「アカシア紀行・俳句」2016年4月24日(日) 前へ 次へ
4月下旬の暖かい日、 いつものメンバー5人で奈良・葛城市の屋敷山公園駐車場で集合し
御所市の乗馬クラブ・クレイン奈良から高鴨神社などを訪ねました。
クレイン奈良は乗馬クラブ「クレイン」(本社羽曳野市)の葛城山麓にある奈良支部ですが、
春の馬などの句材を求めて見学をさせてもらいました。
山麓線(30号)の櫛羅(くじら)交差点を西へ葛城山ロープウエイへの道を登り、
案内板に沿って北へ登ると左に駐車場があります。
そこからフロントで見学を依頼して山の上下にある馬場の下側の観覧席に案内されました。
下側には円形の馬場が3つと小さな馬場が1つあります。
下の馬場は初心者用で上の馬場は上級者用と分かれているようでしたが、
我々は下の馬場だけを見学しました。
説明によると約80頭のサラブレッドが収容されており、ホームページによると2500円から
乗馬体験などができるそうです。
10時前馬場に到着すると、20人位の若い人々が、10人位の馬丁の若い男性にそれぞれ手綱を
取られた馬に乗って、3つの円形の馬場をそれぞれぐるぐる回っていました。
騎手は若い女性が多く、凛々しい姿勢で馬のリズムに合わせています。
馬場の向こう側の山には藤の花が掛っていました。
数分で乗馬練習が終わり、馬たちはそばの厩舎に入り、馬場は円形の土だけになり、
鴉が馬場の端に降りてきました。
観覧席には我々以外に夫婦や家族連れらしい数人がいました。
しばらく馬たちが休んでから、10時半頃ふたたび練習が始まり、
上と下の馬場にそれぞれ10頭位の馬達が手綱を持たれて入り、練習の人々が乗馬しました。
鶯の声に元気づけられたように、手前の馬場で乗馬の練習が始まり、教師の男性の説明のあと、
円形の馬場をふたたび反時計方向に回り始めました。
左手の小さな馬場では小学生位の男の子が男性の教師に乗馬を教わっていました。
馬が好きな子のようで、緊張しながらも笑顔を絶やさず、じきに馬に慣れていくようでした。
若き娘の乗馬姿に掛かり藤 常朝
たてがみに日差やはらか春の馬 常朝
(乗馬クラブ・クレイン:クリックで拡大:以下同じ)
(乗馬クラブの馬場)
(馬・サラブレッド)
(厩舎)
(厩舎の馬の紹介板)
しばらく見学後乗馬クラブを出て、名柄の東のレストラン「わだきん」で早い目の昼食をいただいた後、
約5キロ南の高鴨神社を訪ねました。
高鴨神社は昭和35年頃より3代の宮司が蒐集し育てられた500種以上の日本桜草で有名ですが、
例年4月下旬から5月上旬が桜草の美しい季節です。20年以上前から何度か訪ねて拝見しました。
今回のこの日は境内の4段の棚に約50~60鉢の桜草がならべられていました。
ときおりかすかな風にいくつかの桜草がゆれていました。
また別の台では数十の鉢が菖蒲苗と共に販売用に展示されていました。
大阪から来たという宮司の桜草作りを手伝っておられる男性によると、
展示されているのはまだピークの3分の一位で、29日くらいが(品種の)最大の日だそうです。
桜草は種からふやすと別の品種(原種?)になるので、株分けで増やして育てるため、
また気温など環境に左右され易いので手間ひまがかかるようです。
桜草やトキソウ、菖蒲苗などを拝見後、本殿に参拝し、池の浮舞台に登って、池の鯉や若葉を見ました。
本殿への石段の右には運河の右城暮石先生の句碑
天の神地の神々に植田澄む 暮石
があり、美しく苔むしていました。
桜草かすかな風をよろこべり 常朝
なめらかな波に映りて池若葉 常朝
(高鴨神社の桜草)
(桜草の説明板)
(浮舞台)
(高鴨神社本殿)
(右城暮石先生の句碑)
その後、少し北側の山中の高天彦神社をたずねました。
ここは2年前の5月下旬、菩提寺のあと、高天山草園「野草の里」を訪ねた時以来です。
駐車場のそばの鶯宿梅はすでに若葉になっていました。
大きな杉の参道にはドウダンツツジが白い花を鈴のようにつけています。
境内手前の御手洗には金剛山の湧水でしょうか、冷たい水が蛇口から
ほとばしっていました。
左手の郵便道(旧登山道)の入口には土砂崩れで通行止めの看板があり、
道沿いの小川で男性が登山靴を洗っていました。
本殿を参拝してしばらく散策後、田の中の畦道を通って蜘蛛窟へ歩きました。
ホオジロらしい短い鳥の声を聞きながら急な坂を登ると、単に蜘蛛窟と書いた
石碑がありました。ビニールで包まれた説明書がそばの木に貼ってあり、
それによると、神武天皇の頃、このあたりに手足の長い土蜘蛛(族?)が害をなしたので、
皇軍が、葛蔓の網でとらえて土中に埋めたとのこと、この地方の先住民を
土蜘蛛族とか長脛族と呼んだそうです。
葛城の若葉の水のほとばしる 常朝
蜘蛛窟へは畦道ばかり若葉風 常朝
(高天彦神社の鶯宿梅)
(高天彦神社)
(高天彦神社休憩所)
(郵便道への入口)
(高天彦神社説明板)
(蜘蛛窟の石碑)
その後、24号線の新庄町北花内の「さと」で小句会後解散しました。
九州では熊本地震の余震が続くなか、近畿地方は地震もなく、穏やかな天気に
恵まれた一日でした。
2016年4月26日火曜日
2016年4月7日木曜日
234. 奈良・長谷寺・與喜神社から麦畑
「アカシア紀行・俳句」2016年4月5日(火) 前へ 次へ
桜満開の晴れた日、 いつものメンバー6人で奈良・桜井市の長谷寺を訪ねました。
長谷寺は奈良時代に創建された真言宗豊山派の本山で、十一面観音、長い登廊と牡丹で有名です、
我々は9時半ころ、玉仙閣前の駐車場に駐車し、付近を散策しました。
本堂は以前に何度も参拝しているので今回は、近くの與喜(よき)天満神社周辺を参拝しました。
初瀬川にかかる神社への天神橋からは、満開の桜に包まれた長谷寺の諸堂閣の屋根が見えて
見事な景色でした。
駐車場の柵の外の初瀬川の岸には大きな岩:磐座があり、説明板が立っています。
それによると、昔上流にあった毘沙門天が雷神に空へ運ばれれたとき、手にあった
宝塔が落ちて流れ、この岩に止まったそうで、それ以来この地を「泊瀬」、「初瀬」と
呼んだそうです。
(初瀬の磐座:クリックで拡大:以下同じ)
長い石段を登ると與喜神社ですが、左の細い道は化粧坂(けわいざか)といい、
昔参詣の人が化粧を直した道だそうです。
神社への階段の両脇には数十本の枝垂れ梅が植えられていました。
それぞれの苗木には奉納者の名札がありました。
途中の空地には與喜寺跡と書いた碑があり、境内には数個の苔むした磐座があります。
由緒書きによると、この神社は菅原道真公を祀るため平安時代天暦2年(948)建立された
最古の天神だそうです。 道真公の先祖は土師(はじ)氏の野見宿禰で、初瀬の出雲出身のため、
道真公が太宰府へ左遷される前はよく長谷寺に参詣されていたそうです。
神となった道真公の坐像が重要文化財の高さ1メートル位の木造天神坐像として祀られているとのこと。
社務所の軒の台には小さな撫ぜ牛とともに、恋みくじと通常のおみくじの箱が置かれていました。
メンバーの女性が恋みくじを引くと「小吉」でした。
帰りは北側の裏参道を降りましたが、その入口には連歌会所跡の碑があり、説明によると、
ここには明治維新までは「菅明院」という連歌会所があって、連歌の人々は裏参道の下の
朱塗りの連歌橋を渡ったとのことです。
駐車場へ戻り、参道の餅屋で買った草餅をいただいたあと、長谷をあとにしました。
全山の桜を見上ぐ宮の橋 常朝
初瀬川花びら来るを待ちゐたり 常朝
(天神橋から長谷寺の桜)
(天神橋から與喜神社の石段)
(與喜神社の参道)
(與喜寺跡)
(與喜神社本殿)
(與喜神社の磐座)
(磐座の説明板)
(連歌会所跡)
昼食までは時間があったので、長谷から中和幹線を西に走り、耳成山の北東700メートルほどの
「まほろばキッチン」に駐車し、その東100メートルほどの麦畑を訪ねました。
「まほろばキッチン」はJA奈良の農産物直売所でいくつかのレストランもあります。
ひばりが麦畑や周囲の畑の上空でさえずっています。
畦から見ると、麦は40~50センチほどに伸びて、葉が風にゆらいでいました。
一本だけですが麦の穂も見えました。
麦畑からは大和三山の耳成山、畝傍山、(屋根の上に)香具山が見えました。
中和幹線を通る車の音がうるさいくらいですが、ときおり静かになるとひばりの声などが
聞こえます。 誰かが麦笛を吹くと白蝶が飛んできました。
ひばり鳴く大和三山見下ろして 常朝
麦畑はや穂の見えて風渡る 常朝
(まほろばキッチン)
(麦畑)
(麦の穂)
その後、まほろばキッチンのバイキングレストラン「かぐやま」で昼食をいただき、
桜井の阿部交差点の天平庵で小句会を楽しんだあと、解散しました。
解散後我々3人は、檜原神社の北西の桃畑に車で移動しました。
運良く、桃の花は満開でした。 畑のそばの井寺池の土手には、
万葉の中大兄皇子の歌碑「香具山は畝傍ををしと耳梨と相あらそひき・・・」などがあります。
井寺池のほとりの満開の桜のトンネルを越えて奈良に戻りました。
傾ける日に華やぎて桃の花 常朝
花あかり草にも届き桃の花 常朝
(満開の桃の花)
(檜原神社西の井寺池と三輪山)
春らしいお天気に恵まれた桜満開、桃満開の一日でした。
桜満開の晴れた日、 いつものメンバー6人で奈良・桜井市の長谷寺を訪ねました。
長谷寺は奈良時代に創建された真言宗豊山派の本山で、十一面観音、長い登廊と牡丹で有名です、
我々は9時半ころ、玉仙閣前の駐車場に駐車し、付近を散策しました。
本堂は以前に何度も参拝しているので今回は、近くの與喜(よき)天満神社周辺を参拝しました。
初瀬川にかかる神社への天神橋からは、満開の桜に包まれた長谷寺の諸堂閣の屋根が見えて
見事な景色でした。
駐車場の柵の外の初瀬川の岸には大きな岩:磐座があり、説明板が立っています。
それによると、昔上流にあった毘沙門天が雷神に空へ運ばれれたとき、手にあった
宝塔が落ちて流れ、この岩に止まったそうで、それ以来この地を「泊瀬」、「初瀬」と
呼んだそうです。
(初瀬の磐座:クリックで拡大:以下同じ)
長い石段を登ると與喜神社ですが、左の細い道は化粧坂(けわいざか)といい、
昔参詣の人が化粧を直した道だそうです。
神社への階段の両脇には数十本の枝垂れ梅が植えられていました。
それぞれの苗木には奉納者の名札がありました。
途中の空地には與喜寺跡と書いた碑があり、境内には数個の苔むした磐座があります。
由緒書きによると、この神社は菅原道真公を祀るため平安時代天暦2年(948)建立された
最古の天神だそうです。 道真公の先祖は土師(はじ)氏の野見宿禰で、初瀬の出雲出身のため、
道真公が太宰府へ左遷される前はよく長谷寺に参詣されていたそうです。
神となった道真公の坐像が重要文化財の高さ1メートル位の木造天神坐像として祀られているとのこと。
社務所の軒の台には小さな撫ぜ牛とともに、恋みくじと通常のおみくじの箱が置かれていました。
メンバーの女性が恋みくじを引くと「小吉」でした。
帰りは北側の裏参道を降りましたが、その入口には連歌会所跡の碑があり、説明によると、
ここには明治維新までは「菅明院」という連歌会所があって、連歌の人々は裏参道の下の
朱塗りの連歌橋を渡ったとのことです。
駐車場へ戻り、参道の餅屋で買った草餅をいただいたあと、長谷をあとにしました。
全山の桜を見上ぐ宮の橋 常朝
初瀬川花びら来るを待ちゐたり 常朝
(天神橋から長谷寺の桜)
(天神橋から與喜神社の石段)
(與喜神社の参道)
(與喜寺跡)
(與喜神社本殿)
(與喜神社の磐座)
(磐座の説明板)
(連歌会所跡)
昼食までは時間があったので、長谷から中和幹線を西に走り、耳成山の北東700メートルほどの
「まほろばキッチン」に駐車し、その東100メートルほどの麦畑を訪ねました。
「まほろばキッチン」はJA奈良の農産物直売所でいくつかのレストランもあります。
ひばりが麦畑や周囲の畑の上空でさえずっています。
畦から見ると、麦は40~50センチほどに伸びて、葉が風にゆらいでいました。
一本だけですが麦の穂も見えました。
麦畑からは大和三山の耳成山、畝傍山、(屋根の上に)香具山が見えました。
中和幹線を通る車の音がうるさいくらいですが、ときおり静かになるとひばりの声などが
聞こえます。 誰かが麦笛を吹くと白蝶が飛んできました。
ひばり鳴く大和三山見下ろして 常朝
麦畑はや穂の見えて風渡る 常朝
(まほろばキッチン)
(麦畑)
(麦の穂)
その後、まほろばキッチンのバイキングレストラン「かぐやま」で昼食をいただき、
桜井の阿部交差点の天平庵で小句会を楽しんだあと、解散しました。
解散後我々3人は、檜原神社の北西の桃畑に車で移動しました。
運良く、桃の花は満開でした。 畑のそばの井寺池の土手には、
万葉の中大兄皇子の歌碑「香具山は畝傍ををしと耳梨と相あらそひき・・・」などがあります。
井寺池のほとりの満開の桜のトンネルを越えて奈良に戻りました。
傾ける日に華やぎて桃の花 常朝
花あかり草にも届き桃の花 常朝
(満開の桃の花)
(檜原神社西の井寺池と三輪山)
春らしいお天気に恵まれた桜満開、桃満開の一日でした。