2008年10月10日金曜日

72. 奈良・高取城址から阿波野青畝生家、束明神

「アカシア紀行・俳句」2008年10月9日(木)

 秋晴れに恵まれた日、妻、義兄姉らと5人で奈良・高取町の高取城址に
登りました。
高取城は、南北朝の頃、越智氏の山城でしたが江戸時代、旗本の植村家政が
25000石の大名として城主となり、幕末まで14代続いたそうです。
岐阜の岩村城、備中松山城とならんで日本三大山城の一つとされています。
高さ583メートルの山城にもかかわらず、白亜の天守と多くの櫓があったようです。
昔は

 「巽(たつみ)高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城」

といわれたそうです。(土佐は高取の地名)
本丸入口にこの歌の石碑があります。
明治20年代、建物はすべて処分されて石垣だけとなりました。

 城址への登山口は、南から、壺阪口、七つ井戸口、北から高取町の
上子島(かみこしま、かごしま)からの三つありますが、
我々は朝10時半頃、壺阪口に車をおいて登りました。
道は割合急な細い坂道ですが、途中、釣船草、秋丁字(あきちょうじ)、
水引草、蓼(たで)、ゲンノショウコ、トリカブト、野菊など、
秋の草花が咲いています。
途中の岩場には木の階段が作られていました。
城の南側の侍屋敷跡(草原だけですが)を通って、大手門前に11時前に
着きました。左手の道は上子島からの道です。
大手門跡から、左右に急に曲がる石垣の間の道を、十三間多門跡から
二の丸跡、本丸跡へと登りました。二の丸跡には東屋(屋根付の休憩所)
があり、東の石垣下には高取城沿革の大きな説明板があります。

 本丸跡には天守台、説明板と大きな石の方位板がありました。
方位板からはるか南に吉野(大淀町)の町が見えます。
天守台のそばの木の机と椅子に坐り、持参のお弁当や草餅、蜜柑などを
いただきました。
その後三角点のある天守台に登ってから下山しました。

 まだ時間があったので、高取町上子島の阿波野青畝生家に行き、

   「虫の灯によみ昂(たかぶ)りぬ耳しひ児(に)」

の句碑などを拝見しました。
縁者の方が大阪から草刈などのために帰っておられました。
さらに、高取町佐田の束明神へ足を伸ばしました。
束明神は草壁皇子の墓と伝えられていますが、低い円墳で、
シダに覆われていました。そばに春日神社があり、古い拝殿に
古墳発掘の時の石室の図がかかっています。
その後橿原観光ホテルでコーヒー休憩後、義兄宅で解散しました。


         山城の幻消えて秋の蝶       常朝     
          
         揺れやまぬ野菊もありて天守跡   常朝

         幾たびも秋の蚊を追ふ皇子の墓   常朝   

        (壺阪口:登山口・写真はすべてクリックで拡大)

        (二の丸跡)

        (本丸の南側)

        (阿波野青畝生家の句碑:虫の灯に・・)

        (束明神の円墳:伝草壁皇子の墓)

 

71. 奈良豆比古神社・翁舞

「アカシア紀行・俳句」2008年10月8日(水)

 晴れた夜空に半月の明るい日、妻、義兄姉らと6人で奈良豆比古神社
(ならつひこじんじゃ)の翁舞(おきなまい)を見学しました。
翁舞は能楽の原型といわれる室町の頃からの猿楽の舞だそうで、
平成12年重要無形民俗文化財に指定されています。
毎年10月8日、秋祭りの宵宮に奉納されるそうです。

 奈良豆比古神社は奈良市の北、奈良坂の峠にある奈良時代からの古い神社
で、祭神として志貴皇子(平城津比古神、春日宮天皇(田原天皇))と、
春日王(志貴皇子の第二王子)を祀っています。
境内には樹齢1000年以上、幹回り13メートルもの楠の巨木が立っています。

 バスでは近鉄奈良駅から青山住宅行き路線の奈良坂ですが、我々は車で、
近くの瓦製作会社の瓦道の駐車場に駐車させてもらいました。
午後7時頃神社に着くとすでに100人以上の人が境内の拝殿(舞殿)に
集まっていました。
本殿はさほど大きくありませんが、拝殿との間に二つのかがり火が燃えています。

 まず翁舞保存会の会長の挨拶のあと8時、神主が衣装部屋と拝殿をつなぐ
渡り床を通って、拝殿にあらわれ、本殿に向かって祝詞をあげました。
その後順に、笛奏者、小鼓の人2人、太鼓、地頭、地謡3人、脇、千歳、
太夫の順に、本殿に一礼後、拝殿の周囲に座りました。
太夫がこの舞の主人公のようです。
全員着座後、笛と鼓が鳴り出して、翁舞が始まりました。

 最初は、太夫と地謡による前謡で、「とうとうたらりたらたら」と
わけのわからない歌詞ではじまり、続いて烏帽子・袴姿の若い高校生位の
男子による千歳(せんざい)の舞があり、次に、翁面をつけた太夫の舞、
脇2人と3人の舞、太夫と千歳の問答、三番叟(3人の翁の舞)とつづいて、
活発な後舞いで夜9時前終りました。
囃子言葉も「おう」とか「うー」とかで、いかにも室町時代に戻ったような
素朴ながら格式の感じられる舞でした。
拝殿の上には大楠の黒い影があり、半月がすべてを照らしていました。


         舞殿を月も照らして翁舞       常朝     
          
         翁舞鼓止まれば虫の声        常朝

         月照らす楠の大樹や翁舞       常朝   

        (奈良豆比古神社の拝殿・写真はすべてクリックで拡大)

        (楠の巨樹)

        (翁舞)

        (翁舞の奉額写真)

2008年10月6日月曜日

71. 奈良春日大社・神苑(万葉植物園) 

「アカシア紀行・俳句」2008年10月2日(木)

 久しぶりの秋晴の日、妻、妻の友人、義兄姉らと6人で奈良・春日大社の神苑:
万葉植物園を拝観しました。

 万葉植物園は春日大社の西300メートルほどの杜の中にありますが、
我々は、鳥居のある参道からでなく、奈良国立博物館の東の大仏殿交差点から
東南の杜の中の参道を歩きました。
途中、秋の七草を詠んだ山上憶良の歌碑があり、かわいい小鹿が我々に寄って
きたり、親の乳を求めて走ったりしていました。

 ゆっくり歩いて神苑に着いたのは午後1時半ころ、拝観料525円で入場券と
神苑マップをもらいました。
万葉植物園は昭和7年に歌人佐々木信綱氏らの協力で開設され、約300種の
万葉植物が植栽されているとのこと。
正門左側には茶粥などで知られる大社直営の荷茶屋(にないちゃや)があります。
正門を入って左の道を行くと、赤米、黒米が小さな田に実って、網がかけられて
いました。
さらに東へ進むと大きな池があり、毎年5月5日と11月3日に雅楽と舞が奉納
される浮舞台があります。
途中、なつめ(棗)の木や山梨の木、栴檀(せんだん・おうち・楝・樗)の木
などがあり実をつけていました。

奥には歌泉堂という小さな八角堂があり、柿本人麻呂を祀っています。
そばの小さな川にはきれいな秋水が流れ、虫の声が聞こえました。
その後、南側の道を西へ戻り、種々の万葉植物の植栽を見ました。
あかね、思い草(南蛮きせる)、やまあい、山菅(やますげ)、あずさ、きささげ、
おけら、むらさきなどがありました。
おうち(樗)の木には池の波が反射してきらきらゆれていました。
波の反射が暗いところにうつるのを水蜉蝣(みずかげろう)というそうです。
3時すぎ神苑を出て、駐車した春日野町の黒川本家で葛切りをいただき解散しました。

         七草の歌碑読みおれば鹿の声     常朝     
          
         山梨の甘み確かめすぐ捨てし     常朝

         池波のゆらめき映ゆる樗の実     常朝   

        (浮舞台)

        (思い草)

        (思い草の万葉歌)

        (山梨の実)

  (写真はすべてクリックすると拡大します)

2008年9月15日月曜日

70.奈良斑鳩・藤の木古墳から郡山城・お月見茶会

「アカシア紀行・俳句」2008年9月14日(日)


 9月中秋の名月の日、妻、義兄姉らと5人で奈良斑鳩・藤の木古墳から
郡山城跡でのお月見茶会に行きました。

 夕方5時頃、斑鳩の法隆寺の駐車場で集合し、西へ歩いて15分くらいの
藤の木古墳を訪ねました。
法隆寺は国道25号線沿いですがJRでは法隆寺駅から徒歩15分位です。
藤の木古墳は1985年に発掘された6世紀頃の円墳ですが、家型石棺に
渡来人系の見事な馬具など副葬品が出て有名になりました。
今回訪ねると昔円墳にあった木々はなく古墳公園のようにきれいに整備されて
いました。
直径50メートル高さ10メートル位のなだらかな円墳で、古墳の石室へは
入れませんが、中が一部見られるように通路が作られています。
表面は秋の草花で覆われ、ネコジャラシが風にゆれていました。
そばには復元の石棺が置かれて、すぐ横の田では稲穂が黄ばんでいました。

 その後大和郡山のレストラン「ベンケイ」で夕食後、郡山城に移動しました。
「ベンケイ」は今年5月10日、胡錦濤・中国国家主席が唐招提寺などを
訪問後昼食をとられたレストランで、郡山城の北西200メートルほどです。

 郡山城へは国道25号線の法隆寺東から県道9号線を6~7キロ北上します。
郡山城では東側の追手門に駐車し、7時半頃城跡の芝生に陣取りました。
芝生に毛布を敷き、和菓子と茶筅でたてたお抹茶をいただきました。
暗くなっていたので、周囲はほかに誰もいず、虫の声だけでした。
その虫の声のなかに鉦叩(かねたたき)のチン、チンという声がかすかに
聞こえました。
幸いにも空は半分くらいは晴れて、薄雲を透かして明るい満月が見えました。
近くには、明治時代の奈良図書館を移設した公民館があり、
山口誓子、森田許六の句碑が立っています。
城濠には月は勿論、星さえも映っていました。
我々だけが郡山城を借り切ってお月見をしたようで、最高のお月見茶会でした。

 その後斑鳩の法輪寺に行き、塀の外からですが、三重の塔にかかる
満月を見たあと、9時頃から斑鳩のレストラン「さと」で小句会後解散しました。
その頃は空は雲ひとつなく晴れて名月が煌々と輝いていまいた。



         虫すだくなかにたしかに鉦叩     常朝     
          
         薄雲の流れ透かして今日の月     常朝

         犬吠える月水煙に昇りきて      常朝   

        (藤の木古墳)

        (誓子の句碑:大和また新たなる国田を鋤けば)

        (許六句碑:菜の花の中に城あり郡山)

  (写真はすべてクリックすると拡大します)

2008年9月6日土曜日

69.伊勢神宮・おかげ横丁から鳥羽の海

「アカシア紀行・俳句」2008年9月5日(金)


 9月初めの雨もようの日、妻、義兄姉らと伊勢神宮(内宮)から
おかげ横丁を訪ねました。
目的は伊勢参拝というより、赤福のかき氷でした。

 近鉄の宇治山田駅からタクシーに合乗りして内宮前に着いたのは、
10時40分ころ、少し雨が降ったり止んだりの中を、五十鈴川の
宇治橋を渡り、参道を1キロ弱ゆっくり歩きました。
雨のせいか人はさほど多くなく、参道は広々として、松などの
樹木は青々としていました。

 なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
                                (西行法師)

のような気持といえばややオーバーですが。

参道の鳥居は宇治橋の両側のほかに2つありましたが、いずれも伊勢神宮という
日本最大の神宮にしては質素で、かえって清清しい感じです。

 宇治橋から2、300メートルの所に手水舎があり、その右手奥に
五十鈴川で手を清める場所がありますが川の水は雨で笹濁りでした。
砂利道を歩いていると、三光鳥が「ヒーツキホーシ」と鳴きました。
本殿である正宮へはみごとな青石の階段があり、左の神官詰め所には
一人の神官が人形のように動かず、端然と坐っていました。
正宮への門は萱葺きで苔が雨水に光っています。
周囲の板塀は何本もある杉の大樹にすれすれに建っていますが、
杉の生長で夜には板塀が軋むそうです。
神域案内図にある籾だね石は見つけることができませんでした。

 20年毎の次の遷宮は2025年ですが、次の遷宮の地はすぐ西隣にあり、
金網などで囲まれていました。
宇治橋は遷宮に先立って今年末から再築されるそうです。
参拝後、おはらい町通り(旧参宮街道)の奥野屋で昼食後、
おかげ横丁の山口誓子俳句館を訪ね、赤福で「かき氷」をいただきました。
ここのかき氷は、勿論赤福の白玉もちと餡が入っており、
宇治茶と蜜がかけられて、おいしかったです。
平日というのにお店は若い人達でいっぱいでした。

 のち、五十鈴川べりで鵜などを見ましたが、このまま帰るのも
もったいない感じだったので、海を見ようとタクシーで鳥羽港へいきました。
移動中雨が降り出したので、観光船乗り場で雨宿りをしていたら、
飛竜という観光船の船長のセールストークにまんまと載せられ、
貸切の観光船でイルカ島、答志島そばなど約1時間鳥羽湾をめぐりました。
途中、牡蠣(かき)筏やハマチ釣りの船、島の観音像などが見えました。
小雨の中、灯台は弱々しい光を出し、灰緑色の海をカモメが飛び、
牡蠣船が疾走していました。
牡蠣筏は牡蠣が成長した重みでやや沈み気味に浮かんでいましたが、
今は真珠の筏は伊勢湾には殆どなくなったようです。
鳥羽港に戻ると雨はほぼ上がっていました。
5時過ぎ、鳥羽からの近鉄特急の中で小句会をして解散しました。



         正宮の苔を光らす秋の雨       常朝     
          
         笹濁り川鵜首出す五十鈴川      常朝

         灯台の光弱めて秋の雨        常朝   

        (五十鈴川・御手洗場)

        (伊勢神宮の正宮門)

        (誓子俳句館)

  (写真はすべてクリックすると拡大します)

2008年8月30日土曜日

68.奈良・なべくら渓と神野山(こうのやま)など

「アカシア紀行・俳句」2008年8月29日(金)


 8月末のゲリラ豪雨の合い間の日、妻、義兄姉らと奈良・山添村の
鍋倉(なべくら)渓、めえめえ牧場、神野山頂、氷室神社を訪ねました。

 鍋倉渓は、名阪国道・神野口ICの北西約3キロの神野山(こうのやま)の
ふもとにある巨岩ばかりの渓谷です。
我々は奈良から車で行きましたが約50分で鍋倉渓の下の駐車場に着きました。
駐車場には10数台のスペースがありますが、この日は我々の車だけでした。

 案内板によると、鍋倉渓は神野山の角閃班れい岩という火成岩が侵蝕に
耐えて残った渓谷だそうです。
伊賀の天狗と神野山の天狗が岩をけんかで投げ合ったという言い伝えも
あるようです。

 岩の色は黒っぽく、このために鍋底の黒色ということから、なべくらという
名ができたらしいとのこと。
数百メートルの渓谷に木道・木階段があり百メートルほど登りました。
途中、岩の間から仙人草、ひよどり花(つぼみ)、桔梗、へくそかずら
などの花が咲いています。ときおり下から涼しい風が吹いてきました。

 その後、同じ神野山のふもとの「めえめえ牧場」へ移動、羊毛館に駐車し
40~50頭いる羊の牧場を見学しました。
顔と足の黒い種は「サフォーク」、全身白い種は「コリデール」とのこと。
子羊は12月に生まれ、春に羊毛を刈るそうです。
羊たちは人なつっこく、我々に寄ってきます。
羊たちに羊せんべいをあげ上の牧場区画を見たのち、神野山頂にいきました。
牧場は10以上の区画に柵で分けられ、牧草を育てるため順に休ませるようです。

 頂上へは羊毛館からの道では行けず、一旦ふもとへ下りて塩瀬地蔵の
西の道から狭い道を登りました。
頂上には展望台があり、すこし霧と雲で包まれた景色が360度見えます。
また阿波野青畝の句碑にも霧が流れていました。
こと座の星などを地上に映したという、3つの大岩(王塚、八畳岩、天狗岩)
へは今回行きませんでした。

 のち、名阪国道「針」の道の駅で昼食後、雨の氷室神社を参拝し、
奈良で小句会後5時頃解散しました。


         仙人草天狗投げたる岩の谷      常朝     
          
         伏流の岩間に一花花桔梗       常朝

         山頂のつつじの句碑に霧流る     常朝   

        (鍋倉渓(なべくらけい))

        (めえめえ牧場)

        (神野山頂の青畝句碑)
         
        (写真はすべてクリックすると拡大します)

2008年8月23日土曜日

67.京都・清閑寺

「アカシア紀行・俳句」2008年8月9日(土)


 暦の上では秋といってもまだまだ暑い日、句会の諸先輩らと京都東の
清閑寺を訪ねました。

 清閑寺は、お寺からいただいた伝記によると、
延暦21年(802年)紹継法師による創設で今は真言宗智山派とのこと。
この地は、東海道から京の五条方面へ入る峠にあり、「歌の中山」と
よばれているそうです。
江戸方面からきた人が京を見る最初の感動の地でした。
また土が良く清水焼の発祥の地だそうで、石碑が立っています。
さらに、平家物語にある小督(こごう)の局で有名な寺で、幕末には
西郷隆盛と月照が謀議した寺とのことです。
小督の局は高倉天皇に愛されましたが、中宮(建礼門院徳子)の父であった
平清盛の命で、御所からこの寺に追い出され剃髪しました。
高倉天皇の遺言で、小督の局の寺に御陵が作られたとのことです。

 ここへは、清水寺から南へ徒歩でも来られますが、
我々は京都駅からタクシーに合い乗りしてきました。
(京都駅の東約3キロ、国道1号線のガードをくぐります)
駐車場の上は高倉天皇、六条天皇の御陵があり、蝉が鳴いていました。
御陵の前の石段を登ると清閑寺の山門があり、
石段や境内には道おしえ(はんみょう)が数匹いました。

 我々が入山するとお住職が蚊取り線香を庭に出してくれました。
山門を入って左の鐘楼の前に、西郷隆盛月照謀議旧跡の石標があります。
境内から西の谷の合間に京都タワーが見えます。
見晴らしの場所に大きな岩があり、要石(かなめいし)と呼ばれています。
これは京都を望んだ扇状の空の要の部分に石があるからだそうです。
またこの石に祈ると願い事がかなうといわれています。
そこの大桜にこげら(小啄木鳥)がきていました。

本堂右の庫裏の縁ではクーラーをかけて犬があごを足に載せて寝ていました。 
その後中京区六角麩屋町の「三木半」で句会、夕食後解散しました。


         西郷の謀議の寺や秋暑し         常朝     
          
         足にあご載せて犬寝る夏の寺       常朝

        (清閑寺山門)

(西郷月照謀議旧跡)

        (小督の局像)