どわからないほどです。
石仏の前後も紅葉が散り敷いていました。
その上(奥)には護国地蔵と石の鳥居があり向こうは戦没者の墓です。
お墓に鳥居があるのは珍しいですが多分戦没者は神として
祀られたからでしょうか。しかし石碑には戒名がありました。
中央奥の忠霊塔の前の御手洗には山から谷水がホースで引かれて、
小さな噴水を作っていました。
またその上には太陽電池のセンサーライトが付けられています。
夜にお参りする人がいるのでしょうか?

 その後、境内の北約100メートルほどの田の中にある
番水時計塔(番水塔)に行きました。
これは高さ2メートルほどのコンクリートの塔に時計の箱が
置かれているもので、貴重な葛城山の水を田に配分するための時計塔です。
我々が行ったときは田は刈田でしたから中の時計ははずされていました。
番水塔の下には細い流れと小さな分水堰があり、そこから2つの流れに
分けられていました。南側の流れを砂袋で堰きとめていました。

 竹内街道入口の「一乃庵」で昼食後、2時半のロープウエイで葛城山に
登りました。
ロープウエイはわずか6分で頂上ですが、途中きれいな紅葉が見えており、
期待して上の駅で下りると、木々は殆ど裸木で、紅葉は見られません。
15分ほど歩いて頂上にでるとススキの原があり、眺めは最高でした。
三毛猫が一匹近づいて我々に何かを言っていました。

 4時のロープウエイで下山の後、二上山の東1キロほどにある
染野の傘堂に行きましたが、夕闇が迫ってきたので、近くのモンチッチで
小句会後解散しました。


         迫りくる千体仏に照る紅葉      常朝     
          
         見上げたる首を一周照紅葉     常朝

         頂上の皆奈良を向く枯薄       常朝
  

        (九品寺・写真はすべてクリックで拡大)

        (千体石仏)

        (番水時計塔)

        (葛城山頂)

        (傘堂)

77.箕面温泉

「アカシア紀行・俳句」2008年11月25日(火)

 小春日和の日、いとこ会の3夫婦で箕面温泉に行きました。
吟行でなく親睦が目的だったので、作句の機会はあまりなかったですが。

 阪急箕面線の終点箕面駅に着いたのは11時すぎ、
駅前からの坂をゆっくり登り、箕面温泉ホテルのエレベータの下に
着いたのは11時半ころでした。
まずスパーガーデンのレストランでバイキングの昼食をいただき、
温泉に入りました。
温泉はかなり広くて、大温泉、露天風呂、乾式サウナ、湿式サウナ、
滝打ち温泉など一通り温泉を楽しみ、上の劇場で歌謡ショーを楽しみました。

エレベータの下も紅葉で、上からの眺めも良かったのですが、
紅葉はまだこれからという木々が多かったです。
帰りは、坂の途中の売店で紅葉のてんぷら、柿などを買い、
大阪へ戻り解散しました。
今回は滝までは歩かなかったですが久しぶりの従兄従姉との
再会と温泉を楽しみ1日ゆっくりできました。


         エレベーター上がる前から山紅葉   常朝     
          
         渋柿を売れりそのうち甘うなると   常朝

        (箕面温泉カフェテリア・写真はすべてクリックで拡大)

        (エレベータ最上階からの眺め)

2008年11月16日日曜日

76.奈良・法徳寺のお十夜

「アカシア紀行・俳句」2008年11月15日(土)

 天気予報に反し雨にならなかった夜、いつものメンバー5人で
奈良・奈良町にある法徳寺(融通念仏宗)のお十夜に招かれ参列しました。
お十夜は浄土宗の11月の法要ですが、このお寺のお十夜も昔から続いており、
薬師寺の高田好胤管長時代から管長や長老の講話をいただいている
とのことです。
本来十日間の法要ですが今は一晩だけの法要になっているようです。

 法徳寺は、奈良町の十輪院の西隣の寺で、元興寺の別院「多聞院」が、
江戸時代初期に融通念仏宗の寺院として再興されたようです。
本堂、観音堂、毘沙門堂などから成り、本堂にご本尊の阿弥陀如来立像と、
箱入り十一尊天得如来画像を祀られています。
最初気がつかなかったのですが、道に面して毘沙門堂が西隣にあり、
その毘沙門天立像は、元興寺伽藍の鬼門の護持のためとのことです。

 法要はお寺の四隅をそれぞれの方向の四天王で守られた本堂で、
住職と薬師寺の僧6~7人の読経で始まりました。
最初正面に十一尊如来画像の掛軸が箱から出され正面に掛けられました。
参列者は、約100人でお年寄りからお寺の坊やまでさまざまの年齢の
人がいました。
中には子犬の模様のジャンパーを着た高齢のご婦人や白髪の老人も
いました。お寺の坊やは、3~4才でしょうか、小さな袈裟を着て
大きな数珠を持たされ、母親らしき人が座蒲団に座らせていましたが、
途中から飽きてきたのか廊下に出てしまいました。

 お経は無量寿経でしょうか、拍子木や鉦のリズムでなかなか
迫力がありました。
法要は30分くらいでしたが、そのあと7時頃から薬師寺の松久保長老に
よる講話がありました。

 今回のテーマは、「諸法実相・・」で難しい内容ですが、
小豆島の洞雲山坂手観音寺の岩山に夏の間の午後3時から5分だけ
日光で現れる観音像の話など、要は信心の有無が観音様や阿弥陀様の
救いの有無に現れるということのようでした。
 講話のあと、十一尊如来画像の巻物の箱でひとり一人背中を叩く、
加持祈祷がされました。

 その後別室で小豆のお粥とお漬物の接待を受けました。
お漬物の塩加減が最高でお粥もなかなかの味でした。
お十夜は初めてで貴重な体験でした。

         ジャンパーは子犬の模様十夜婆    常朝     
          
         美しき白髪羨し十夜爺          常朝

         拍子木に調子づきたる十夜寺     常朝   

        (法徳寺・奈良観光ホームページより)

75.長屋王墓・吉備内親王墓・白山神社から竹林寺

「アカシア紀行・俳句」2008年11月14日(金)

 小春日和のあたたかい日、10月初以来のメンバー3人で奈良の平群を
訪ねました。

 まず近鉄生駒線平群駅の北400メートルくらいにある、長屋王のお墓を
参拝しました。長屋王は天武天皇の高市皇子のお子で、奈良時代左大臣の
とき讒言にあってその妃吉備内親王とお子と共に自殺に追い込まれました。
この長屋王の変は藤原氏の陰謀といわれています。
1988年、奈良市二条大路の当時のそごう百貨店建設の際、その邸宅跡に
大量の木簡が発見されて有名になりました。

 我々が着いたときは、一人のお年寄りがお墓の玉砂利の掃除をしていて、
丁寧に団栗を拾って箕の中に入れていたので少し団栗拾いを手伝いました。
お墓は、径15メートルの円墳ですが周囲は鉄柵で囲まれ、丁寧に守られて
います。
柵内の樫の木などに烏瓜が巻き付き、小さな赤い実が沢山ぶら下がって
いました。

 そのあと平群中学校の西の白山神社を訪ねました。
神社は棚田の奥にありますが、平安時代の高僧「道詮律師」が建てた
富貴(ふき)寺(廃寺)の神宮寺で、拝殿の左に弥勒堂があります。
本堂の上の山中には道詮律師の墓があり、十一重の石塔があります。
裏の参道を登ると、菊畑が開けており、十月桜が咲いていました。
のち、村の坂を登り、60坊あったといわれる富貴寺の中の一つの坊跡に
いきました。大きな槙の樹の下の小さなお堂の藁葺きはトタンで覆われ、
窓は破れていましたが、山茶花が咲いていました。
神社下の駐車場へ戻る途中の小さな池に布袋葵が浮かんでおり、
その葉や茎の上を「かまきり」が水に漬かりながら動いていました。

 平群東小学校の北側の「たらふく」で昼食後、
吉備内親王墓を参拝しました。
なぜか長屋王のお墓より少し大きく奥行きがあります。
階段下には無人ですが衛士小屋があります。
以前お参りしたときはつつじの帰り花が咲いていましたが、
今は高い樫の木などを蝶が一匹飛んでいるだけでした。

 さらに第二阪奈道路沿いの竹林寺にある行基のお墓を参拝しました。
168号道路からは有里交差点の信号から約500メートル北西へ登ります。
行基は大仏建立にも貢献した奈良時代の高僧ですが、のちにこの地に
竹林寺を建てて住んだとのこと。
お墓は低い方墳でぎっしり生えた熊笹の周囲だけが刈られており、
その跡に小さな草紅葉が見えました。
左の竹林寺の本堂は巾6~7メートルの比較的小さく新しい建物です。
境内の裏庭には小さな蓮池と神変大菩薩(役の行者)のお堂があり、
左の広場の奥に鎌倉時代の高僧忍性の墓がありました。


         小春日に眠る如くに親王墓      常朝     
          
         走り根の律師の墓へ冬来たる     常朝

         内親王墓の高みに秋の蝶       常朝   

        (長屋王の墓・写真はすべてクリックで拡大)

        (富貴寺の坊の跡)

        (吉備内親王の墓)

        (行基の墓)

2008年11月10日月曜日

74.仏隆寺・鹿火屋・千本杉から大野寺・琴引峠

「アカシア紀行・俳句」2008年11月9日(日)

 立冬すぎた雨もようの日、常のメンバー6人で奈良・宇陀市高井の仏隆寺を
はじめ宇陀路を訪ねました。
仏隆寺は、いただいた縁起によると平安時代(850年)、弘法大師(空海)
の高弟堅恵(けんね)により創建された真言宗のお寺です。
場所は近鉄大阪線・榛原駅経由、バス停留所・高井から徒歩約30分の
山の中腹にあります。
我々は車で、榛原駅南の369号線を東南へ約4キロの高井・バス停から左へ
それて狭い道を2キロほど上りました。

 仏隆寺は春は桜の巨樹、秋は彼岸花で有名ですが
我々が訪ねた日は雨がぱらつく深秋のさみしい日でした。

 下の地蔵堂の萱葺き屋根から雨しずくが落ち、谷清水はかなり急流でした。
そこから長い登りの石段の脇には山桜の巨樹が黄葉で、茶の花、リンドウ、
キリンソウ、釣鐘人参などと、本堂右には貴船菊が咲いていました。
 
 上の本堂では、本尊の十一面観音、右の玉眼の弘法大師像、左の堅恵像に
お参りし、唐の得宗から拝受し大和茶発祥のもととなったともいわれる、
寺宝の茶臼を拝見、手で回させてもらいました。
本堂右の堅恵上人の石室は、平成10年の台風7号で倒れた5本の大杉の下に
なっても壊れなかったそうです。

 その後、仏隆寺から坂道を降りて約1キロ位の谷の右側にある
鹿火屋(かびや:鹿・猪などを追うための農小屋)を訪ねました。
たまたま小屋は留守でしたが、焼帛(やきしめ:煙で猪などを追うもの)
や竹製の添水(そうず)などを拝見しました。
杉山と棚田の境には長い猪垣がありました。

 さらに500メートルほど降りた所を左に上る旧伊勢本道の500メートル
ほどにある旅籠跡の松本家と千本杉、千井戸を訪ねました。
千本杉は樹齢500~600年、径70~80cmの 5、6本の杉の大木が、
根元がゆ着して生えているもので、目の高さの周囲22メートル、
高さ30メートルの圧倒される巨大さです。
千本杉を守っておられる、その屋敷の主婦の人がたまたまおられて、
色々お聞きしました。
千本杉には神が宿っており、不思議なご利益があるそうです。
訪ねてきた娘婿のフランス人がこの樹に長く祈ったとのこと。
道の標識に千仏堂へ500メートルとあったので、うろうろして、
やっと東北の赤埴(あかばね)地区に千仏堂を見つけましたが、
高さ24センチの仏像が260ほど並んで祀られているだけでした。

 369号線のきらく寿司で昼食後、大野寺と磨岩仏を参拝しました。
磨岩仏はやや磨耗していますが、銀杏など紅葉がきれいでした。
その後、三本松の琴引峠に行きました。
琴引峠は全国行脚をしたという鎌倉幕府執権・北條時頼が琴を弾いたとか、
義経や静が琴を弾いたとかの伝説があるそうです。
旧伊勢街道の峠なので芭蕉翁も通ったでしょう。
鉄道敷設で峠道はなくなっていますが、室生東小学校の南の長命寺の境内
にある『琴彈峠跡』の碑などを見て、境内の大木のカヤの実を拾いました。
さらに北東500メートルほどの道の駅「宇陀路室生」で小句会後解散しました。


         地蔵堂萱先ひかる冬の雨      常朝     
          
         杉山に一樹の黄葉の明るさよ    常朝

         千本杉の湧水細く冬来たる     常朝   

        (仏隆寺の石段と山桜・写真はすべてクリックで拡大)

        (仏隆寺の地蔵堂)


        (千本杉)

        (大野寺の磨崖佛)

        (琴引峠・長命寺境内)

2008年11月2日日曜日

73.石清水八幡宮から松花堂庭園

「アカシア紀行・俳句」2008年10月31日(金)

 秋晴れの10月最後の日、常のメンバー6人で京都府八幡市の
男山にある石清水八幡宮に参拝しました。
石清水八幡宮は平安時代に大安寺の僧、行教が宇佐八幡の神託を受けて
創建したといわれる王城守護の神社で、祭神は応神天皇、神功皇后
ほかです。
昔、源義家がここで元服して「八幡太郎義家」と云ったそうです。
また徒然草52段に、仁和寺の僧が麓の極楽寺、高良神社などを八幡宮と
勘違いして帰ってしまった話があります。

 電車では、京阪の八幡市駅から男山山上までケーブルがありますが、
我々は国道24号線、府道15号線を経由して22号線から八幡の東側の
駐車場に11時ころ着きました。
今は高良神社は駐車場の西側山麓に小さくありますが、昔はもっと
立派だったのでしょう。
駐車場の北側には八幡宮の屯宮(お旅所)がありますが、
我々は勘違いせずに、正しい八幡宮を目ざしました。

 大きな石の鳥居から表参道のゆるやかな石の階段をゆっくり
50分ほどかけて頂上の八幡宮まで歩きました。
紅葉はまだでしたが野良猫が5匹ほど参道に遊んでいました。
途中甘酒などの売店がありましたが閉店中でした。
頂上の長い参道を歩くとカラフルで立派な宮が見えましたが、
これは楼門と翼殿でした。
左側から本殿の見える門に少し入ると若い巫女がきて、
立入禁止といわれ階段を戻りました。
男山の由来を聞くともとは「雄徳山」で変化したらしいとのことです。
本殿は改修中で、裏に仮本殿があり、七五三の一家族が祈祷後の
お参りにきていました。7歳の男子と振袖姿の5歳の女の子でした。

 帰りは、裏参道を降りましたが、途中石清水の井戸と社があり、
さらに下りると松花堂跡がありました。
江戸時代松花堂弁当の由来の僧、昭乗が棲んだ坊の跡だそうです。

 午後1時すぎ、南2キロほどの松花堂庭園を訪ねました。
この庭園は八幡市の庭園ですが、明治24年ころ男山から
移築された松花堂などを中心に作られた、東西100メートル、
南北150メートルほどもある広い日本式庭園です。
吉兆松花堂店やミュージアムもあります。
まず吉兆で松花堂をいただいたあと、庭園を拝見しました。

 庭園は、外園の中に内園があります。
外園には吉井勇の歌碑、緋鯉のいる池と、小堀遠州の再現茶室
(松隠)や宗旦の茶室(梅隠)、水琴窟などがあり、
内園の北奥に明治24年移築された松花堂(茶室)と泉坊書院があります。

茶室も風雅ですが、庭のあちこちに四目垣、竹枝穂垣、
網代垣、建仁寺垣、御簾垣など、竹を上手に使った垣があり、
種々の椿(金魚葉椿など)も植えられ、山茶花や薄紅葉が
きれいでした。庭園の通行止めの石、止石も見ました。

夕方奈良女子大北側の喫茶店「ライム」で小句会後解散しました。


         松花堂跡に青き実藪茗荷      常朝

         石清水の流れを隠す落葉かな    常朝

         内園の光やはらか薄紅葉      常朝

        (石清水八幡宮翼殿と楼門・写真はすべてクリックで拡大)
 
        (石清水)

        (松花堂跡)

        (松花堂庭園 内園への門)
 

2008年10月10日金曜日

72. 奈良・高取城址から阿波野青畝生家、束明神

「アカシア紀行・俳句」2008年10月9日(木)

 秋晴れに恵まれた日、妻、義兄姉らと5人で奈良・高取町の高取城址に
登りました。
高取城は、南北朝の頃、越智氏の山城でしたが江戸時代、旗本の植村家政が
25000石の大名として城主となり、幕末まで14代続いたそうです。
岐阜の岩村城、備中松山城とならんで日本三大山城の一つとされています。
高さ583メートルの山城にもかかわらず、白亜の天守と多くの櫓があったようです。
昔は

 「巽(たつみ)高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城」

といわれたそうです。(土佐は高取の地名)
本丸入口にこの歌の石碑があります。
明治20年代、建物はすべて処分されて石垣だけとなりました。

 城址への登山口は、南から、壺阪口、七つ井戸口、北から高取町の
上子島(かみこしま、かごしま)からの三つありますが、
我々は朝10時半頃、壺阪口に車をおいて登りました。
道は割合急な細い坂道ですが、途中、釣船草、秋丁字(あきちょうじ)、
水引草、蓼(たで)、ゲンノショウコ、トリカブト、野菊など、
秋の草花が咲いています。
途中の岩場には木の階段が作られていました。
城の南側の侍屋敷跡(草原だけですが)を通って、大手門前に11時前に
着きました。左手の道は上子島からの道です。
大手門跡から、左右に急に曲がる石垣の間の道を、十三間多門跡から
二の丸跡、本丸跡へと登りました。二の丸跡には東屋(屋根付の休憩所)
があり、東の石垣下には高取城沿革の大きな説明板があります。

 本丸跡には天守台、説明板と大きな石の方位板がありました。
方位板からはるか南に吉野(大淀町)の町が見えます。
天守台のそばの木の机と椅子に坐り、持参のお弁当や草餅、蜜柑などを
いただきました。
その後三角点のある天守台に登ってから下山しました。

 まだ時間があったので、高取町上子島の阿波野青畝生家に行き、

   「虫の灯によみ昂(たかぶ)りぬ耳しひ児(に)」

の句碑などを拝見しました。
縁者の方が大阪から草刈などのために帰っておられました。
さらに、高取町佐田の束明神へ足を伸ばしました。
束明神は草壁皇子の墓と伝えられていますが、低い円墳で、
シダに覆われていました。そばに春日神社があり、古い拝殿に
古墳発掘の時の石室の図がかかっています。
その後橿原観光ホテルでコーヒー休憩後、義兄宅で解散しました。


         山城の幻消えて秋の蝶       常朝     
          
         揺れやまぬ野菊もありて天守跡   常朝

         幾たびも秋の蚊を追ふ皇子の墓   常朝   

        (壺阪口:登山口・写真はすべてクリックで拡大)

        (二の丸跡)

        (本丸の南側)

        (阿波野青畝生家の句碑:虫の灯に・・)

        (束明神の円墳:伝草壁皇子の墓)

 

71. 奈良豆比古神社・翁舞

「アカシア紀行・俳句」2008年10月8日(水)

 晴れた夜空に半月の明るい日、妻、義兄姉らと6人で奈良豆比古神社
(ならつひこじんじゃ)の翁舞(おきなまい)を見学しました。
翁舞は能楽の原型といわれる室町の頃からの猿楽の舞だそうで、
平成12年重要無形民俗文化財に指定されています。
毎年10月8日、秋祭りの宵宮に奉納されるそうです。

 奈良豆比古神社は奈良市の北、奈良坂の峠にある奈良時代からの古い神社
で、祭神として志貴皇子(平城津比古神、春日宮天皇(田原天皇))と、
春日王(志貴皇子の第二王子)を祀っています。
境内には樹齢1000年以上、幹回り13メートルもの楠の巨木が立っています。

 バスでは近鉄奈良駅から青山住宅行き路線の奈良坂ですが、我々は車で、
近くの瓦製作会社の瓦道の駐車場に駐車させてもらいました。
午後7時頃神社に着くとすでに100人以上の人が境内の拝殿(舞殿)に
集まっていました。
本殿はさほど大きくありませんが、拝殿との間に二つのかがり火が燃えています。

 まず翁舞保存会の会長の挨拶のあと8時、神主が衣装部屋と拝殿をつなぐ
渡り床を通って、拝殿にあらわれ、本殿に向かって祝詞をあげました。
その後順に、笛奏者、小鼓の人2人、太鼓、地頭、地謡3人、脇、千歳、
太夫の順に、本殿に一礼後、拝殿の周囲に座りました。
太夫がこの舞の主人公のようです。
全員着座後、笛と鼓が鳴り出して、翁舞が始まりました。

 最初は、太夫と地謡による前謡で、「とうとうたらりたらたら」と
わけのわからない歌詞ではじまり、続いて烏帽子・袴姿の若い高校生位の
男子による千歳(せんざい)の舞があり、次に、翁面をつけた太夫の舞、
脇2人と3人の舞、太夫と千歳の問答、三番叟(3人の翁の舞)とつづいて、
活発な後舞いで夜9時前終りました。
囃子言葉も「おう」とか「うー」とかで、いかにも室町時代に戻ったような
素朴ながら格式の感じられる舞でした。
拝殿の上には大楠の黒い影があり、半月がすべてを照らしていました。


         舞殿を月も照らして翁舞       常朝     
          
         翁舞鼓止まれば虫の声        常朝

         月照らす楠の大樹や翁舞       常朝   

        (奈良豆比古神社の拝殿・写真はすべてクリックで拡大)

        (楠の巨樹)

        (翁舞)

        (翁舞の奉額写真)

2008年10月6日月曜日

71. 奈良春日大社・神苑(万葉植物園) 

「アカシア紀行・俳句」2008年10月2日(木)

 久しぶりの秋晴の日、妻、妻の友人、義兄姉らと6人で奈良・春日大社の神苑:
万葉植物園を拝観しました。

 万葉植物園は春日大社の西300メートルほどの杜の中にありますが、
我々は、鳥居のある参道からでなく、奈良国立博物館の東の大仏殿交差点から
東南の杜の中の参道を歩きました。
途中、秋の七草を詠んだ山上憶良の歌碑があり、かわいい小鹿が我々に寄って
きたり、親の乳を求めて走ったりしていました。

 ゆっくり歩いて神苑に着いたのは午後1時半ころ、拝観料525円で入場券と
神苑マップをもらいました。
万葉植物園は昭和7年に歌人佐々木信綱氏らの協力で開設され、約300種の
万葉植物が植栽されているとのこと。
正門左側には茶粥などで知られる大社直営の荷茶屋(にないちゃや)があります。
正門を入って左の道を行くと、赤米、黒米が小さな田に実って、網がかけられて
いました。
さらに東へ進むと大きな池があり、毎年5月5日と11月3日に雅楽と舞が奉納
される浮舞台があります。
途中、なつめ(棗)の木や山梨の木、栴檀(せんだん・おうち・楝・樗)の木
などがあり実をつけていました。

奥には歌泉堂という小さな八角堂があり、柿本人麻呂を祀っています。
そばの小さな川にはきれいな秋水が流れ、虫の声が聞こえました。
その後、南側の道を西へ戻り、種々の万葉植物の植栽を見ました。
あかね、思い草(南蛮きせる)、やまあい、山菅(やますげ)、あずさ、きささげ、
おけら、むらさきなどがありました。
おうち(樗)の木には池の波が反射してきらきらゆれていました。
波の反射が暗いところにうつるのを水蜉蝣(みずかげろう)というそうです。
3時すぎ神苑を出て、駐車した春日野町の黒川本家で葛切りをいただき解散しました。

         七草の歌碑読みおれば鹿の声     常朝     
          
         山梨の甘み確かめすぐ捨てし     常朝

         池波のゆらめき映ゆる樗の実     常朝   

        (浮舞台)

        (思い草)

        (思い草の万葉歌)

        (山梨の実)

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2008年9月15日月曜日

70.奈良斑鳩・藤の木古墳から郡山城・お月見茶会

「アカシア紀行・俳句」2008年9月14日(日)


 9月中秋の名月の日、妻、義兄姉らと5人で奈良斑鳩・藤の木古墳から
郡山城跡でのお月見茶会に行きました。

 夕方5時頃、斑鳩の法隆寺の駐車場で集合し、西へ歩いて15分くらいの
藤の木古墳を訪ねました。
法隆寺は国道25号線沿いですがJRでは法隆寺駅から徒歩15分位です。
藤の木古墳は1985年に発掘された6世紀頃の円墳ですが、家型石棺に
渡来人系の見事な馬具など副葬品が出て有名になりました。
今回訪ねると昔円墳にあった木々はなく古墳公園のようにきれいに整備されて
いました。
直径50メートル高さ10メートル位のなだらかな円墳で、古墳の石室へは
入れませんが、中が一部見られるように通路が作られています。
表面は秋の草花で覆われ、ネコジャラシが風にゆれていました。
そばには復元の石棺が置かれて、すぐ横の田では稲穂が黄ばんでいました。

 その後大和郡山のレストラン「ベンケイ」で夕食後、郡山城に移動しました。
「ベンケイ」は今年5月10日、胡錦濤・中国国家主席が唐招提寺などを
訪問後昼食をとられたレストランで、郡山城の北西200メートルほどです。

 郡山城へは国道25号線の法隆寺東から県道9号線を6~7キロ北上します。
郡山城では東側の追手門に駐車し、7時半頃城跡の芝生に陣取りました。
芝生に毛布を敷き、和菓子と茶筅でたてたお抹茶をいただきました。
暗くなっていたので、周囲はほかに誰もいず、虫の声だけでした。
その虫の声のなかに鉦叩(かねたたき)のチン、チンという声がかすかに
聞こえました。
幸いにも空は半分くらいは晴れて、薄雲を透かして明るい満月が見えました。
近くには、明治時代の奈良図書館を移設した公民館があり、
山口誓子、森田許六の句碑が立っています。
城濠には月は勿論、星さえも映っていました。
我々だけが郡山城を借り切ってお月見をしたようで、最高のお月見茶会でした。

 その後斑鳩の法輪寺に行き、塀の外からですが、三重の塔にかかる
満月を見たあと、9時頃から斑鳩のレストラン「さと」で小句会後解散しました。
その頃は空は雲ひとつなく晴れて名月が煌々と輝いていまいた。



         虫すだくなかにたしかに鉦叩     常朝     
          
         薄雲の流れ透かして今日の月     常朝

         犬吠える月水煙に昇りきて      常朝   

        (藤の木古墳)

        (誓子の句碑:大和また新たなる国田を鋤けば)

        (許六句碑:菜の花の中に城あり郡山)

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2008年9月6日土曜日

69.伊勢神宮・おかげ横丁から鳥羽の海

「アカシア紀行・俳句」2008年9月5日(金)


 9月初めの雨もようの日、妻、義兄姉らと伊勢神宮(内宮)から
おかげ横丁を訪ねました。
目的は伊勢参拝というより、赤福のかき氷でした。

 近鉄の宇治山田駅からタクシーに合乗りして内宮前に着いたのは、
10時40分ころ、少し雨が降ったり止んだりの中を、五十鈴川の
宇治橋を渡り、参道を1キロ弱ゆっくり歩きました。
雨のせいか人はさほど多くなく、参道は広々として、松などの
樹木は青々としていました。

 なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
                                (西行法師)

のような気持といえばややオーバーですが。

参道の鳥居は宇治橋の両側のほかに2つありましたが、いずれも伊勢神宮という
日本最大の神宮にしては質素で、かえって清清しい感じです。

 宇治橋から2、300メートルの所に手水舎があり、その右手奥に
五十鈴川で手を清める場所がありますが川の水は雨で笹濁りでした。
砂利道を歩いていると、三光鳥が「ヒーツキホーシ」と鳴きました。
本殿である正宮へはみごとな青石の階段があり、左の神官詰め所には
一人の神官が人形のように動かず、端然と坐っていました。
正宮への門は萱葺きで苔が雨水に光っています。
周囲の板塀は何本もある杉の大樹にすれすれに建っていますが、
杉の生長で夜には板塀が軋むそうです。
神域案内図にある籾だね石は見つけることができませんでした。

 20年毎の次の遷宮は2025年ですが、次の遷宮の地はすぐ西隣にあり、
金網などで囲まれていました。
宇治橋は遷宮に先立って今年末から再築されるそうです。
参拝後、おはらい町通り(旧参宮街道)の奥野屋で昼食後、
おかげ横丁の山口誓子俳句館を訪ね、赤福で「かき氷」をいただきました。
ここのかき氷は、勿論赤福の白玉もちと餡が入っており、
宇治茶と蜜がかけられて、おいしかったです。
平日というのにお店は若い人達でいっぱいでした。

 のち、五十鈴川べりで鵜などを見ましたが、このまま帰るのも
もったいない感じだったので、海を見ようとタクシーで鳥羽港へいきました。
移動中雨が降り出したので、観光船乗り場で雨宿りをしていたら、
飛竜という観光船の船長のセールストークにまんまと載せられ、
貸切の観光船でイルカ島、答志島そばなど約1時間鳥羽湾をめぐりました。
途中、牡蠣(かき)筏やハマチ釣りの船、島の観音像などが見えました。
小雨の中、灯台は弱々しい光を出し、灰緑色の海をカモメが飛び、
牡蠣船が疾走していました。
牡蠣筏は牡蠣が成長した重みでやや沈み気味に浮かんでいましたが、
今は真珠の筏は伊勢湾には殆どなくなったようです。
鳥羽港に戻ると雨はほぼ上がっていました。
5時過ぎ、鳥羽からの近鉄特急の中で小句会をして解散しました。



         正宮の苔を光らす秋の雨       常朝     
          
         笹濁り川鵜首出す五十鈴川      常朝

         灯台の光弱めて秋の雨        常朝   

        (五十鈴川・御手洗場)

        (伊勢神宮の正宮門)

        (誓子俳句館)

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2008年8月30日土曜日

68.奈良・なべくら渓と神野山(こうのやま)など

「アカシア紀行・俳句」2008年8月29日(金)


 8月末のゲリラ豪雨の合い間の日、妻、義兄姉らと奈良・山添村の
鍋倉(なべくら)渓、めえめえ牧場、神野山頂、氷室神社を訪ねました。

 鍋倉渓は、名阪国道・神野口ICの北西約3キロの神野山(こうのやま)の
ふもとにある巨岩ばかりの渓谷です。
我々は奈良から車で行きましたが約50分で鍋倉渓の下の駐車場に着きました。
駐車場には10数台のスペースがありますが、この日は我々の車だけでした。

 案内板によると、鍋倉渓は神野山の角閃班れい岩という火成岩が侵蝕に
耐えて残った渓谷だそうです。
伊賀の天狗と神野山の天狗が岩をけんかで投げ合ったという言い伝えも
あるようです。

 岩の色は黒っぽく、このために鍋底の黒色ということから、なべくらという
名ができたらしいとのこと。
数百メートルの渓谷に木道・木階段があり百メートルほど登りました。
途中、岩の間から仙人草、ひよどり花(つぼみ)、桔梗、へくそかずら
などの花が咲いています。ときおり下から涼しい風が吹いてきました。

 その後、同じ神野山のふもとの「めえめえ牧場」へ移動、羊毛館に駐車し
40~50頭いる羊の牧場を見学しました。
顔と足の黒い種は「サフォーク」、全身白い種は「コリデール」とのこと。
子羊は12月に生まれ、春に羊毛を刈るそうです。
羊たちは人なつっこく、我々に寄ってきます。
羊たちに羊せんべいをあげ上の牧場区画を見たのち、神野山頂にいきました。
牧場は10以上の区画に柵で分けられ、牧草を育てるため順に休ませるようです。

 頂上へは羊毛館からの道では行けず、一旦ふもとへ下りて塩瀬地蔵の
西の道から狭い道を登りました。
頂上には展望台があり、すこし霧と雲で包まれた景色が360度見えます。
また阿波野青畝の句碑にも霧が流れていました。
こと座の星などを地上に映したという、3つの大岩(王塚、八畳岩、天狗岩)
へは今回行きませんでした。

 のち、名阪国道「針」の道の駅で昼食後、雨の氷室神社を参拝し、
奈良で小句会後5時頃解散しました。


         仙人草天狗投げたる岩の谷      常朝     
          
         伏流の岩間に一花花桔梗       常朝

         山頂のつつじの句碑に霧流る     常朝   

        (鍋倉渓(なべくらけい))

        (めえめえ牧場)

        (神野山頂の青畝句碑)
         
        (写真はすべてクリックすると拡大します)

2008年8月23日土曜日

67.京都・清閑寺

「アカシア紀行・俳句」2008年8月9日(土)


 暦の上では秋といってもまだまだ暑い日、句会の諸先輩らと京都東の
清閑寺を訪ねました。

 清閑寺は、お寺からいただいた伝記によると、
延暦21年(802年)紹継法師による創設で今は真言宗智山派とのこと。
この地は、東海道から京の五条方面へ入る峠にあり、「歌の中山」と
よばれているそうです。
江戸方面からきた人が京を見る最初の感動の地でした。
また土が良く清水焼の発祥の地だそうで、石碑が立っています。
さらに、平家物語にある小督(こごう)の局で有名な寺で、幕末には
西郷隆盛と月照が謀議した寺とのことです。
小督の局は高倉天皇に愛されましたが、中宮(建礼門院徳子)の父であった
平清盛の命で、御所からこの寺に追い出され剃髪しました。
高倉天皇の遺言で、小督の局の寺に御陵が作られたとのことです。

 ここへは、清水寺から南へ徒歩でも来られますが、
我々は京都駅からタクシーに合い乗りしてきました。
(京都駅の東約3キロ、国道1号線のガードをくぐります)
駐車場の上は高倉天皇、六条天皇の御陵があり、蝉が鳴いていました。
御陵の前の石段を登ると清閑寺の山門があり、
石段や境内には道おしえ(はんみょう)が数匹いました。

 我々が入山するとお住職が蚊取り線香を庭に出してくれました。
山門を入って左の鐘楼の前に、西郷隆盛月照謀議旧跡の石標があります。
境内から西の谷の合間に京都タワーが見えます。
見晴らしの場所に大きな岩があり、要石(かなめいし)と呼ばれています。
これは京都を望んだ扇状の空の要の部分に石があるからだそうです。
またこの石に祈ると願い事がかなうといわれています。
そこの大桜にこげら(小啄木鳥)がきていました。

本堂右の庫裏の縁ではクーラーをかけて犬があごを足に載せて寝ていました。 
その後中京区六角麩屋町の「三木半」で句会、夕食後解散しました。


         西郷の謀議の寺や秋暑し         常朝     
          
         足にあご載せて犬寝る夏の寺       常朝

        (清閑寺山門)

(西郷月照謀議旧跡)

        (小督の局像)