「アカシア紀行・俳句」2014年9月27日(土) 前へ 次へ
久しぶりにさわやかな快晴の土曜日、いつものメンバー6人で、
奈良・平群町の白山神社から奈良市の王龍寺を訪ねました。
9時すぎ、近鉄生駒線の東山駅で集合し、168号線を南へ約2キロの
平群町交番を西へ右折、平群中学校の南の細い道を
北西に少し走ると白山神社の鳥居がみえます。
白山神社は去年も訪ねました。 (参照:アカシア紀行172)
鳥居の奥100メートル位で狭い駐車場があります。
駐車場のそばの放置田には水葵が広がり、紫の花をつけていました。
周囲の田の畦には、やや盛りが過ぎた彼岸花が沢山咲いています。
境内には、神社の拝殿と弥勒堂、社務所があり、奥の森の中に
道詮律師の墓があります。
道詮師は平安時代に法隆寺夢殿を再建した高僧で、この地に福貴寺を建て、
ここから法隆寺へ通い仏教を伝えたそうです。
律師の墓は森の中の裏参道の右手にある宝篋印塔です。
社務所の裏の柵には雀瓜が実をつけていました。
右手の池には藻が伸びて、日のあたる藻には小鮒が寄っています。
岸には蛇の衣が2つもあり、池からの流れに露草が青々と咲いていました。
右手の坂上の木々に、通草の実が、3つ、2つとぶら下がっています。
律師の墓弱き日差に雀瓜 常朝
池の藻の日差に出たる秋の鮒 常朝
(白山神社の拝殿:クリックで拡大:以後同じ)
(道詮の墓)
(神社の奥の菊畑)
(池からの御堂)
その後、以前にも訪ねた神社の北側の普門院跡を訪ねました。
普門院は福貴寺の60坊もあったという塔頭のひとつで、道詮師の住居で
あったそうです。
いまは5台分くらいの駐車場に小さな門、句碑、金網で囲まれた寺跡草地が
あるだけです。
駐車場から20メートルほど戻ると、白山神社への下り坂があり、下り口の
木々に先ほど見上げた通草が下がっており、一つだけ採って、中身を6つに分けて
皆で味わいました。ミルクの味がしました。
(普門院跡の説明板)
(通草の実)
その後普門院跡から坂を下りて、交番の西の多良福で昼食をいただき、
168線を北上して戻り、阪奈道路の富雄ICの西600メートルほどの
飛鳥カントリークラブ入り口から、王龍寺を訪ねました。
王龍寺は、聖武天皇の頃創建され、元禄2年郡山城主本多忠平が
禅宗・黄檗宗の菩提寺として再建されたそうです。
境内には駐車もできる大きな藤棚があり、藤の実が所在なさそうに
垂れていました。
左には記念物のヤマモモの巨木が庫裏まで枝を広げています。
本堂の中に磨崖仏があり、電灯でほのかに照らされています。
軒には奉額として、明治時代の大きな句額が二つ掛けられています。
句額は字が薄れて読みづらく、左の句額で何とか読めたのは次の2句だけでした。
面白い旅は思案の外もあり 歳(山冠に夕)
肥える筈いつも疲れがたりよらぬ 松栄
(王龍寺の本堂)
(句額)
その後奈良の自宅で小句会後、解散しました。
お天気に恵まれた秋のさわやかな1日でした。
2014年9月29日月曜日
2014年9月5日金曜日
197.奈良・毛原廃寺跡から室生西光寺
「アカシア紀行・俳句」2014年9月4日(木) 前へ 次へ
雨模様の日が続く9月最初の木曜日、いつものメンバー6人で、
奈良・山添村の毛原廃寺跡から室生の西光寺を訪ねました。
9時すぎ、名阪国道針テラスで集合し、小倉ICから東へ数キロ走って、
奈良万葉ゴルフ場の中の道を東へ、10時前毛原廃寺跡に着きました。
ここは2年前にも訪ねましたが、奈良時代後期から、
約800年あった大寺のあとで、東大寺の杣(木材をとる山)支配所だった
とされ、説明板によると、金堂は唐招提寺の金堂とほぼ同じ大きさだった
ようです。 南側には山の辺の御井という井戸があります。
(参照:アカシア紀行158、アカシア紀行6)
今は、金堂跡、中門跡、南門の礎石が残っているだけですが、
周囲は農家の畑があり、色々な秋の草花も植えられ、
静かな山村といった感じで、時折涼しい風が通ります。
金堂跡にあったみかんの木が伐られて切株に白い茸が付いていまいた。
盗人萩が群れ咲く礎石のそばの小池の浮草から蛙が顔を出し、
マルハナバチのような蜂が一匹、ヤブランの花に順番に止まって
小花をこぼしていました。
畑には、百日草、桔梗、いんげん豆の白い花、枝豆の黄色い花、芙蓉、オクラや
百合、ヤブランなどが咲き、青いフォックスフェースの実がついていました。
廃寺跡谷の風よき花野かな 常朝
山の辺の暮らし穏やか韮の花 常朝
(毛原廃寺阯の碑:クリックで拡大:以後同じ)
(中門の礎石)
(山の辺の御井)
(金堂の地の小池)
(フォックスフェース)
フォックスフェースは狐の顔ですがまったくその通りで、身も蓋も無い名前の付け方です。
寺跡を散策後、下の笠間川に行きました。
川へ降りる道の右手に蚕の供養碑があります。
橋は農業車以外は通行止のようで、左手には取水場らしい堰と建物が
あります。橋の向こうは棚田で、稲が黄色く実り、コンバインが一台稲を刈っていました。
(蚕の供養碑)
(笠間川の取水堰)
(笠間川南の棚田)
昼前、山道(28号線)を南下し、165号線の黒田付近に下りて、
三太夫で昼食をいただきました。
しばらく休んで、165号線の大野から室生寺の西の
西光寺を訪ねました。
ここは数年前、室生寺に来た時訪ねたことを思い出しました。
大きな枝垂れ桜が何本もの支柱で支えられて立っています。
向かいの家の垣の木からアケビの実が垂れ、下の畑の垣には
蔓にムカゴが付いていました。
山手の家の庭には鶏が放し飼いされていました。
鶏の一家うろつく花野かな 常朝
無住寺に二つづつ成る通草かな 常朝
(西光寺)
(鶏の一家)
雨がやや強くなってきたので、
腰折地蔵などには立ち寄らず、仏隆寺を過ぎて西1キロほどの鹿火屋に
少し停車しました。
鹿火屋にはだれもおられず、昔あった焼帛(やきしめ:煙で猪などを追うもの)
はなく、猪垣の上に背の高い電柵が張られ田を囲んでいました。
道路の土手にはフシグロセンノウの橙黄色の花がありした。
(鹿火屋)
その後桜井市の天平庵で小句会後、解散しました。
帰り道では青空が少し見えていました。
雨模様の日が続く9月最初の木曜日、いつものメンバー6人で、
奈良・山添村の毛原廃寺跡から室生の西光寺を訪ねました。
9時すぎ、名阪国道針テラスで集合し、小倉ICから東へ数キロ走って、
奈良万葉ゴルフ場の中の道を東へ、10時前毛原廃寺跡に着きました。
ここは2年前にも訪ねましたが、奈良時代後期から、
約800年あった大寺のあとで、東大寺の杣(木材をとる山)支配所だった
とされ、説明板によると、金堂は唐招提寺の金堂とほぼ同じ大きさだった
ようです。 南側には山の辺の御井という井戸があります。
(参照:アカシア紀行158、アカシア紀行6)
今は、金堂跡、中門跡、南門の礎石が残っているだけですが、
周囲は農家の畑があり、色々な秋の草花も植えられ、
静かな山村といった感じで、時折涼しい風が通ります。
金堂跡にあったみかんの木が伐られて切株に白い茸が付いていまいた。
盗人萩が群れ咲く礎石のそばの小池の浮草から蛙が顔を出し、
マルハナバチのような蜂が一匹、ヤブランの花に順番に止まって
小花をこぼしていました。
畑には、百日草、桔梗、いんげん豆の白い花、枝豆の黄色い花、芙蓉、オクラや
百合、ヤブランなどが咲き、青いフォックスフェースの実がついていました。
廃寺跡谷の風よき花野かな 常朝
山の辺の暮らし穏やか韮の花 常朝
(毛原廃寺阯の碑:クリックで拡大:以後同じ)
(中門の礎石)
(山の辺の御井)
(金堂の地の小池)
(フォックスフェース)
フォックスフェースは狐の顔ですがまったくその通りで、身も蓋も無い名前の付け方です。
寺跡を散策後、下の笠間川に行きました。
川へ降りる道の右手に蚕の供養碑があります。
橋は農業車以外は通行止のようで、左手には取水場らしい堰と建物が
あります。橋の向こうは棚田で、稲が黄色く実り、コンバインが一台稲を刈っていました。
(蚕の供養碑)
(笠間川の取水堰)
(笠間川南の棚田)
昼前、山道(28号線)を南下し、165号線の黒田付近に下りて、
三太夫で昼食をいただきました。
しばらく休んで、165号線の大野から室生寺の西の
西光寺を訪ねました。
ここは数年前、室生寺に来た時訪ねたことを思い出しました。
大きな枝垂れ桜が何本もの支柱で支えられて立っています。
向かいの家の垣の木からアケビの実が垂れ、下の畑の垣には
蔓にムカゴが付いていました。
山手の家の庭には鶏が放し飼いされていました。
鶏の一家うろつく花野かな 常朝
無住寺に二つづつ成る通草かな 常朝
(西光寺)
(鶏の一家)
雨がやや強くなってきたので、
腰折地蔵などには立ち寄らず、仏隆寺を過ぎて西1キロほどの鹿火屋に
少し停車しました。
鹿火屋にはだれもおられず、昔あった焼帛(やきしめ:煙で猪などを追うもの)
はなく、猪垣の上に背の高い電柵が張られ田を囲んでいました。
道路の土手にはフシグロセンノウの橙黄色の花がありした。
(鹿火屋)
その後桜井市の天平庵で小句会後、解散しました。
帰り道では青空が少し見えていました。