「アカシア紀行・俳句」2009年12月4日(金)
師走始めのおだやかな天気の日、
いつものメンバー7人で山科の大石神社ほかを訪ねました。
大石神社は、昭和10年に創建された大石内蔵助を祀る神社です。
赤穂の大石神社は明治にたてられたそうです。
こちらの神社は京阪電鉄山科駅から南西へ約3キロ、バスで大石神社前ですが、
我々は車で、深草から府道35を東へ名神高速沿いに行きました。
神社は山科の低い山のふもとにありますが、12月の義士祭りの幟があちこちに
立っていました。
境内への石段の両側に献燈台があり、一力亭などの提灯が掛っています。
境内のすぐ右に囲いがあり、「花子」という名の小馬が一頭いました。
説明板にはファラベラ・ミニホースという種で、10歳だそうです。
本殿にお参りしたあと、境内やそばの池を散策、句碑を読んだりしたあと、
左手の宝物殿の展示を拝見しました。
四十七士の屏風や内蔵助の絵などがありました。
境内の紅葉は風もないのにゆっくり、ゆっくり散っていました。
散りつつも紅葉輝く義士の杜 常朝
紅葉散る間のほどよくて義士の杜 常朝
(大石神社:写真はすべてクリックで拡大)
(大石神社の紅葉)
(大石内蔵助の絵)
その後、近くの岩屋寺に行きました。
ここには元禄14年6月から翌年討ち入り4ケ月前の8月まで内蔵助が過ごした
大石邸の跡がありますが、神社と同じく、紅葉が大変きれいでした。
討ち入り後、邸宅、田畑などをすべて岩屋寺へ寄進したそうです。
「雪がきてなにもなき野をかざりけり 都峰」などの句碑があります。
寺の左手には産土神(うぶすな)の山科神社があります。
石段が高くで我々は登らず下から頭を下げただけでした。
(岩屋寺)
道を戻って、伏見稲荷門前の「稲福」で昼食後、
伏見大社に参拝しました。
さすがに大社は、平日なのに大勢の参拝客があります。
境内右手に舞台があり、奉納の舞がありました。
舞を奉納すると分霊をいただけるそうで紫の袱紗に包んでいました。
私は本殿奥の火焚き祭などの斎場へ行きましたが、ロープがあり
入れませんでした。
途中の参道に女占い師が小さな台をおいて、立ったまま、女の人の
占いをしていました。
奥の参道では中学生らしい女生徒たちが散ってくる木の葉を競って
受けようとしていました。木の葉に遊ばれているようでもありました。
占いの女立ちをり冬の杜 常朝
女生徒の群とたはむれ木の葉散る 常朝
(伏見稲荷大社)
(伏見大社の舞台)
その後、伏見桃山城を訪ねました。
ここは2007年以降伏見桃山運動公園の一部になっていますが、
1964年(昭和39年)に、江戸時代の伏見桃山城を模して
つくられた模擬城で、城内の見学はできません。
庭には赤い橋もあり、桜などが植えられて広々とした公園ですが、
俳句はむずかしい感じです。
しばらくお城などを見た後、奈良・ドリームランド跡前のcocosで
小句会後解散しました。
入場のできぬ天主に冬の雲 常朝
(伏見桃山城)
2009年12月12日土曜日
2009年11月6日金曜日
95.大阪・河内・弘川寺から建水分神社ほか
「アカシア紀行・俳句」2009年11月2日(月)
午後雨にあうとは予想できない良い天気の朝、
いつものメンバー6人で大阪府・南河内郡の弘川寺を訪ねました。
ここは、葛城山の西の山麓にある、飛鳥時代に役の行者が開いたといわれる、
天武天皇の勅願寺で、鎌倉時代、西行法師が晩年を過ごした寺です。
本尊の薬師如来坐像は本堂の蓮華座に安置されていました。
我々は車で9時半集合しましたが、電車では近鉄・河内長野線の富田林駅から
河内行きバス(約20分)終点から歩いて10分とのことです。
坂を登った駐車場に車をおき、階段を登ると、高い杉の木に
囲まれた本堂があり、張り替えた障子が数枚、縁に立てかけて
ありました。
本尊にお参りしてから寺山の坂を登り、まず西行法師のお墓、
西行墳にお参りしました。
お墓は小さな台地の右奥にあり、直径10メートルくらいの円墳です。
西行墳の上には数本の背の高い木がのびており、木の走り根がお墓の周囲を
固めていました。
台地の左側には西行法師のお墓を見つけて庵をむすんだ似雲法師の
径3メートルくらいのお墓もありました。
ほぼ正面には、西行法師の
「願わくは花の下にて春死なむ・・・」の歌碑が建っています。
そこから山を登ると、似雲法師の「花の庵」跡があり、ちかくに
阿波野青畝の句碑、さらに上には西行法師の庵跡があり、
つつじの返り花がたくさん咲いていました。
桜の木は沢山ありますが、いずれも薄紅葉でした。
1989年の八百年忌に西行墳の東3.5町歩の山地に千本の桜を植樹したそうで、
その桜が今大きく育っています。
当時は西行庵から須磨、明石が見えたそうですが、今は遠くにかすんで
須磨の海は見えませんでした。
山を下りかけると時雨が降ってきました。
途中の西行堂でしばらく雨宿りしてから、本堂左手の本坊を訪ね、
お庭などを拝見し、西行記念館を見学しました。
中には、いくつかの西行法師像や似雲法師像があり、
狩野探幽の西行富士見図や西行物語絵巻など、貴重な寺宝、文献が
展示されています。
西行墳覆ふ走り根小鳥来る 常朝
紅葉越し須磨は見えずよ庵跡 常朝
(弘川寺本堂:写真はすべてクリックで拡大)
(西行墳)
(青畝句碑)
(西行庵跡)
その後、道の駅「かなん」の向かいのレストラン、愚留芽で
昼食後、小句会を楽しんで解散しました。
我々奈良組は、その後楠公ゆかりの建水分神社や奉建塔を訪ねて
帰りました。
奉建塔そばの植込みには烏瓜がいくつも掛っていました。
水分社の注連に初穂の垂(しで)掛る 常朝
楠公の城跡赤き烏瓜 常朝
(建水分神社)
(楠公・奉建塔)
(奉建塔の案内)
午後雨にあうとは予想できない良い天気の朝、
いつものメンバー6人で大阪府・南河内郡の弘川寺を訪ねました。
ここは、葛城山の西の山麓にある、飛鳥時代に役の行者が開いたといわれる、
天武天皇の勅願寺で、鎌倉時代、西行法師が晩年を過ごした寺です。
本尊の薬師如来坐像は本堂の蓮華座に安置されていました。
我々は車で9時半集合しましたが、電車では近鉄・河内長野線の富田林駅から
河内行きバス(約20分)終点から歩いて10分とのことです。
坂を登った駐車場に車をおき、階段を登ると、高い杉の木に
囲まれた本堂があり、張り替えた障子が数枚、縁に立てかけて
ありました。
本尊にお参りしてから寺山の坂を登り、まず西行法師のお墓、
西行墳にお参りしました。
お墓は小さな台地の右奥にあり、直径10メートルくらいの円墳です。
西行墳の上には数本の背の高い木がのびており、木の走り根がお墓の周囲を
固めていました。
台地の左側には西行法師のお墓を見つけて庵をむすんだ似雲法師の
径3メートルくらいのお墓もありました。
ほぼ正面には、西行法師の
「願わくは花の下にて春死なむ・・・」の歌碑が建っています。
そこから山を登ると、似雲法師の「花の庵」跡があり、ちかくに
阿波野青畝の句碑、さらに上には西行法師の庵跡があり、
つつじの返り花がたくさん咲いていました。
桜の木は沢山ありますが、いずれも薄紅葉でした。
1989年の八百年忌に西行墳の東3.5町歩の山地に千本の桜を植樹したそうで、
その桜が今大きく育っています。
当時は西行庵から須磨、明石が見えたそうですが、今は遠くにかすんで
須磨の海は見えませんでした。
山を下りかけると時雨が降ってきました。
途中の西行堂でしばらく雨宿りしてから、本堂左手の本坊を訪ね、
お庭などを拝見し、西行記念館を見学しました。
中には、いくつかの西行法師像や似雲法師像があり、
狩野探幽の西行富士見図や西行物語絵巻など、貴重な寺宝、文献が
展示されています。
西行墳覆ふ走り根小鳥来る 常朝
紅葉越し須磨は見えずよ庵跡 常朝
(弘川寺本堂:写真はすべてクリックで拡大)
(西行墳)
(青畝句碑)
(西行庵跡)
その後、道の駅「かなん」の向かいのレストラン、愚留芽で
昼食後、小句会を楽しんで解散しました。
我々奈良組は、その後楠公ゆかりの建水分神社や奉建塔を訪ねて
帰りました。
奉建塔そばの植込みには烏瓜がいくつも掛っていました。
水分社の注連に初穂の垂(しで)掛る 常朝
楠公の城跡赤き烏瓜 常朝
(建水分神社)
(楠公・奉建塔)
(奉建塔の案内)
ラベル:
吟行案内
2009年10月24日土曜日
94.虚子記念文学館から弓削牧場
「アカシア紀行・俳句」2009年10月22日(木)
うろこ雲のさわやかな日、いつものメンバー6人で芦屋市の虚子記念文学館から
神戸市北区の弓削牧場を訪ねました。
10時文学館集合でしたが、阪神高速大阪港線(阿波座-法円坂)が工事中で、
環状線東側から神戸線へ入ることができず、一旦信濃橋で降りて、中之島西から
高速道に再入路したのですが、環状線の出口、入口に迷って30分もおくれました。
文学館は阪神芦屋駅から南500メートルほど、芦屋川西岸から西へ60メートル
ほどにある瀟洒な2階の建物です。
入口の3台くらいの駐車場に車をとめ入館しました。
10月3日から来年5月9日まで「虚子の著作展」を開催中で、2階には高浜虚子の
俳句入門書、小説、夏目漱石の原稿、子規の仰臥漫録などのほか、
「小牡丹といふといへどの紅ほのか」などの有名な句の句軸も展示されています。
虚子の紫檀の文机、旅行かばんなどもありました。
句軸を見ていると蚊が一匹寄ってきました。
30分以上も見学して、近くの芦屋公園の鵺塚(ぬえづか)を見ました。
京で源頼政に退治された鵺の死骸が流れついた所だそうです。
なほ光る虚子の文机薄紅葉 常朝
秋の蚊や虚子の句軸を見上ぐれば 常朝
(虚子記念文学館:写真はすべてクリックで拡大)
(ぬえ塚)
(ぬえ伝説)
その後、上宮川町の神戸屋で昼食後、国道2号線を西へ、六甲道路から
花山台経由で有馬街道に入り、箕谷近くの芝床交差点から弓削牧場に行きました。
牧場は神戸電鉄・山の街駅の東2キロほどの山のふもとにありますが、
牧場の門は小倉台の住宅地に接しています。
駐車場から坂を上ると、右手に牛小屋があり乳牛が10頭くらいいて、
へちまの花が咲いて、大きな実が数個成っていました。
外の囲いには子牛が数頭寝そべっています。
牧場にはレストラン(チーズ、ケーキなど)があり、お客も数組ありました。
畑や土手にはローズマリーなどのハーブが植えられています。
土手上に見晴らし台がありましたが、木が生い茂って牧場しか見えませんでした。
しばらく散策して、レストランの庭のテーブルで小句会後、ケーキ・ミルクを
いただき、4時半頃現地解散しました。
牛小屋の窓の暗きにへちま咲く 常朝
ハーブの名聞きて忘れて鱗雲 常朝
(弓削牧場の牛舎)
(牧場レストラン)
(見晴らし台より牧場)
うろこ雲のさわやかな日、いつものメンバー6人で芦屋市の虚子記念文学館から
神戸市北区の弓削牧場を訪ねました。
10時文学館集合でしたが、阪神高速大阪港線(阿波座-法円坂)が工事中で、
環状線東側から神戸線へ入ることができず、一旦信濃橋で降りて、中之島西から
高速道に再入路したのですが、環状線の出口、入口に迷って30分もおくれました。
文学館は阪神芦屋駅から南500メートルほど、芦屋川西岸から西へ60メートル
ほどにある瀟洒な2階の建物です。
入口の3台くらいの駐車場に車をとめ入館しました。
10月3日から来年5月9日まで「虚子の著作展」を開催中で、2階には高浜虚子の
俳句入門書、小説、夏目漱石の原稿、子規の仰臥漫録などのほか、
「小牡丹といふといへどの紅ほのか」などの有名な句の句軸も展示されています。
虚子の紫檀の文机、旅行かばんなどもありました。
句軸を見ていると蚊が一匹寄ってきました。
30分以上も見学して、近くの芦屋公園の鵺塚(ぬえづか)を見ました。
京で源頼政に退治された鵺の死骸が流れついた所だそうです。
なほ光る虚子の文机薄紅葉 常朝
秋の蚊や虚子の句軸を見上ぐれば 常朝
(虚子記念文学館:写真はすべてクリックで拡大)
(ぬえ塚)
(ぬえ伝説)
その後、上宮川町の神戸屋で昼食後、国道2号線を西へ、六甲道路から
花山台経由で有馬街道に入り、箕谷近くの芝床交差点から弓削牧場に行きました。
牧場は神戸電鉄・山の街駅の東2キロほどの山のふもとにありますが、
牧場の門は小倉台の住宅地に接しています。
駐車場から坂を上ると、右手に牛小屋があり乳牛が10頭くらいいて、
へちまの花が咲いて、大きな実が数個成っていました。
外の囲いには子牛が数頭寝そべっています。
牧場にはレストラン(チーズ、ケーキなど)があり、お客も数組ありました。
畑や土手にはローズマリーなどのハーブが植えられています。
土手上に見晴らし台がありましたが、木が生い茂って牧場しか見えませんでした。
しばらく散策して、レストランの庭のテーブルで小句会後、ケーキ・ミルクを
いただき、4時半頃現地解散しました。
牛小屋の窓の暗きにへちま咲く 常朝
ハーブの名聞きて忘れて鱗雲 常朝
(弓削牧場の牛舎)
(牧場レストラン)
(見晴らし台より牧場)
ラベル:
吟行案内
2009年10月9日金曜日
93.浄瑠璃寺、岩船寺から郡山城・月見
「アカシア紀行・俳句」2009年10月1日(木)
中秋の名月の2日前の日、いつものメンバー7人で洛南・当尾の里(とうのの
さと)へ吟行しました。
11時前、車で浄瑠璃寺の駐車場につきました。
我々は奈良から来たので、美加の原ゴルフ場の南の府道44号線を北上し
右・浄瑠璃寺の案内に沿って南下しましたが、
JR関西線・加茂駅あるいはJR/近鉄・奈良駅からバスも60分あるいは40分おき
くらいであるようです。
浄瑠璃寺の参道には、萩やコスモスが揺れ、無人販売の吊り店もあり、
柿やとうがらしなどの野菜を売っていました。
境内にある大きな宝池の西側(彼岸)にある国宝の阿弥陀堂に九体の
国宝・阿弥陀如来を安置しているので九体寺ともいわれます。
池の東側(此岸)には三重塔(国宝)があり薬師如来を祀っているようですが、
アライグマに傷つけられので修復中とのこと。
まず入山料300円を納めて阿弥陀堂に入って九体仏を参拝し、
堂内を見学しました。
大きな金色の阿弥陀仏が9体ならんで静かな中にも圧倒されます。
たまたま今日から開扉されたふくよかなお顔の秘仏吉祥天も拝見できました。
お供えの中に、円筒形の絵仏具というのがありました。
のち、三重塔の下に歩きましたが、池の周囲に薄などの秋草が咲き乱れて
あたかも浄土のようです。
九体寺の格子より見ゆ秋桜 常朝
浄瑠璃寺の池に映して吾亦紅 常朝
(吊り店:写真はすべてクリックで拡大)
(浄瑠璃寺)
(三重塔)
山門を出て左手の山すそに蕎麦の「吉祥庵」があったので、昼食に新そばを
いただきました。
その後、周囲の当尾の里を散策し、藪中三尊石仏、首切り地蔵などをお参り
しました。 集落や畑の小道には熟柿が沢山落ちていました。
熟柿落つ首切地蔵見ておれば 常朝
(当尾の里・蕎麦の吉祥庵)
(当尾の里・首切地蔵)
その後、車で5キロほどの岩船寺に行きました。
同じく阿弥陀堂のある真言律宗の寺ですが、こちらのほうが
奈良時代に建てられたので、平安時代の浄瑠璃寺より古いようです。
重要文化財の阿弥陀如来坐像、四天王、普賢菩薩などが安置されています。
山門の前には石風呂が置かれています。
石段を登り山門から入ると境内には阿の字池、三重塔、十三重石塔などが
あります。高い木々に囲まれ、浄瑠璃寺よりさらに山寺の雰囲気が強いです。
阿の字池を見ていたら、小さな蛇が中の島から泳ぎ出し、
池岸に着いて草むらに消えました。
三重塔の軒のそれぞれの隅には天邪鬼が白い目を見せて軒を支えています。
石風呂の底にも紅葉岩船寺 常朝
(岩船寺)
のち、奈良・黒髪山のレストラン「cocos」で小句会後、月見のために
大和郡山市に移動しました。
郡山城近くの「弁慶」で夕食後、東側の追手門からお城に入りました。
去年同様、我々のほかは誰もいませんでした。
城跡の芝生にシートを敷いて、お茶会を始めた頃はまだ月は雲に隠れていました
が、お菓子をいただく頃に、やっと雲間から月が顔を見せてくれました。
満月の二日前の月で、雲の右手には木星が輝いていました。
虫の声を聞きながら出たり隠れたりする月を見て秋の夜を過ごし、追手門前で
解散しました。
俳句はもうひとつでしたが、盛り沢山の楽しい日でした。
城跡の芝の湿りに月を待つ 常朝
木星と雲をへだてて小望月 常朝
中秋の名月の2日前の日、いつものメンバー7人で洛南・当尾の里(とうのの
さと)へ吟行しました。
11時前、車で浄瑠璃寺の駐車場につきました。
我々は奈良から来たので、美加の原ゴルフ場の南の府道44号線を北上し
右・浄瑠璃寺の案内に沿って南下しましたが、
JR関西線・加茂駅あるいはJR/近鉄・奈良駅からバスも60分あるいは40分おき
くらいであるようです。
浄瑠璃寺の参道には、萩やコスモスが揺れ、無人販売の吊り店もあり、
柿やとうがらしなどの野菜を売っていました。
境内にある大きな宝池の西側(彼岸)にある国宝の阿弥陀堂に九体の
国宝・阿弥陀如来を安置しているので九体寺ともいわれます。
池の東側(此岸)には三重塔(国宝)があり薬師如来を祀っているようですが、
アライグマに傷つけられので修復中とのこと。
まず入山料300円を納めて阿弥陀堂に入って九体仏を参拝し、
堂内を見学しました。
大きな金色の阿弥陀仏が9体ならんで静かな中にも圧倒されます。
たまたま今日から開扉されたふくよかなお顔の秘仏吉祥天も拝見できました。
お供えの中に、円筒形の絵仏具というのがありました。
のち、三重塔の下に歩きましたが、池の周囲に薄などの秋草が咲き乱れて
あたかも浄土のようです。
九体寺の格子より見ゆ秋桜 常朝
浄瑠璃寺の池に映して吾亦紅 常朝
(吊り店:写真はすべてクリックで拡大)
(浄瑠璃寺)
(三重塔)
山門を出て左手の山すそに蕎麦の「吉祥庵」があったので、昼食に新そばを
いただきました。
その後、周囲の当尾の里を散策し、藪中三尊石仏、首切り地蔵などをお参り
しました。 集落や畑の小道には熟柿が沢山落ちていました。
熟柿落つ首切地蔵見ておれば 常朝
(当尾の里・蕎麦の吉祥庵)
(当尾の里・首切地蔵)
その後、車で5キロほどの岩船寺に行きました。
同じく阿弥陀堂のある真言律宗の寺ですが、こちらのほうが
奈良時代に建てられたので、平安時代の浄瑠璃寺より古いようです。
重要文化財の阿弥陀如来坐像、四天王、普賢菩薩などが安置されています。
山門の前には石風呂が置かれています。
石段を登り山門から入ると境内には阿の字池、三重塔、十三重石塔などが
あります。高い木々に囲まれ、浄瑠璃寺よりさらに山寺の雰囲気が強いです。
阿の字池を見ていたら、小さな蛇が中の島から泳ぎ出し、
池岸に着いて草むらに消えました。
三重塔の軒のそれぞれの隅には天邪鬼が白い目を見せて軒を支えています。
石風呂の底にも紅葉岩船寺 常朝
(岩船寺)
のち、奈良・黒髪山のレストラン「cocos」で小句会後、月見のために
大和郡山市に移動しました。
郡山城近くの「弁慶」で夕食後、東側の追手門からお城に入りました。
去年同様、我々のほかは誰もいませんでした。
城跡の芝生にシートを敷いて、お茶会を始めた頃はまだ月は雲に隠れていました
が、お菓子をいただく頃に、やっと雲間から月が顔を見せてくれました。
満月の二日前の月で、雲の右手には木星が輝いていました。
虫の声を聞きながら出たり隠れたりする月を見て秋の夜を過ごし、追手門前で
解散しました。
俳句はもうひとつでしたが、盛り沢山の楽しい日でした。
城跡の芝の湿りに月を待つ 常朝
木星と雲をへだてて小望月 常朝
ラベル:
吟行案内
2009年9月20日日曜日
92.和歌山・加太の淡島神社ほか
「アカシア紀行・俳句」2009年9月18日(金)
9月のさわやかな日、いつものメンバー6人で和歌山・加太へ
吟行しました。
9時半高速阪和道の岸和田サービスエリアで集合し、さらに約10キロ、
泉南インターチェンジで降り、26号線を南下し、加太漁港を
めざしました。途中、「加太漁港へ右折」の道路標識があったので
すなおに右折すると、加太漁港へはいけず、結局海岸沿いに淡輪漁港に
着きました。標識が右折するロータリーの約1キロ手前でした。
交通案内には、このような不親切がよくあります。
電車では、南海電車の淡輪駅から北約1キロですが、加太港へは、
南海電車加太線終点の加太駅から西へ約1キロです。
淡輪(たんのわ)漁港には数十艘の漁船が止まっており、
漁師さんが一人一艘の船にいたので聞くと、もう朝の漁は終って
帰港した船ばかりだそうです。
船溜りの海には10センチ位の海たなごが群をなしていました。
左側(西側)の船溜りには船はありませんが、見ていると突然
青鷺が太刀魚をぶら下げ飛んできて波止に降りました。
近寄ると、一旦くちばしから太刀魚を離し銜えなおして飛びさりました。
そのあと、鴨が一羽船溜りに着水し泳いできました。
その後加太の休暇村で昼食をいただきました。
加太休暇村は小高い山の上にあり、展望台から加太の海や友が島、淡路島、
かすんで四国が見えます。
食後、休暇村の前の弾薬庫跡を見学しました。
初鴨のきたる船なき船溜 常朝
目の慣れて田平子見えたる秋の海 常朝
(淡輪漁港:写真はすべてクリックで拡大)
(休暇村展望台より加太港)
(弾薬庫跡)
休暇村から下の26号線に戻り、さらに西の加太に行き、
淡島神社を参拝しました。淡島神社は人形供養で有名な神社です。
毎年雛祭りの日には加太の海に雛を流すそうです。
神社に入ると、本殿から雛倉、末社にまでさまざまな人形が置かれていて、
まるで人形展示館です。本殿の左には針塚がありました。
本殿内には由緒ありげな女雛男雛など、回廊と床下には日本人形、
市松人形、フランス人形、羽子板までおかれ、
左の小堂や庭には蛙、招き猫、信楽焼きの狸、堂の壁には
さまざまな面まで掛けられています。
いずれも奉納されたもので2万体もあるようです。
見ていると少し気味が悪くなりました。
夜に一人では来れないでしょう。
その後神社下の砂浜を歩いてから、港の魚市場を訪ねました。
魚のせりは午後3時かららしいですが、見学者は入れないとのこと。
市場の建物は、巾20メートル奥行き30メートル位の大きさで
床に100個位の生簀が並べてあり、それぞれに鯛やはまちなどの
魚が泳いでいます。
我々は入口に近い個人客用の生簀から生きた鯛を買いました。
売ってくれた社長に鯛を締めてもらいましたが、
帰りの車の中では鯛がしばらく氷の音を立てていました。
帰路の岸和田サービスエリアのだんじり庵で4時から5時半頃まで
小句会後解散しました。
秋風や波やさしくて加太の海 常朝
人形の見ている秋の加太の海 常朝
(淡島神社本殿)
(淡島神社の人形)
(加太魚市場の生簀)
9月のさわやかな日、いつものメンバー6人で和歌山・加太へ
吟行しました。
9時半高速阪和道の岸和田サービスエリアで集合し、さらに約10キロ、
泉南インターチェンジで降り、26号線を南下し、加太漁港を
めざしました。途中、「加太漁港へ右折」の道路標識があったので
すなおに右折すると、加太漁港へはいけず、結局海岸沿いに淡輪漁港に
着きました。標識が右折するロータリーの約1キロ手前でした。
交通案内には、このような不親切がよくあります。
電車では、南海電車の淡輪駅から北約1キロですが、加太港へは、
南海電車加太線終点の加太駅から西へ約1キロです。
淡輪(たんのわ)漁港には数十艘の漁船が止まっており、
漁師さんが一人一艘の船にいたので聞くと、もう朝の漁は終って
帰港した船ばかりだそうです。
船溜りの海には10センチ位の海たなごが群をなしていました。
左側(西側)の船溜りには船はありませんが、見ていると突然
青鷺が太刀魚をぶら下げ飛んできて波止に降りました。
近寄ると、一旦くちばしから太刀魚を離し銜えなおして飛びさりました。
そのあと、鴨が一羽船溜りに着水し泳いできました。
その後加太の休暇村で昼食をいただきました。
加太休暇村は小高い山の上にあり、展望台から加太の海や友が島、淡路島、
かすんで四国が見えます。
食後、休暇村の前の弾薬庫跡を見学しました。
初鴨のきたる船なき船溜 常朝
目の慣れて田平子見えたる秋の海 常朝
(淡輪漁港:写真はすべてクリックで拡大)
(休暇村展望台より加太港)
(弾薬庫跡)
休暇村から下の26号線に戻り、さらに西の加太に行き、
淡島神社を参拝しました。淡島神社は人形供養で有名な神社です。
毎年雛祭りの日には加太の海に雛を流すそうです。
神社に入ると、本殿から雛倉、末社にまでさまざまな人形が置かれていて、
まるで人形展示館です。本殿の左には針塚がありました。
本殿内には由緒ありげな女雛男雛など、回廊と床下には日本人形、
市松人形、フランス人形、羽子板までおかれ、
左の小堂や庭には蛙、招き猫、信楽焼きの狸、堂の壁には
さまざまな面まで掛けられています。
いずれも奉納されたもので2万体もあるようです。
見ていると少し気味が悪くなりました。
夜に一人では来れないでしょう。
その後神社下の砂浜を歩いてから、港の魚市場を訪ねました。
魚のせりは午後3時かららしいですが、見学者は入れないとのこと。
市場の建物は、巾20メートル奥行き30メートル位の大きさで
床に100個位の生簀が並べてあり、それぞれに鯛やはまちなどの
魚が泳いでいます。
我々は入口に近い個人客用の生簀から生きた鯛を買いました。
売ってくれた社長に鯛を締めてもらいましたが、
帰りの車の中では鯛がしばらく氷の音を立てていました。
帰路の岸和田サービスエリアのだんじり庵で4時から5時半頃まで
小句会後解散しました。
秋風や波やさしくて加太の海 常朝
人形の見ている秋の加太の海 常朝
(淡島神社本殿)
(淡島神社の人形)
(加太魚市場の生簀)
ラベル:
吟行案内
2009年9月3日木曜日
91.奈良・柳生から曽爾高原
「アカシア紀行・俳句」2009年8月30日(土)
8月も終わりの日、いつものメンバー7人で奈良・柳生から曽爾高原へ
吟行しました。
9時名阪国道の針・道の駅で集合し、369号線を約3キロ南下し、
室生方面28号線へ左折、室生寺を過ぎて約500メートルほどの、
龍穴神社に立ち寄りました。
龍穴神社は、うっそうとした杉林に囲まれたいかにも奥に竜神が
いるような神社です。
由緒略記によると、奈良時代末期の光仁天皇の頃、後の桓武天皇である
山部王の病気平癒を祈祷したとのことで、それ以上古い神社でしょう。
祭神は、高おかみ(雲かんむりの下に龍)の神で、
さらに天児屋根命(あめのこやねのみこと)など5神を祀っているようです。
神社の後方1.5キロ位の岩壁に、龍穴という洞穴がり、近くに天の岩戸や
雨乞いの滝もあるとのことですが、我々は登りませんでした。
入口右には、根元近くでつながった、2本の杉の巨樹があり、
連理の杉として祀られていました。
また、入口の石垣下に冷たい湧き水が流れ出ていました。
本殿とも江戸時代に再建、移築された相当古色ゆたかなもので、
拝殿前の庭の両側には長い献灯台が建てられています。
水神の谷の流れに秋の蜂 常朝
龍神の湧き水受けて夏惜しむ 常朝
(龍穴神社:写真はすべてクリックで拡大)
(龍穴神社の連理の杉)
その後、369号線の掛の信号を北に川を渡り、81号線を川沿いに
東に走り、案内板に沿って、屏風岩公苑に車で登りました。
屏風岩は海抜800メートル、高さ100メートルもあるかと思う、
大きな柱状節理の岩壁で、ふもとは公園になっています。
岩を見上げていると、色々な模様にも見えますが、
ピカソの絵にあるような尖った顔もありました。
ふもとは秋草が咲き、カメラマンが野鳥を狙っていて、
シメという珍しい小鳥の写真を見せてくれました。
モグラ塚や竹煮草の実もありました。
屏風岩顔にも見えて天高し 常朝
(屏風岩)
81号線に戻り曽爾村の門僕(かどふさ)神社に参拝しました。
ここは曽爾村の鎮守の神様で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)のほかに、
6神を祀っているようです。
道沿いの杉林にかこまれた神社で、拝殿は石段の上、巾3~4間の古い建物です。
道を隔てた曽爾川では数組の親子連れが水遊びや、魚すくいを楽しんでいました。
産土神(うぶすな)の川に親子の鮴(ごり)すくふ 常朝
(門僕神社の曽爾川)
(曽爾ファームガーデン)
その後、12時すぎ曽爾高原お亀の湯の近くのファームガーデン・すすきの館で
昼食をいただき、13時20分ころ曽爾高原駐車場に着きました。
曽爾高原はススキの草原で有名ですが、8月末ではまだススキの穂は、
細くてまっすぐ空を向いていました。
高原の一本道を歩くとまさに花野、ゲンノショウコ、オミナエシ、フジバカマ、
ハギ、アザミ、ナデシコ、ヒメジオン、キンミズヒキ、ウツボグサ、クルマユリ、
ツリガネニンジン、シシウドなどが咲いて、お亀池の湿原には、サワギキョウが
濃い紫の花を咲かせています。
出口に近い道端のススキの根元にはナンバンギセル(思い草)が紫の
筒型の花をやや下向きにつけていました。
その後、81号、369号、28号線経由で針インターチェンジに戻り、
道の駅のレストランで小句会後、5時頃解散しました。
ししうどの白き花火に天高し 常朝
奥深く咲くは色濃き思い草 常朝
(曽爾高原)
(思い草:ナンバンギセル)
8月も終わりの日、いつものメンバー7人で奈良・柳生から曽爾高原へ
吟行しました。
9時名阪国道の針・道の駅で集合し、369号線を約3キロ南下し、
室生方面28号線へ左折、室生寺を過ぎて約500メートルほどの、
龍穴神社に立ち寄りました。
龍穴神社は、うっそうとした杉林に囲まれたいかにも奥に竜神が
いるような神社です。
由緒略記によると、奈良時代末期の光仁天皇の頃、後の桓武天皇である
山部王の病気平癒を祈祷したとのことで、それ以上古い神社でしょう。
祭神は、高おかみ(雲かんむりの下に龍)の神で、
さらに天児屋根命(あめのこやねのみこと)など5神を祀っているようです。
神社の後方1.5キロ位の岩壁に、龍穴という洞穴がり、近くに天の岩戸や
雨乞いの滝もあるとのことですが、我々は登りませんでした。
入口右には、根元近くでつながった、2本の杉の巨樹があり、
連理の杉として祀られていました。
また、入口の石垣下に冷たい湧き水が流れ出ていました。
本殿とも江戸時代に再建、移築された相当古色ゆたかなもので、
拝殿前の庭の両側には長い献灯台が建てられています。
水神の谷の流れに秋の蜂 常朝
龍神の湧き水受けて夏惜しむ 常朝
(龍穴神社:写真はすべてクリックで拡大)
(龍穴神社の連理の杉)
その後、369号線の掛の信号を北に川を渡り、81号線を川沿いに
東に走り、案内板に沿って、屏風岩公苑に車で登りました。
屏風岩は海抜800メートル、高さ100メートルもあるかと思う、
大きな柱状節理の岩壁で、ふもとは公園になっています。
岩を見上げていると、色々な模様にも見えますが、
ピカソの絵にあるような尖った顔もありました。
ふもとは秋草が咲き、カメラマンが野鳥を狙っていて、
シメという珍しい小鳥の写真を見せてくれました。
モグラ塚や竹煮草の実もありました。
屏風岩顔にも見えて天高し 常朝
(屏風岩)
81号線に戻り曽爾村の門僕(かどふさ)神社に参拝しました。
ここは曽爾村の鎮守の神様で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)のほかに、
6神を祀っているようです。
道沿いの杉林にかこまれた神社で、拝殿は石段の上、巾3~4間の古い建物です。
道を隔てた曽爾川では数組の親子連れが水遊びや、魚すくいを楽しんでいました。
産土神(うぶすな)の川に親子の鮴(ごり)すくふ 常朝
(門僕神社の曽爾川)
(曽爾ファームガーデン)
その後、12時すぎ曽爾高原お亀の湯の近くのファームガーデン・すすきの館で
昼食をいただき、13時20分ころ曽爾高原駐車場に着きました。
曽爾高原はススキの草原で有名ですが、8月末ではまだススキの穂は、
細くてまっすぐ空を向いていました。
高原の一本道を歩くとまさに花野、ゲンノショウコ、オミナエシ、フジバカマ、
ハギ、アザミ、ナデシコ、ヒメジオン、キンミズヒキ、ウツボグサ、クルマユリ、
ツリガネニンジン、シシウドなどが咲いて、お亀池の湿原には、サワギキョウが
濃い紫の花を咲かせています。
出口に近い道端のススキの根元にはナンバンギセル(思い草)が紫の
筒型の花をやや下向きにつけていました。
その後、81号、369号、28号線経由で針インターチェンジに戻り、
道の駅のレストランで小句会後、5時頃解散しました。
ししうどの白き花火に天高し 常朝
奥深く咲くは色濃き思い草 常朝
(曽爾高原)
(思い草:ナンバンギセル)
ラベル:
吟行案内
2009年8月3日月曜日
90.奈良・丹生川上神社下社から洞川
「アカシア紀行・俳句」2009年8月1日(土)
1日中雨の予想の日、いつものメンバー7人で奈良・丹生川上神社下社
から洞川・龍泉寺、大峯山の女人結界まで行きました。
いつものように天気女(?)のおかげで雨どころかで薄日さえさしています。
丹生川上神社は3社あり、川上村の大滝ダム上の上社、
東吉野村小(おむら)の中社と、下市町長谷の下社があります。
ここ下社へは下市口駅から長谷まで奈良交通バスがありますが、
私達は2台の車で下市町経由で9時40分頃着きました。
下社は丹生川のほとり、丹生山のふもとにあります。
古い立派な拝殿の奥から山に向かい急角度の登廊があり、その上に
古い本殿がありますが、登ることはできません。
登廊すれすれの杉の大樹にお歯黒蜻蛉が飛んでいました。
参拝後境内の井戸などを見ていたら宮司が来られて、
拝殿に上ってもよいといわれ、拝殿であらためて登廊や天武天皇や、
孝明天皇の額を拝見し太鼓を叩かせてもらいました。
祭神は水の神様、闇■(雨に龍)神(くらおかみのかみ)だそうです。
幕末天誅組の蜂起に神官の橋本若狭が参加し、社殿が焼かれたそうです。
拝殿左に橋本若狭の石碑、社務所左奥には樹齢500年の欅の神木があります。
宮司の奥様も出てこられ、社務所の軒で神社の案内ビデオを拝見し、
お茶やお菓子までいただきました。
お歯黒の飛ぶ水分の杉大樹 常朝
(丹生川上神社下社:写真はすべてクリックで拡大)
その後、309号線を南下し、洞川温泉の上流にある龍泉寺にいきました。
ここは古くから大峯行者の寺とされており、明日から2日間 行者祭が
あるそうです。
川沿いの道には白いサビタの花が咲いています。
境内には鍾乳洞からの清水の流れと池があり、鱒が一匹泳いでいました。
境内を拝見していると、20人くらいの講の男性が白いふんどしの行衣に
着替えて境内の池で水行を始めました。
池の中の岩の不動明王に向かい半身を水に浸けて、鈴を振りながら
般若心経などを唱えます。見ていても寒そうでした。
池の岩には擬宝珠の花、境内には紫陽花がまだ咲いていました。
温泉の川に沿ふ道サビタ咲く 常朝
(洞川龍泉寺)
(龍泉寺水行場)
温泉町の中の「きらく九兵衛」で鮎の味噌煮定食をいただき、
さらに山奥の大峯登山口、女人結界まで車を進めました。
手前に駐車場があり、橋を渡って結界門の手前右手に広場があります。
そこでは30人位の行者講の人達が登山の安全祈願の護摩を焚くところでした。
うち10人位は女行者で、ほとんどが杖を持った白衣の行者姿です。
何人かはきれいな音の鈴を腰につけています。
大峯山は昔から女人禁制の行場ですが、女行者は近くの稲村ヶ岳に
登るそうです。(学生時代今はなきA君と登山しました)
橋の上からは木の間から大峯山の行場である「西の覗き」が見えます。
そこまで登山は5.5キロとのことです。
結界の門は頑丈な木の門で、そばには、
まむし草、水引草、蛍袋、盗人萩などが咲いていました。
護摩行は願文、法螺、心経、観音経などではじまり、破魔矢の放射後
檜の護摩壇に火がつけられました。
その後講の人達は温泉の方へ歩き出しました。
登山は明日とのことです。
その後、帰り道の「ごろごろ水」採水場でパイプから清水を
もらい、橿原観光ホテルで小句会後5時半ころ解散しました。
かなかなに行者の護摩の始まれり 常朝
結界に礼する行者蝉時雨 常朝
(大峯山女人結界)
(ごろごろ水採水場)
1日中雨の予想の日、いつものメンバー7人で奈良・丹生川上神社下社
から洞川・龍泉寺、大峯山の女人結界まで行きました。
いつものように天気女(?)のおかげで雨どころかで薄日さえさしています。
丹生川上神社は3社あり、川上村の大滝ダム上の上社、
東吉野村小(おむら)の中社と、下市町長谷の下社があります。
ここ下社へは下市口駅から長谷まで奈良交通バスがありますが、
私達は2台の車で下市町経由で9時40分頃着きました。
下社は丹生川のほとり、丹生山のふもとにあります。
古い立派な拝殿の奥から山に向かい急角度の登廊があり、その上に
古い本殿がありますが、登ることはできません。
登廊すれすれの杉の大樹にお歯黒蜻蛉が飛んでいました。
参拝後境内の井戸などを見ていたら宮司が来られて、
拝殿に上ってもよいといわれ、拝殿であらためて登廊や天武天皇や、
孝明天皇の額を拝見し太鼓を叩かせてもらいました。
祭神は水の神様、闇■(雨に龍)神(くらおかみのかみ)だそうです。
幕末天誅組の蜂起に神官の橋本若狭が参加し、社殿が焼かれたそうです。
拝殿左に橋本若狭の石碑、社務所左奥には樹齢500年の欅の神木があります。
宮司の奥様も出てこられ、社務所の軒で神社の案内ビデオを拝見し、
お茶やお菓子までいただきました。
お歯黒の飛ぶ水分の杉大樹 常朝
(丹生川上神社下社:写真はすべてクリックで拡大)
その後、309号線を南下し、洞川温泉の上流にある龍泉寺にいきました。
ここは古くから大峯行者の寺とされており、明日から2日間 行者祭が
あるそうです。
川沿いの道には白いサビタの花が咲いています。
境内には鍾乳洞からの清水の流れと池があり、鱒が一匹泳いでいました。
境内を拝見していると、20人くらいの講の男性が白いふんどしの行衣に
着替えて境内の池で水行を始めました。
池の中の岩の不動明王に向かい半身を水に浸けて、鈴を振りながら
般若心経などを唱えます。見ていても寒そうでした。
池の岩には擬宝珠の花、境内には紫陽花がまだ咲いていました。
温泉の川に沿ふ道サビタ咲く 常朝
(洞川龍泉寺)
(龍泉寺水行場)
温泉町の中の「きらく九兵衛」で鮎の味噌煮定食をいただき、
さらに山奥の大峯登山口、女人結界まで車を進めました。
手前に駐車場があり、橋を渡って結界門の手前右手に広場があります。
そこでは30人位の行者講の人達が登山の安全祈願の護摩を焚くところでした。
うち10人位は女行者で、ほとんどが杖を持った白衣の行者姿です。
何人かはきれいな音の鈴を腰につけています。
大峯山は昔から女人禁制の行場ですが、女行者は近くの稲村ヶ岳に
登るそうです。(学生時代今はなきA君と登山しました)
橋の上からは木の間から大峯山の行場である「西の覗き」が見えます。
そこまで登山は5.5キロとのことです。
結界の門は頑丈な木の門で、そばには、
まむし草、水引草、蛍袋、盗人萩などが咲いていました。
護摩行は願文、法螺、心経、観音経などではじまり、破魔矢の放射後
檜の護摩壇に火がつけられました。
その後講の人達は温泉の方へ歩き出しました。
登山は明日とのことです。
その後、帰り道の「ごろごろ水」採水場でパイプから清水を
もらい、橿原観光ホテルで小句会後5時半ころ解散しました。
かなかなに行者の護摩の始まれり 常朝
結界に礼する行者蝉時雨 常朝
(大峯山女人結界)
(ごろごろ水採水場)
ラベル:
吟行案内
2009年7月11日土曜日
89.奈良・奥田の蓮取り行事
「アカシア紀行・俳句」2009年7月7日(火)
梅雨の曇りの日、いつものメンバー7人で奈良・大和高田市・奥田の
蓮池(弁天池)に行きました。
ここでは、毎年この日の、吉野金峰山寺・蔵王堂の蓮華会に供えられる、
蓮の花を摘み取り送る行事がおこなわれます。
電車では、近鉄南大阪線・浮孔駅の南約2キロ、奥田公民館の北の神社です。
当日はJR高田駅、近鉄大和高田駅からバスが出ていました。
奥田はその昔、役の行者(えんのぎょうじゃ)の母「刀良売(とらめ)」
が住まれた所です。
言い伝えによると、この池のほとりに庵があり、母が住んでいました。
ある朝、母 刀良売が池のほとりを散歩していると、蓮の茎が伸びて
美しい蓮の花が開きその上に金色の蛙が止まりました。
母が何気なしに岸の篠を一本抜いて蛙のほうへ投げると、
蛙の片目に当たり、たちまち花もしぼみ、蛙は水底へ潜ってしまいました。
母はこのことを気にやみやがて亡くなったが、役の行者は母と蛙のため
堂を建てるなどして供養されたとのこと。
このことから、池を捨篠池とも呼ぶそうです。
10時前池に着くとすでに80~100人位の人々が池の周囲に行事の
開始を待っていました。
10時近くの芋畑から花火が上げられ、大和高田市長の挨拶などがあり、
40人くらいの行者が池の前のテント周囲に並び、ほら貝を吹いて、
法要が始まりました。
行者の呪文、般若心経などが上げられ、10時15頃、行者2人と
地元の人3人が乗った蓮取り舟が池に漕ぎ出され、蓮取りが始まりました。
蓮は60メートル四方位の池の半分にぎっしり植えられ花が多く開いて
いましたが、蓮は蕾のある茎のみを取っていました。
蓮取りはじきに終り、舟が岸に戻るとちょうど雨が降り出し、
我々はテントで雨宿りをしました。
幼稚園児や小学生のグループも雨合羽を着ていました。
雨の上がった11時頃、行者の行列が近くの善教寺や行者堂と小蓮池のある
福田寺、刀良売のお墓に参拝後、12時から池畔の弁天神社で
護摩を焚かれました。
護摩の周囲で、心経、観音経などの読経、破魔矢の放射、
女行者の剣による九字などで供養は終り、行者一行は3つの桶に
入れられた108本の蓮を持って、13時頃バスで吉野へ出発しました。
我々は12時半頃 お寺に参拝し、刀良売のお墓を遠望して、
橿原観光ホテルで昼食後、天理市の桃尾の滝に涼み、
奈良の喫茶店で小句会後6時すぎ解散しました。
蓮取りの池に鳴きをり牛蛙 常朝
法螺の音の波打つごとく蓮の池 常朝
(蓮取り舟:写真はすべてクリックで拡大)
(弁天神社奉額:右は蓮取り舟)
(弁天神社:護摩の煙)
(刀良売のお墓(中央))
(桃尾の滝)
梅雨の曇りの日、いつものメンバー7人で奈良・大和高田市・奥田の
蓮池(弁天池)に行きました。
ここでは、毎年この日の、吉野金峰山寺・蔵王堂の蓮華会に供えられる、
蓮の花を摘み取り送る行事がおこなわれます。
電車では、近鉄南大阪線・浮孔駅の南約2キロ、奥田公民館の北の神社です。
当日はJR高田駅、近鉄大和高田駅からバスが出ていました。
奥田はその昔、役の行者(えんのぎょうじゃ)の母「刀良売(とらめ)」
が住まれた所です。
言い伝えによると、この池のほとりに庵があり、母が住んでいました。
ある朝、母 刀良売が池のほとりを散歩していると、蓮の茎が伸びて
美しい蓮の花が開きその上に金色の蛙が止まりました。
母が何気なしに岸の篠を一本抜いて蛙のほうへ投げると、
蛙の片目に当たり、たちまち花もしぼみ、蛙は水底へ潜ってしまいました。
母はこのことを気にやみやがて亡くなったが、役の行者は母と蛙のため
堂を建てるなどして供養されたとのこと。
このことから、池を捨篠池とも呼ぶそうです。
10時前池に着くとすでに80~100人位の人々が池の周囲に行事の
開始を待っていました。
10時近くの芋畑から花火が上げられ、大和高田市長の挨拶などがあり、
40人くらいの行者が池の前のテント周囲に並び、ほら貝を吹いて、
法要が始まりました。
行者の呪文、般若心経などが上げられ、10時15頃、行者2人と
地元の人3人が乗った蓮取り舟が池に漕ぎ出され、蓮取りが始まりました。
蓮は60メートル四方位の池の半分にぎっしり植えられ花が多く開いて
いましたが、蓮は蕾のある茎のみを取っていました。
蓮取りはじきに終り、舟が岸に戻るとちょうど雨が降り出し、
我々はテントで雨宿りをしました。
幼稚園児や小学生のグループも雨合羽を着ていました。
雨の上がった11時頃、行者の行列が近くの善教寺や行者堂と小蓮池のある
福田寺、刀良売のお墓に参拝後、12時から池畔の弁天神社で
護摩を焚かれました。
護摩の周囲で、心経、観音経などの読経、破魔矢の放射、
女行者の剣による九字などで供養は終り、行者一行は3つの桶に
入れられた108本の蓮を持って、13時頃バスで吉野へ出発しました。
我々は12時半頃 お寺に参拝し、刀良売のお墓を遠望して、
橿原観光ホテルで昼食後、天理市の桃尾の滝に涼み、
奈良の喫茶店で小句会後6時すぎ解散しました。
蓮取りの池に鳴きをり牛蛙 常朝
法螺の音の波打つごとく蓮の池 常朝
(蓮取り舟:写真はすべてクリックで拡大)
(弁天神社奉額:右は蓮取り舟)
(弁天神社:護摩の煙)
(刀良売のお墓(中央))
(桃尾の滝)
ラベル:
吟行案内
2009年6月30日火曜日
88.宇治陵、平等院から鵜飼
「アカシア紀行・俳句」2009年6月27日(土)
・宇治陵
梅雨晴間の続く日、いつものメンバー6人で宇治吟行に行きました。
主な目的は宇治川の鵜飼見物ですが、11時前宇治に着いて時間があったので、
まずJR奈良線・木幡(こばた)駅の東一帯に点在する宇治陵に参拝しました。
宇治陵は主に藤原氏一族のお墓で、全部で1号墓から37号まであり、
平安時代の藤原道長や皇后のお墓もあるようです。
我々はそのうちの総遥拝所となっている1号墓を訪ねました。
場所は、木幡駅の南300メートル位にあり、府道7号線の近藤診療所の角の
信号を西へ50メートルほどです。
お墓は小さな木立に囲まれた直径10メートル位の円墳でそばに宮内庁の
衛士小屋があり、宮内庁と書いた軽自動車が止まっていました。
大きな檜や樫の木があり、ホオジロが鳴いていました。
小屋の西に石塔婆があり、藤原冬嗣・基経・時平・道長・頼通などの
名が廃寺となった菩提寺・浄妙寺の礎石に刻まれています。
石塔婆のそばには、スベリヒユが地面を這い、土ばったが跳ねていました。
道長のお墓は木幡幼稚園のそばの32号墓ということで、近くまで車で移動
しましたが、場所がわからずあきらめました。
宇治陵に鳥の声聞く青葉風 常朝
(宇治陵1号墓:写真はすべてクリックで拡大)
(藤原氏塋域(えいいき)の石塔婆)
・平等院
その後、宇治に戻り、平等院の南の駐車場に車をとめ、観月で昼食後、
平等院にお参りしました。
平等院は関白藤原道長の別荘であったのをその子頼道が譲られて1052年
お寺に改めたとのことです。
10年以上かけた改修工事が昨年終って阿字池もきれいに整備されていました。
鳳翔館というミュージアムもできており驚きました。
偶然今日は13時から塔頭の浄土院前で法話があり、住職の神居文彰さんの
説法を聞くことができました。
平等院で初めてそれまでの中国的な仏教から日本的な仏教建築や仏教美術が
実現されたとの話は興味がわきました。
その後、拝観料とは別に300円をおさめて、本堂である鳳凰(ほうおう)堂を
参拝しました。15分ごとに拝観者をグループ分けして案内されたので、
13時50分発のチケットをもらい、10分くらい阿字池の周囲の網代木
(あじろぎ)の道にあるヤマモモの実を拾ったり、藤棚で休憩したりしました。
鳳凰堂は10円玉に描かれているように鳳凰が翼を広げた形の左右の翼廊と
阿弥陀如来の中堂、西の尾廊脇殿でできています。
ガイドの方の話によると中堂の扉14面には死者を浄土に迎える、
阿弥陀来迎図が描かれており、上品から下品下生まで九品の来迎図が
あるようです。
浄土にも格差があるようなので少し抵抗がありますが。
戻りに鳳翔館を見学しましたが、雲中菩薩や復元来迎図などをまじかに
見ることができます。CGによる創建当時の鮮やかな色と模様を再現した
鳳凰堂の内部なども見ました。
網代木の道に楊梅(やまもも)の実の赤し 常朝
(平等院鳳凰堂と阿字の池)
・鵜飼
その後、宇治茶の日の出園で小句会後、宇治川べりへ移動し、
鮎宗で早い夕食をとり、中州へ移動しました。
中州の鵜小屋には、若い女鵜匠が鵜を鵜籠にいれたり掃除をしたり
鵜の世話をしていました。
鵜匠は5年前からの沢木万理子さんと江崎洋子さんとのことなので、
多分沢木さんでしょう。
そばには家鴨が数羽いて植木の下に巣と卵がありました。
鵜飼の船は7時に出るとのことで、6時すぎ船に載せてもらいました。
鵜飼の船は、篝火の籠を吊るした棹を立てていますが、
観客の船は屋形船で33人乗り、我々の船は今日の8艘のうちの
先頭でした。
7時前に船頭さんがきてまだ少し明るい宇治川を上流まで移動して
川を見せてくれました。
船頭さんによると、中州の南側の流れは以前上流でせき止められて、
川底の苔がなくなり鮎が育たなくなったとのこと。
今までの政治で数十億円もかけてあちこち不要な河川工事をして、
自然を壊してしまったとのことです。
川面が薄暗くなったころ、やや下流で鵜飼が始まりました。
篝火の火の粉の中を鵜が泳ぎ、美女の鵜匠が紐で
鵜をあやつる様子は絵のように幻想的です。
鵜匠は6羽の鵜を6本の紐であやつり鮎を捕らえさせます。
鮎を飲みこんだ鵜を鵜匠が手繰り寄せ、左手でつかんで、
右手で鮎を吐き出させるたび拍手が沸きました。
鵜船は一艘ですが、2列につながれている屋形船の真ん中の川をゆっくり
上流へ移動しながら鵜飼をします。
下流へ戻るたび篝火の薪を入れ、3度ほど往復して見せてくれました。
川面がすっかり暗くなった8時ころ、鵜飼は終り船を下りました。
その後、奈良の旧ドリームランド前のファミリーレストランCOCOSで
小句会後解散しました。
土曜の夜10時頃でもお店は混んでいました。
篝火の火の粉の中の鵜の勁し 常朝
鵜飼果つ遠ざかりゆく篝火に 常朝
(鵜小屋の鵜)
(鵜舟と鵜匠)
・宇治陵
梅雨晴間の続く日、いつものメンバー6人で宇治吟行に行きました。
主な目的は宇治川の鵜飼見物ですが、11時前宇治に着いて時間があったので、
まずJR奈良線・木幡(こばた)駅の東一帯に点在する宇治陵に参拝しました。
宇治陵は主に藤原氏一族のお墓で、全部で1号墓から37号まであり、
平安時代の藤原道長や皇后のお墓もあるようです。
我々はそのうちの総遥拝所となっている1号墓を訪ねました。
場所は、木幡駅の南300メートル位にあり、府道7号線の近藤診療所の角の
信号を西へ50メートルほどです。
お墓は小さな木立に囲まれた直径10メートル位の円墳でそばに宮内庁の
衛士小屋があり、宮内庁と書いた軽自動車が止まっていました。
大きな檜や樫の木があり、ホオジロが鳴いていました。
小屋の西に石塔婆があり、藤原冬嗣・基経・時平・道長・頼通などの
名が廃寺となった菩提寺・浄妙寺の礎石に刻まれています。
石塔婆のそばには、スベリヒユが地面を這い、土ばったが跳ねていました。
道長のお墓は木幡幼稚園のそばの32号墓ということで、近くまで車で移動
しましたが、場所がわからずあきらめました。
宇治陵に鳥の声聞く青葉風 常朝
(宇治陵1号墓:写真はすべてクリックで拡大)
(藤原氏塋域(えいいき)の石塔婆)
・平等院
その後、宇治に戻り、平等院の南の駐車場に車をとめ、観月で昼食後、
平等院にお参りしました。
平等院は関白藤原道長の別荘であったのをその子頼道が譲られて1052年
お寺に改めたとのことです。
10年以上かけた改修工事が昨年終って阿字池もきれいに整備されていました。
鳳翔館というミュージアムもできており驚きました。
偶然今日は13時から塔頭の浄土院前で法話があり、住職の神居文彰さんの
説法を聞くことができました。
平等院で初めてそれまでの中国的な仏教から日本的な仏教建築や仏教美術が
実現されたとの話は興味がわきました。
その後、拝観料とは別に300円をおさめて、本堂である鳳凰(ほうおう)堂を
参拝しました。15分ごとに拝観者をグループ分けして案内されたので、
13時50分発のチケットをもらい、10分くらい阿字池の周囲の網代木
(あじろぎ)の道にあるヤマモモの実を拾ったり、藤棚で休憩したりしました。
鳳凰堂は10円玉に描かれているように鳳凰が翼を広げた形の左右の翼廊と
阿弥陀如来の中堂、西の尾廊脇殿でできています。
ガイドの方の話によると中堂の扉14面には死者を浄土に迎える、
阿弥陀来迎図が描かれており、上品から下品下生まで九品の来迎図が
あるようです。
浄土にも格差があるようなので少し抵抗がありますが。
戻りに鳳翔館を見学しましたが、雲中菩薩や復元来迎図などをまじかに
見ることができます。CGによる創建当時の鮮やかな色と模様を再現した
鳳凰堂の内部なども見ました。
網代木の道に楊梅(やまもも)の実の赤し 常朝
(平等院鳳凰堂と阿字の池)
・鵜飼
その後、宇治茶の日の出園で小句会後、宇治川べりへ移動し、
鮎宗で早い夕食をとり、中州へ移動しました。
中州の鵜小屋には、若い女鵜匠が鵜を鵜籠にいれたり掃除をしたり
鵜の世話をしていました。
鵜匠は5年前からの沢木万理子さんと江崎洋子さんとのことなので、
多分沢木さんでしょう。
そばには家鴨が数羽いて植木の下に巣と卵がありました。
鵜飼の船は7時に出るとのことで、6時すぎ船に載せてもらいました。
鵜飼の船は、篝火の籠を吊るした棹を立てていますが、
観客の船は屋形船で33人乗り、我々の船は今日の8艘のうちの
先頭でした。
7時前に船頭さんがきてまだ少し明るい宇治川を上流まで移動して
川を見せてくれました。
船頭さんによると、中州の南側の流れは以前上流でせき止められて、
川底の苔がなくなり鮎が育たなくなったとのこと。
今までの政治で数十億円もかけてあちこち不要な河川工事をして、
自然を壊してしまったとのことです。
川面が薄暗くなったころ、やや下流で鵜飼が始まりました。
篝火の火の粉の中を鵜が泳ぎ、美女の鵜匠が紐で
鵜をあやつる様子は絵のように幻想的です。
鵜匠は6羽の鵜を6本の紐であやつり鮎を捕らえさせます。
鮎を飲みこんだ鵜を鵜匠が手繰り寄せ、左手でつかんで、
右手で鮎を吐き出させるたび拍手が沸きました。
鵜船は一艘ですが、2列につながれている屋形船の真ん中の川をゆっくり
上流へ移動しながら鵜飼をします。
下流へ戻るたび篝火の薪を入れ、3度ほど往復して見せてくれました。
川面がすっかり暗くなった8時ころ、鵜飼は終り船を下りました。
その後、奈良の旧ドリームランド前のファミリーレストランCOCOSで
小句会後解散しました。
土曜の夜10時頃でもお店は混んでいました。
篝火の火の粉の中の鵜の勁し 常朝
鵜飼果つ遠ざかりゆく篝火に 常朝
(鵜小屋の鵜)
(鵜舟と鵜匠)
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吟行案内
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