「アカシア紀行・俳句」2016年7月11日(月) 前へ 次へ
7月の梅雨晴れ間の日、 東京から来られた元の勤務先の教育部時代の上司とそのご友人と
3人で奈良・明日香村の飛鳥寺などを訪ねました。
たまたま車が買い替えの時期のため、近くのレンターカー店で日産の小型車「キューブ」を借り、
新大宮のホテルを9時半頃出発、天理街道を南下、途中崇神天皇陵を参拝しました。
高い石段を上がると御陵の森と濠が見えますが、今回は鳰と思われる一羽しか見えませんでした。
11時前に飛鳥寺に着き、入山料350円を納めて本堂に入りました。
中庭には高い木に巻き付いたノウゼンカズラが咲いて、古燈籠などがあります。
本堂では大きな飛鳥大仏が見え、若い僧が日本最古の仏像などと説明してくれました。
その後境内の松瀬青々の句碑や万葉歌碑を見て、西門跡の入鹿首塚を拝見しました。
左の畑にはひまわりが沢山咲いて風に揺れています。
南の苑池跡や板葺きの宮の方向の畑や草原を眺めて11時半すぎお寺を辞しました。
のうぜんや飛鳥仏の笑み深し 常朝
ひまわりの揺れのやさしや首塚に 常朝
(飛鳥大仏:クリックで拡大:以下同じ)
(飛鳥寺中庭)
石舞台の北西、犬養万葉記念館の南の「ことだま」で30分ほど待って昼食をいただき、
南の飛鳥歴史公園の中の文武天皇陵の駐車場に100円を入れて駐車し、
100メートルほど歩いて高松塚を訪ねました。その後入館料250円を
納めて北側の壁画館を見学しました。
薄暗い館内には周囲に高松塚の壁画の再現壁画が展示され、
説明員の地元の男性によると、右側の壁画は採掘当時の色彩のままで
左側は見にくい汚れなどを落として埋葬当時のように見やすくした壁画だとのこと。
埋葬者は未定ですが、忍壁皇子あるいは石川皇子だろう、
それは盗掘を免れた銅鏡が中国で発見された銅鏡と同じで、年代が700年頃とわかっており、
702年の遣唐使が持ち帰ったと推定され、その頃なくなった皇子はこのお二人だからとのこと。
昭和45年(1970)頃農家の人が生姜貯蔵の穴を掘ったら大石があり、調査の結果
羨道(石室への通路:せんどう)の入口とわかり発掘が始まったとのことです。
石室の周囲の3つの壁に、それぞれ北側に玄武(蛇と亀)、東に青龍、西に白虎の絵と、
4人ずつの男子群像と女子群像が2つづつあり(東西計4群像)、天井には星座が描かれ、
なくなった方の頭上にはちょうど北斗七星が描かれています。
南の朱雀は盗掘のとき破壊された壁にあっただろうとのこと。
3年後には修復中の壁画が完成するとのことです。
館内には再現石室があり、盗掘の穴から覗くと、中の石室が見えて、
壁画も再現されていますが、思ったより狭い感じです。
中央の台には鎌倉時代の盗掘を免れた銅鏡のほか、木棺の釘や飾りの鉄板などが
展示されています。出てきた盗掘時の燭台から鎌倉時代とわかるそうです。
太陽の絵の金箔や月の絵の銀箔は削り取られています。
飛鳥美人の4人の群像には、長い柄のついた丸い団扇を持った女性と、
大きな耳かきのような如意棒を持った女性がいます。
説明員の方によると、団扇は貴人の顔を隠すためだろう、如意棒は階段を登る時などに、
貴人のスカートの裾を持ち上げるためだろう、とのこと。
団扇は日傘には小さいし、棒は背中を掻くためではなさそうです。
壁画館を出ると、丘の畑にむくげ(槿)が咲いていました。
壁画美女の石室出れば槿咲く 常朝
(ことだまののれん)
(高松塚)
(高松塚説明板)
その後、稲渕の棚田を見て、飛鳥川の勧請縄である、男綱と女綱を見ました。
女綱のそばでは、よく日に焼けた3人の男性が休憩していたので聞くと、
周囲の草刈りだそうです。いずれの綱もすでに白い紙の幣はなくなっていました。
甘樫の丘の東側の販売所「夢の楽市」で買物がてら、飛鳥時代の時計台であった
水落遺跡をしばらく見学して、奈良へ戻り、18時頃新大宮のホテルに着きました。
飛鳥川飛び石跳べば風涼し 常朝
飛鳥川女綱の土手に野萱草 常朝
(飛鳥川女綱)
(勧請縄説明板)
(飛鳥川飛び石)
(水落遺跡説明板)
飛鳥寺の境内は暑かったですが、午後の高松塚の頃は大分涼しくなっていました。
お会いした上司とは、たちまち40年前の教育部時代にタイムスリップした感じで
お話も弾み、うれしくかつ不思議な再会の一日でした。
(追記:残念なことに8月21日その上司が亡くなられたことを25日別の上司のメールで知りました。
合掌)
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