2013年3月24日日曜日

169.大和郡山市の大納言墓、源九郎稲荷から郡山城


「アカシア紀行・俳句」2013年3月21日(木)        前へ  次へ

 晴れた春彼岸の翌日、いつものメンバー6人で、
大和郡山市の大納言墓などを訪ねました。

 集合地を郡山市額田部町のファミリー公園として、
まずフラワーパークの春の花を楽しもうとしましたが、
公園の駐車場にくると、元のフラワーパークのあたりは
工事の囲いがしてあり、以前人工滝のあった小山にシャベルカー
が乗って、木や土を取りこわしていました。

 工事の人に聞くと、フラワーパークはほぼ1年前に広陵町へ
移転したとのことでした。事前の調査不足でした。

 やむなく、すぐに北上して郡山城の南約500メートル、
金魚池近くの箕山町の大納言墓を訪ねました。
大納言墓は、豊臣秀吉の弟で、郡山100万石の城主であった
秀長の墓です。

 約20メートル四方の白塀と玉垣で囲まれた墓地に、
大きな五輪塔と木々があるだけですが、入口に「お願いの砂」を
入れた箱があります。

 その中に穴のあいた石の箱と砂があって、穴から砂を3回
落としながら願い事を唱えるとかなうそうです。

 墓地の外の通路に句碑

 「箕山しぐれ鬼貫がここにゐるやうな」   坂口草堤

が立っており、さつき(?)の若芽が出ていました。
江戸時代芭蕉の頃の俳人上島鬼貫がここを訪ねたのでしょうか。

       大名墓願いの砂に春日差     常朝

              (大納言墓:クリックで拡大:以後同じ)
                (お願いの砂箱)
              (箕山しぐれの句碑)

 その後、郡山市市役所の駐車場に車を留めさせてもらい、
500メートルほど東南の洞泉寺町の勘九郎稲荷神社を訪ねました。

 源九郎稲荷神社は、秀長が郡山城主の頃、城の守護神として、
城内に建てられたのち、江戸時代今の場所に遷座したそうです。
祭神は名前のとおり、源の九郎判官義経が吉野に隠れたとき、
佐藤忠信に変身して義経や静御前を助けたという白狐です。

 境内はさほど広くないですが、本殿には白狐像が2頭祀られて、
狐面の絵馬がけがあり、狛犬ならぬ狛狐が2頭、それぞれ
巻物と玉をくわえています。

 境内には、歌舞伎の中村勘九郎さんが襲名記念に植えた、
しだれ梅としだれ桜があり、梅の根元には白い花びらが散り敷き、
桜は咲き始めていました。
本殿の壁には去年2012年9月参拝した勘九郎さんや今年2月参拝の
市川猿之助さんの写真がビニールに包まれ掲示してありました。
父上の勘三郎さんは去年12月なくなりました。

 境内には、大きな楠の木が芽を出し、椿、沈丁花、水仙など
さまざまな花が咲いていました。

       襲名の記念の桜咲き初むる    常朝

       楠の芽に日差やはらか狛狐    常朝

              (源九郎稲荷神社)

               (神社の略記)
              (社務所)
              (中村勘九郎さんの写真)

 郡山城近くのレストラン「Le BENKEI」で昼食後、
追手門に駐車して郡山城跡を散策しました。

 場内は29日からのお城まつりの準備で軽四輪などが
入って、雪洞(ぼんぼり)柱を立てていました。
場内いたるところに雪洞があるので、その黒い電線が
お城を巡っていました。

 奈良の図書館を移築した市民会館の広場には、
以前、郡山城お月見茶会 に記入した山口誓子や森田許六の
句碑がありますが、その先の草原には祠と寄せ仏があり、
雪柳と白タンポポが咲いていました。

 濠の土手には寄贈の桜がたくさん植えられていますが、
満開に近いのは2本だけでした。
そのうちの一本にヒヨドリがとまって、しきりに花の中に
くちばしを入れていました。

 元の城内高校の校舎(今は郡山高校)の中から、
クラブ活動のバンド練習のにぎやかなリズムと歌声が
濠の土手まで響いていました。

       バンド練習音に花びら散りさうな  常朝

       花喰鳥ときをり見上ぐ城の空     常朝

              (郡山城内)
               (白タンポポ)
              (郡山城天守台)

 午後3時頃奈良に戻り自宅で小句会を楽しみました。
空気はやや冷たいですが、午後曇りの予想に反して一日中快晴の
春彼岸らしい一日でした。

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