「アカシア紀行・俳句」2018年4月25日(水) 前へ 次へ
4月下旬の雨上りの午後、奈良 大和郡山市の大和田町にある大和田城跡を訪ねました。
大和田城は戦国時代、大和の大名筒井氏の代官小和田氏が築いたとされています。
大和田城跡は富雄川の登弥橋の西600メートルほどにある周囲300メートル程の池の南側にあります。奈良県立民俗博物館の北東600メートルほどです。
案内板もなくわかりにくいですが、池の南岸の道の南側の細い道を西へ60メートル程登って右折すると小さな池がありその横の細い道を進むと城跡の藪になります。
20メートル四方位の広場があり、高い樫の木、椿、黄楊の木の他、柿の木の若葉がきれいでした。
周囲は竹薮となっており、竹にかこまれた廃屋があります。
誰かが筍を採ったのか筍の皮がいくつか捨ててありました。
広場と廃屋の周囲はやや低地で空堀の跡のようです。城跡の西の方へ狭い道がありますが、
雨上りの笹に濡れるので、途中で引き返しました。
城跡の藪を明るく柿若葉 常朝
今年竹見えぬ竹藪城の跡 常朝
(大和田城跡の森:クリックで拡大、以下同じ)
(城跡への登り口:右へ)
(城跡への道)
(大和田城跡)
(大和田城跡2)
(城跡の廃屋)
(城跡の廃屋2)
(城跡の廃屋3)
なお後日(4月30日)城跡の南側の道を歩きましたが、10台分ほどの大きな車庫が
2つある道を西へ入ると、犬の吠える家があり、その先右側に城跡の森が見えますが、
猪垣で囲まれて入ることはできません。猪罠があり、手前の猪垣から竹藪をのぞくと廃屋が見えました。猪垣の外側は畑か庭のあとのようで、ツツジがきれいに咲いていました。
(城跡の猪垣)
(猪罠)
(城跡のつつじ)
2018年4月29日日曜日
2018年4月28日土曜日
265. 四條畷市・田原城跡
「アカシア紀行・俳句」2018年4月4日(水) 前へ 次へ
4月初旬の最高気温24度の暑いくらいの日、四條畷市の田原城跡を訪ねました。
田原城は、戦国時代河内の国と大和の国の境界に近い田原庄の田原対馬守が築城し、
後に三好長慶の飯盛山城の支城となった山城で、四條畷市北谷公園の東、約300メートルにあります。
田原城跡への入口は2ヶ所あり、私は四條畷市住吉神社から西へ月泉寺の前の道を川沿いに西へ行き、
城跡の北側から、左の山の上に田原城跡と大きな看板のある森への狭い橋を南へ渡り、案内版に沿って城跡へ登りました。
もう一つは月泉寺の南150メートル程へ南下する道から右折れして、南側の家の脇から山へ登る道があります。
南北どちらも広い道には、案内板などないので、多少わかりにくいかもしれません。
城跡は30メートル四方位の広場があり、南側には古びた小さな神社・住吉神社があり、覆屋は瓦葺きですが左右に斜めの支柱があります。
北側と東側は見晴らしが良く、北には介護センターや月泉寺、東には川と田園が見えます。
北側の矢の石の説明板には、ここから殿様が下の石を的に弓の矢を練習をしたとあります。
神社に参拝してから城跡を少し歩きましたが、石垣や堀のあとなどは見えず、
広場には桜の花びらと桧の実が、きれいに散らばっていました。
城跡を降りる時は、南側の坂を降りましたが、途中の坂道には説明板2つと矢印の案内板があります。城主はキリシタンだったとあります。
道路へ降りてから北側に戻り、矢の石のあるお家まで行き、門の外から庭にある矢の石を拝見しました。左右2メートル、高さ1.5メートルほどの大きな石で、そばには椿が咲いていました。
城跡の神社古びて春落葉 常朝
殿練習の的とせし石落椿 常朝
(田原城跡の看板:クリックで拡大、以下同じ)
(城跡の住吉神社)
(田原城跡の碑)
(田原城跡碑の裏側)
(田原城跡)
(矢の石の説明板)
(南の坂の説明板1)
(南の坂の説明板2)
(南の坂の登り口)
(矢の石のある家)
4月初旬の最高気温24度の暑いくらいの日、四條畷市の田原城跡を訪ねました。
田原城は、戦国時代河内の国と大和の国の境界に近い田原庄の田原対馬守が築城し、
後に三好長慶の飯盛山城の支城となった山城で、四條畷市北谷公園の東、約300メートルにあります。
田原城跡への入口は2ヶ所あり、私は四條畷市住吉神社から西へ月泉寺の前の道を川沿いに西へ行き、
城跡の北側から、左の山の上に田原城跡と大きな看板のある森への狭い橋を南へ渡り、案内版に沿って城跡へ登りました。
もう一つは月泉寺の南150メートル程へ南下する道から右折れして、南側の家の脇から山へ登る道があります。
南北どちらも広い道には、案内板などないので、多少わかりにくいかもしれません。
城跡は30メートル四方位の広場があり、南側には古びた小さな神社・住吉神社があり、覆屋は瓦葺きですが左右に斜めの支柱があります。
北側と東側は見晴らしが良く、北には介護センターや月泉寺、東には川と田園が見えます。
北側の矢の石の説明板には、ここから殿様が下の石を的に弓の矢を練習をしたとあります。
神社に参拝してから城跡を少し歩きましたが、石垣や堀のあとなどは見えず、
広場には桜の花びらと桧の実が、きれいに散らばっていました。
城跡を降りる時は、南側の坂を降りましたが、途中の坂道には説明板2つと矢印の案内板があります。城主はキリシタンだったとあります。
道路へ降りてから北側に戻り、矢の石のあるお家まで行き、門の外から庭にある矢の石を拝見しました。左右2メートル、高さ1.5メートルほどの大きな石で、そばには椿が咲いていました。
城跡の神社古びて春落葉 常朝
殿練習の的とせし石落椿 常朝
(田原城跡の看板:クリックで拡大、以下同じ)
(城跡の住吉神社)
(田原城跡の碑)
(田原城跡碑の裏側)
(田原城跡)
(矢の石の説明板)
(南の坂の説明板1)
(南の坂の説明板2)
(南の坂の登り口)
(矢の石のある家)
2018年4月21日土曜日
264. 奈良の饅頭祭
「アカシア紀行・俳句」2018年4月19日(木) 前へ 次へ
4月下旬の暖かい快晴の日、いつものメンバー3人で奈良・漢国(かんごう)神社にある林(りん)神社の饅頭祭(まんじゅうまつり)を訪ねました。
饅頭祭は、鎌倉時代中国から来て日本で初めて饅頭を作り広めた林浄因を祖神として祀り、菓子業界をはじめ関係者が、祖神の徳を偲び菓子業界の発展を祈る祭です。
漢国神社は、近鉄奈良駅の西約100メートル、登大路の高天(たかま)交叉点を南下、
約100メートルほどの西側(やすらぎの道の)にあります。
我々が車を率川神社幼稚園の北の駐車場に預けて神社に着いた11時前は既に大勢の参列者や観光客らしい訪問者で狭い境内はいっぱいでした。
境内のテントでは蕨餅などの菓子類が売られていましたが、神事後饅頭とお茶をいただける整理券はなくなっていました。
(林神社:クリックで拡大、以下同じ)
(饅頭祖神の碑)
(売店のテント)
(境内の売店)
(藤棚)
林神社は境内の右奥にありその左には饅頭塚があります。
正面の拝壇に30~40人の参列者が椅子に座り、正面の祭壇には菓子会社からの奉納のお菓子がずらりと並べてあります。我々がいる社務所の前からはみえませんが、また右奥の本殿には大きな鏡餅と筍などの野菜が供えてあります。
午前11時、祭壇の右奥の「林神社」の前で神主のお祓いから神事が始まりました。
音楽はショウの音に弦楽器やシンセサイザーの音がまじっていました。
雅楽や祝詞に誘われるように、黒い花潜(はなむぐり)がきて、藤棚の花を巡り飛びました。
神事中小学生が50人ほど神前に入り、神事を見学していましたが、後から見えないので
しゃがんでといわれ全員がしゃがみましたが、しばらくして先生の指示で全員が境内を離れて市中に出ました。
一時間ほどで神事は終りましたが、最後に神主は、昔の甘味料の「あまずるせん」の小瓶を見せ来年はこれを使った饅頭を供えたいと話していました。
(あまずるせんは植物のアマチャヅルを煎じた昔の甘味料)
饅頭の祖神に供ふ藤の花 常朝
祭笛藤棚めぐる花潜(はなむぐり) 常朝
(神前にしゃがむ小学生達)
(祭壇と参列者)
(お茶と菓子を配る人達)
(本殿の楽人)
(饅頭塚)
(林神社本殿)
(本殿のお供え)
(林神社縁起(一部))
神事後林氏の子孫である塩瀬本家の人々の写真撮影などをしているなか、我々はお下がりの饅頭をいただき、饅頭塚や本殿などを拝見して神社を後にしました。
その後我々は高畑町の「たつや」で昼食をいただいて解散しました。
雲ひとつ無いお天気に恵まれた珍しい「饅頭祭」の一日でした。
4月下旬の暖かい快晴の日、いつものメンバー3人で奈良・漢国(かんごう)神社にある林(りん)神社の饅頭祭(まんじゅうまつり)を訪ねました。
饅頭祭は、鎌倉時代中国から来て日本で初めて饅頭を作り広めた林浄因を祖神として祀り、菓子業界をはじめ関係者が、祖神の徳を偲び菓子業界の発展を祈る祭です。
漢国神社は、近鉄奈良駅の西約100メートル、登大路の高天(たかま)交叉点を南下、
約100メートルほどの西側(やすらぎの道の)にあります。
我々が車を率川神社幼稚園の北の駐車場に預けて神社に着いた11時前は既に大勢の参列者や観光客らしい訪問者で狭い境内はいっぱいでした。
境内のテントでは蕨餅などの菓子類が売られていましたが、神事後饅頭とお茶をいただける整理券はなくなっていました。
(林神社:クリックで拡大、以下同じ)
(饅頭祖神の碑)
(売店のテント)
(境内の売店)
(藤棚)
林神社は境内の右奥にありその左には饅頭塚があります。
正面の拝壇に30~40人の参列者が椅子に座り、正面の祭壇には菓子会社からの奉納のお菓子がずらりと並べてあります。我々がいる社務所の前からはみえませんが、また右奥の本殿には大きな鏡餅と筍などの野菜が供えてあります。
午前11時、祭壇の右奥の「林神社」の前で神主のお祓いから神事が始まりました。
音楽はショウの音に弦楽器やシンセサイザーの音がまじっていました。
雅楽や祝詞に誘われるように、黒い花潜(はなむぐり)がきて、藤棚の花を巡り飛びました。
神事中小学生が50人ほど神前に入り、神事を見学していましたが、後から見えないので
しゃがんでといわれ全員がしゃがみましたが、しばらくして先生の指示で全員が境内を離れて市中に出ました。
一時間ほどで神事は終りましたが、最後に神主は、昔の甘味料の「あまずるせん」の小瓶を見せ来年はこれを使った饅頭を供えたいと話していました。
(あまずるせんは植物のアマチャヅルを煎じた昔の甘味料)
饅頭の祖神に供ふ藤の花 常朝
祭笛藤棚めぐる花潜(はなむぐり) 常朝
(神前にしゃがむ小学生達)
(祭壇と参列者)
(お茶と菓子を配る人達)
(本殿の楽人)
(饅頭塚)
(林神社本殿)
(本殿のお供え)
(林神社縁起(一部))
神事後林氏の子孫である塩瀬本家の人々の写真撮影などをしているなか、我々はお下がりの饅頭をいただき、饅頭塚や本殿などを拝見して神社を後にしました。
その後我々は高畑町の「たつや」で昼食をいただいて解散しました。
雲ひとつ無いお天気に恵まれた珍しい「饅頭祭」の一日でした。
2018年4月2日月曜日
263. 天理市・大和神社のちゃんちゃん祭
「アカシア紀行・俳句」2018年4月1日(日) 前へ 次へ
4月初めの暖かい日曜日、奈良・天理市の大和神社の「ちゃんちゃん祭」を訪ねました。
ここは、弓始めなどでよく訪ねていますが、ちゃんちゃん祭は11年ぶりです。
(参照:アカシア紀行30)
12時半頃、神社の東の臨時駐車場に駐車し、境内に入ると、
長い参道に屋台が10軒くらい出ており、子供達にくじ引きで縫いぐるみ、カードなどを
売ったり、お菓子やバナナチョコなど食べ物を売っていました。
また、境内では、すでに行列のために白い水干を着た人たちや、行列の馬5頭などが、
それぞれ出番を待っていました。
中には金色の烏帽子を被った小学生の男子たち(頭人児:各地区の頭屋の子)、白馬、白いポニーもいました。
(ちゃんちゃん祭ポスター:クリックで拡大、以下同じ)
(大和神社)
(くじ引きの屋台)
(二ノ鳥居近くの屋台)
(出番を待つ白馬とポニー)
(鉾、千代山鉾と風流傘)
本殿にお参りしてから、鳥居のそばで行列を待ちました。
200人近い行列なので、メンバーが揃うのに時間がかかるようでした。
烏帽子姿の子供が退屈そうに、参道の砂利で遊んでいました。
二ノ鳥居を先頭にやっと2時頃行列が揃い、太鼓の合図で出発しました。
露払いの錫杖、梅ずわい(若枝)、赤天狗、錦の旗2本、市長の乗ったサラブレッド(馬)、
鉦、太鼓、千代山鉾、風流傘、龍の口、乗馬の武者2名、小神輿、鉦、太鼓、火炎太鼓、
楽人4名、大神輿、鉾、槍、白馬、白馬のポニー、神主の馬、 の順で9地区のそれぞれに、行列の持ち物の分担があるようですが、やはり、神輿を担ぐ高校生達が大変そうでした。
(龍の口)
(楽人と神輿)
行列はあるきながら鉦をちゃんちゃんと鳴らし、続いて太鼓を3つくらい鳴らして進みます。
我々は、行列の先頭近くについて、行列と共に歩きましたが、途中何度か行列が止まり、
近くの御旅所(10メートル四方位の広場)では神輿が中央の石の回りを3回回ったようでした。
行列は各地区の狭い道をゆっくり進みますが途中前方後円墳(矢矧塚古墳)のそばを通りました。
市長の馬は、元気が良すぎるのか、途中で何度もいななきました。
3時頃、2キロほど歩いて東側の丘の中腹の御旅所(大和稚宮神社)に着き、
神社の前の斎竹で囲まれた境内に神輿を2つ置き、その前の祭壇で、祝詞や玉串奉奠、
地区ごとの供物(酒など)と萱束奉納、玉串奉奠がえんえんと続きました。
供物や萱束は一旦そばの別の神社(歯定神社)に納めてから、祭壇に運んでいました。
4時半すぎ、烏帽子姿の子供2人による、龍の口舞(といっても龍の口を持って神輿の周囲を三度回り祝詞を上げるだけですが)があり、終わると皆から拍手を受けていました。
その後、翁舞があり、終わってから歯定神社から萱束を出して、皆に投げてくれました。
私も一束をいただきました。
翁舞といっても、翁の鋤で土を耕す動作のあと、水干姿の男性が10人ほど、桶の中の樫の青葉を掴んで、何か呪文を叫んで一斉に空へ投げ上げるだけでしたが。
御旅所での神事の間に、各地区の行列の参加者たちは、シートの上で、幕の内弁当と
お酒や飲み物をいただいていました。神事が長いので、多分お酒の酔もさめてきたでしょう。
神事が終わると、それぞれの地区の人が萱束を受け取っていましたが、豊作祈願のため、
あとで各家に配るようです。
(地区は、中山、成願寺、岸田、長柄、兵庫、佐保庄、新泉、三昧田、萱生(かよう)でした)
行列の古墳を過ぎる春祭 常朝
若き市長烏帽子が似合ふ春祭 常朝
御旅所を降りる坂道雲雀鳴く 常朝
(稚宮神社での祝詞)
(頭人児の参拝)
(子供の龍の口舞)
(翁舞の耕し)
(翁舞で樫の葉を投げ上げる)
地区毎の奉納参拝も、ゆっくりしたもので、いかにも田舎の祭でしたが、
それはそれで、地域の皆さんはのんびりと春の祭を楽んでいるようでした。
御旅所から降りる畦道を歩いていると雲雀が左右で鳴いていました。、
我々も、うららかな桜の花の下で、古式豊かな大和の祭を楽しむことができました。
4月初めの暖かい日曜日、奈良・天理市の大和神社の「ちゃんちゃん祭」を訪ねました。
ここは、弓始めなどでよく訪ねていますが、ちゃんちゃん祭は11年ぶりです。
(参照:アカシア紀行30)
12時半頃、神社の東の臨時駐車場に駐車し、境内に入ると、
長い参道に屋台が10軒くらい出ており、子供達にくじ引きで縫いぐるみ、カードなどを
売ったり、お菓子やバナナチョコなど食べ物を売っていました。
また、境内では、すでに行列のために白い水干を着た人たちや、行列の馬5頭などが、
それぞれ出番を待っていました。
中には金色の烏帽子を被った小学生の男子たち(頭人児:各地区の頭屋の子)、白馬、白いポニーもいました。
(ちゃんちゃん祭ポスター:クリックで拡大、以下同じ)
(大和神社)
(くじ引きの屋台)
(二ノ鳥居近くの屋台)
(出番を待つ白馬とポニー)
(鉾、千代山鉾と風流傘)
本殿にお参りしてから、鳥居のそばで行列を待ちました。
200人近い行列なので、メンバーが揃うのに時間がかかるようでした。
烏帽子姿の子供が退屈そうに、参道の砂利で遊んでいました。
二ノ鳥居を先頭にやっと2時頃行列が揃い、太鼓の合図で出発しました。
露払いの錫杖、梅ずわい(若枝)、赤天狗、錦の旗2本、市長の乗ったサラブレッド(馬)、
鉦、太鼓、千代山鉾、風流傘、龍の口、乗馬の武者2名、小神輿、鉦、太鼓、火炎太鼓、
楽人4名、大神輿、鉾、槍、白馬、白馬のポニー、神主の馬、 の順で9地区のそれぞれに、行列の持ち物の分担があるようですが、やはり、神輿を担ぐ高校生達が大変そうでした。
(龍の口)
(楽人と神輿)
行列はあるきながら鉦をちゃんちゃんと鳴らし、続いて太鼓を3つくらい鳴らして進みます。
我々は、行列の先頭近くについて、行列と共に歩きましたが、途中何度か行列が止まり、
近くの御旅所(10メートル四方位の広場)では神輿が中央の石の回りを3回回ったようでした。
行列は各地区の狭い道をゆっくり進みますが途中前方後円墳(矢矧塚古墳)のそばを通りました。
市長の馬は、元気が良すぎるのか、途中で何度もいななきました。
3時頃、2キロほど歩いて東側の丘の中腹の御旅所(大和稚宮神社)に着き、
神社の前の斎竹で囲まれた境内に神輿を2つ置き、その前の祭壇で、祝詞や玉串奉奠、
地区ごとの供物(酒など)と萱束奉納、玉串奉奠がえんえんと続きました。
供物や萱束は一旦そばの別の神社(歯定神社)に納めてから、祭壇に運んでいました。
4時半すぎ、烏帽子姿の子供2人による、龍の口舞(といっても龍の口を持って神輿の周囲を三度回り祝詞を上げるだけですが)があり、終わると皆から拍手を受けていました。
その後、翁舞があり、終わってから歯定神社から萱束を出して、皆に投げてくれました。
私も一束をいただきました。
翁舞といっても、翁の鋤で土を耕す動作のあと、水干姿の男性が10人ほど、桶の中の樫の青葉を掴んで、何か呪文を叫んで一斉に空へ投げ上げるだけでしたが。
御旅所での神事の間に、各地区の行列の参加者たちは、シートの上で、幕の内弁当と
お酒や飲み物をいただいていました。神事が長いので、多分お酒の酔もさめてきたでしょう。
神事が終わると、それぞれの地区の人が萱束を受け取っていましたが、豊作祈願のため、
あとで各家に配るようです。
(地区は、中山、成願寺、岸田、長柄、兵庫、佐保庄、新泉、三昧田、萱生(かよう)でした)
行列の古墳を過ぎる春祭 常朝
若き市長烏帽子が似合ふ春祭 常朝
御旅所を降りる坂道雲雀鳴く 常朝
(行列を待つ御旅所)
(御旅所の説明板)(稚宮神社での祝詞)
(頭人児の参拝)
(子供の龍の口舞)
(翁舞の耕し)
(翁舞で樫の葉を投げ上げる)
地区毎の奉納参拝も、ゆっくりしたもので、いかにも田舎の祭でしたが、
それはそれで、地域の皆さんはのんびりと春の祭を楽んでいるようでした。
御旅所から降りる畦道を歩いていると雲雀が左右で鳴いていました。、
我々も、うららかな桜の花の下で、古式豊かな大和の祭を楽しむことができました。