2017年9月27日水曜日

255. 東京・根岸の子規庵

「アカシア紀行・俳句」2017年9月24日(日)    前へ   次へ 

  秋彼岸の好天の日曜日、長男夫婦の招きで、東京・開成高校の文化祭を訪ねました。
参観する前に時間があったので、高校の南の鶯谷から北へ歩いて10分位の
子規庵を訪ねました。

 子規庵は、正岡子規が明治27年2月から母、妹の律と、明治35年9月19日亡くなるまで
住み、その後昭和20年4月の空襲で焼けた家を、寒川鼠骨氏他が昭和25年復元したもので、今は東京都指定史跡となっています。

 奈良を6時に出て、東京駅に9時半、鶯谷に着いたのは10時前だったので、
開館の10時半まで時間があり、近くの中村不折家跡、西側の陸羯南(くがかつなん)家跡、
森鴎外家跡などを探しました。書道博物館になっている中村不折家跡以外は
案内板がなく、このあたりとしかわからなかったですが。

 子規庵は間口奥行とも約7間(14メートル)ほどで、入り口(北側)は、
書道博物館の南です。玄関の前には白く細い花びらの朝顔の鉢がありました。

 入庵料500円を納めて、ビニール袋に靴を入れて、座敷に上がりました。
すでに20人位の人が展示の絵や写真、仕込み杖などを見ており、庭に向かって左側には
子規が使っていた机がありました。机は子規の左足が曲がらなかったので、
立膝で座れるよう、15センチ四方位の切り込みがありました。

 庭に出ると、絶句となった「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」などにある、
糸瓜棚(ヘチマ)があり、8個位はぶら下がっています。
その前には有名な「鶏頭の十四五本もありぬべし」の 鶏頭が20本以上咲いており、
萩、女郎花など色々な秋の花が咲いていました。

 庭には間口4メートルほどの文庫蔵がありますが、このおかげで貴重な、
作品や遺品が空襲からまぬがれたとのことです。

       子規庵の庭は狭しや女郎花    常朝

       切れ込みの机より見る糸瓜かな  常朝

                 (子規庵玄関:クリックで拡大:以後同じ)
                 (子規庵)
               (子規庵説明板)
                (子規庵の庭)
                (八畳と縁側)
                (子規文庫蔵)


 その後、鶯谷から山手線・日暮里駅で降り、子規が好きだったという
羽二重団子を買い、西日暮里の高校の文化祭にいきました。

 文化祭では、100ほどの教室や会場に分かれたパフォーマンスや展示説明などがありますが、
我々は折り紙室、生物学室、カジノ室などを見学、カジノ室では、
ルーレット、ブラックジャック、ポーカーで遊びました。
もらった100点分位のコインは結局全部まきあげられましたが、
高校とは思えないほど良く練られて準備された文化祭でした。

 夜は鶯谷の「笹の雪」で子規が好んだという豆腐料理、あんかけ豆腐などをいただきました。

 翌日は、歌舞伎座の一幕見席で「毛谷村」を見て、近くのインドカレー店「ナイル」で
ムルギーランチをいただいた後、子規が

      藪蕎麦に菊の膾はなかりけり 

と詠んだ藪蕎麦を、神田淡路町でいただいて、奈良に帰りました。

                (開成文化祭の入口)
                (文化祭の人の群)
                (笹の雪:鶯谷)
                (藪蕎麦の店:神田淡路町)

 長男夫婦と孫のおかげで、よく練られた秋の高校文化祭を参観でき、
運良く子規を偲ぶ小旅行ができました。

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