2014年10月28日火曜日

200.奈良・明日香村・冬野

「アカシア紀行・俳句」2014年10月27日(月)     前へ   次へ

 明け方激しい雷鳴があった10月最後の月曜日、いつものメンバー6人で、
奈良・明日香村の東の山中の冬野を訪ねました。

 9時半すぎ、近鉄飛鳥駅東の飛鳥夢販売所で集合し、
明日香の細川沿いに東へ約1.5キロを右折して山道を登りました。
途中霧が出て視界10-20メートルの所もありましたが、
冬野に着いた頃は、霧がほぼ晴れて太陽さえ見えました。
良助親王墓を過ぎて車道の終点に駐車しました。
道が狭かったので道路沿いの空地に駐車しましたが、
これがあとで思わぬハプニングを起こしました。

 冬野は、江戸時代は多武峰から吉野への峠(細峠)でしたが、
今は4軒しか家がなく、山上の狭い畑を耕しているようです。
そのお家も今日はすべて無人でした。

 狭い道の先は関電の無線中継所と神社で行き止まりで、
左(北)は多武峰、右(南)は竜在峠への細いみちです。
その三叉路に、標識があり、本居宣長が通ったとの
案内札がありました。

 以前訪ねたときは芭蕉の「ひばりより空にやすらふ峠かな」の
句碑がありましたが、今は見えませんでした。
 
 紫苑や菊が咲く畑や、里芋を刈ったあとの芋頭が散らばる畑が
あります。上の畑は葱や大根などがあり、土を深く掘って
雨水を溜めていました。

 右下の畑には、猪罠があり、糠と芋頭が置かれています。
多武峰への道は幅1メートル位ですが、右へ下りてゆく竜在峠への道は、
田の畦道のようにせまい道です。
1軒の農家がありましたが、閉じられており、前に柿の木は紅葉していました。

 無線中継所の前の神社は古く、神名などの表示はまったくありません。
牛乳パックの賽銭箱が置かれていました。

 しばらく散策のあと、帰ろうとすると、土が柔らかくて車のタイヤが
スリップして動けず、JAFのレッカー車のお世話になるというハプニングも
ありました。

       柿紅葉竜在峠へ道細し       常朝

       猪罠の仕掛の糸に日差来し    常朝

              (冬野の家:クリックで拡大:以後同じ)          
              (細峠の標識)
             (多武峰への道)
              (峠下の家と畑)
              (猪罠)
              (冬野の神社)
              (本殿)
              (お堂)
              (峠下の標識)        
              (多武峰への道の六地蔵)

 午後は稲渕などへ行くつもりでしたが、
時間がなくなり、飛鳥駅の南のペンション飛鳥で遅い昼食をいただき、
橿原観光ホテルで小句会後解散しました。
句会中の4時頃から雨が降ってきましたが、
天気女達のおかげで帰る頃は止んでいました。

 ハプニングはありましたが、むかし芭蕉らが通った飛鳥山中の
静かな峠の秋をゆっくり楽しめました。

2014年10月11日土曜日

199.奈良・桧原神社から村屋神社秋祭

「アカシア紀行・俳句」2014年10月10日(金)   前へ  次へ

 秋雲の薄くさわやかな金曜日、いつものメンバー6人で、
奈良・山の辺の桧原神社から田原本町の村屋神社を訪ねました。

 9時すぎ、名阪国道天理ICの近くで集合し、
天理街道(169号線)を南へ約6キロの巻野内交差点を西へ約2キロの
桧原神社を訪ねました。

  着くと神社の人が砂紋引き(線引き)で境内の砂利を
きれいに揃えていました。

 桧原神社は、2年前の春にも訪ねましたが、 (参考:アカシア紀行121
山の辺の道の元伊勢とも言われる神社で三重の鳥居で有名です。
皇居外では初めてのこの地へ出られた天照大御神と共に、
斎宮であった崇神天皇の皇女豊鍬入姫命をお祀りしています。

 その姫命の社に若い神官が三方に載せたお供えを持って、
丁寧に祝詞をあげました。毎朝だそうです。

 しばらくすると、50人位の小学生が女の先生に引率されて
南の玄賓庵の方から境内に来て、神社の説明を受けてから、
再び山の辺の道を北の方へ移動しました。
みかん狩りだそうです。

 東京から来た金剛流の能楽師(謡)夫婦にも会いました。

 参拝後しばらく境内を散策後、西の井原池に移動しました。
二つの池の間の土手には、川端康成の筆による、
ヤマトタケルの「大和は国のまほろば」の歌碑と、天智天皇の
「香具山は畝傍をおしと・・・」の歌碑があります。

 柿畑には刀根早生と思われる柿が実っていますが、
塾しすぎた柿もありまるで放置されているようでした。
池から西の柿畑を見ると、枝の上に二上山が浮かんでいました。


       蜜柑狩の児等来て止まる砂紋引き  常朝

       枝先に二上山浮く柿畑         常朝

              (桧原神社の鳥居:クリックで拡大:以後同じ)          
              (朝の礼拝)
             (倭健の歌碑:大和は国のまほろば・・・)
              (天智天皇の歌碑:香具山は畝傍をおしと・・・)

 その後天理街道に戻り「さと」で昼食後、田原本町の村屋神社を訪ねました。
村屋神社は旧大和三道の中つ道にある、大物主と妻、三穂津姫命を祀る神社です。

 日本書紀には、壬申の乱のとき、村屋の神が神主に乗り移り、
敵軍が中つ道をくると告げて、大海人皇子の軍を助けたため、
のちに天武天皇から神社として位を賜ったとされているようです。

 10日は秋祭りの日で、境内には10メートル四方くらいの
斎竹で囲まれた祭場が作られ、拝殿側に祭壇を置き、
供物と、舞で使われる矛、刀、湯立釜などが置かれています。

 13時すぎ、幼稚園の園児が20人ほど来て、祭場の外側に並んで坐りました。
参拝者やカメラマンが50人位が祭場をかこみむ中、神主の楽太鼓によって
祭が始まりました。

 祝詞などの神事は午前中に終わっていたので、午後は3人の巫女が
代々神楽の舞を順次舞いました。

 神主がやや聞こえにくいマイクで説明しながら、平舞、三三九度舞、扇の舞、
矛の舞、刀の舞、短刀の舞、銚子の舞、湯立の舞などを舞いました。

 ほとんどの舞は2人の高校生らしい巫女が順に舞い、最後の湯立て舞のみ、
30代位の巫女が舞います。
舞は、矛などを持って、祭場を縦横に進み、四方を順次お祓いするような
単調な舞ですが、古代の舞を連想させるようでした。

 舞の楽曲もなく、ただ楽太鼓のみで静かに舞う中、小鳥の声が聞こえました。
短刀の舞のあと、6人の女性と太鼓の男性からなる、田原本町の
ダンスグループが登場し、桃遊楽ともう一つのダンスが奉納され、
次の巫女の銚子の舞にバトンタッチされました。

 湯立て舞の最後は、参拝者のお祓いとして、
お湯の代わりの切弊を釜の中から、榊の束で外へ飛ばしました。

 後で聞くと、湯立ての釜やその舞の巫女は五条から借りてきたとのこと。
高校生の巫女(の一人?)は、神主のお孫さんだそうです。

       太鼓のみの舞の静けさ小鳥来る    常朝

       壬申の乱由来の社秋祭         常朝

              (村屋神社)          
              (村屋神社拝殿)
              (祭壇)
              (矛の舞)
              (刀の舞)
              (ダンスグループの舞)


 3時前奉納舞が終わったので、桜井の天平庵で小句会後解散しました。
鄙びた中に古代を思わせる神事や舞を楽しめた1日でした。