2016年3月22日火曜日

233. 大阪・四天王寺彼岸会

「アカシア紀行・俳句」2016年3月21日(月)    前へ        次へ

 天気に恵まれた暖かい彼岸中日の翌日、 いつものメンバー6人で大阪・四天王寺彼岸会を訪ねました。

 四天王寺は推古元年(593)聖徳太子が鎮護国家と衆生救済のために四天王を安置して
建立されたと伝えられる寺です。

 四天王寺彼岸会は3月17日から23日までですが、21日は連休の最後の日でもあり、
おおぜいの参拝客でにぎわっていました。
 我々は都合で電車組と自動車組に別れて10時頃四天王寺南門に集まりましたが、
近くの駐車場がすべて満車で、自動車組の駐車と入山が遅れたため、別行動となりました。

 まず亀井堂を訪ねて、経木の水供養を参拝しました。
多くの人が(多分)桧の薄い経木(きょうぎ)に供養者の名前などを書いて受付に渡すと、
束ねられて順番を待ち、机に置かれます。

 ときおり風が経木を飛ばしそうになると手で抑えていました。
堂守が順次経木にある供養者の名前を読み上げ、亀形の水盤に投げ入れ水供養として
流します。水盤の中はすでに経木で一杯でした。
供養者は常に20~30人がそれぞれ経木を持って並んでいました。

 亀井堂の前に大きな池があり、真ん中の石台に亀がずらりと甲羅干しをしており、
数匹が力を抜いて浮かんでいます。
子供達がパン切れを投げますが、亀達は殆ど無視していました。
また石橋の西側の石舞台では彼岸会を知らぬげに鳩が遊んでいました。

 広い四天王寺の北側は、30以上の屋台(干し店)がならんで、広島焼き、わかさぎ天ぷらなども
売っていました。
六時礼讃堂にお参りし、しばらく干し店などを見物後お寺を下山して、
自動車組は阿倍野ハルカス19階のマリオット都ホテルのラウンジで、
また電車組は東側の天王寺都ホテルでそれぞれ昼食をとり解散しました。

 春らしいお天気に恵まれ、彼岸会の善男善女に囲まれた一日でした。
また私は日本一高いビルである阿倍野アルカスは今回始めてだったので、
19階から春の日差をあびた大阪のビル街や周囲の山々を楽しむことができました。


       水供養の経木持つ列彼岸寺      常朝

       干店の公魚美味し彼岸寺        常朝

       日本一のビルに樹林も彼岸晴      常朝

        (四天王寺の干店:古道具屋:クリックで拡大以下同じ)
          (わかさぎ天ぷら屋)
        (亀井堂)
        (経木持って並ぶ人達)
        (六時礼讃堂)
        (北鐘堂)
        (パンを無視する亀達)
        (四天王寺境内図:クリックで拡大)
        (四天王寺説明書:クリックで拡大)
        (阿倍野アルカス19階から北-天王寺公園など)

 結局、駐車場は四天王寺から北へ歩いて10分位の、
谷町筋・生玉公園の南200メートルくらいのリパーク生玉第二にしましたが、
帰る時は中門の東側、谷町筋金剛組の前からメンバーを乗せ、阿倍野ハルカスの駐車場に
移動しました。

 ハルカスの駐車場は、あびこ筋の天王寺都ホテル駐車場入口を通って、
再びあびこ筋の南側を東から西へ進まないと入れないのでややこしかったです。
そのため2つの都ホテルを同じホテルと勘違いしメンバーに迷惑をかけました。

2016年3月7日月曜日

232. 河内長野・観心寺

「アカシア紀行・俳句」2016年3月6日(日)    前へ    次へ

  急に暖かくなった啓蟄の頃、 いつものメンバー6人で大阪・河内長野の観心寺を訪ねました。

 観心寺は飛鳥時代、役小角によって開かれ、平安時代弘法大師によって中興され、
南北朝の頃、後醍醐天皇の勅によって楠木正成が金堂を建立した、山岳寺院です。
正成公幼少の頃の学問所とされており、湊川で討たれた正成公の首塚もあります。

 外環状線(170号)の新家交差点から東側の旧170号線に入り、南下して河内長野駅東の
310号線を南へ約3キロ、9時半頃観心寺駐車場に着きました。

 入山料300円を納めて境内に入ると、日曜日でもあり、
すでに数組の家族や夫婦らしい人々が参拝にこられ境内の梅林などを散策していました。

 参道の左手に合計300本とされる3段の梅林があり、それぞれがほぼ満開でした。
右手の池の中の島には、後村上天皇旧跡と書かれた大きな石碑があります。
(後村上天皇(在位1339-1368)は後醍醐天皇の皇子・義良(のりよし)親王)

  一番下の梅林には石の机と長椅子があり、ここで梅見酒でも飲めば楽しそうです。
やさしい風にちらほらと梅の花が石椅子にも散り、また風で地面へ散っています。
しばらく満開の梅を楽しんだあと、右手のゆるい坂を登って、首塚や開山堂、7つある星塚、
(三重の塔を建てられなかった)建掛塔などを拝見しました。

 途中、天皇旧跡の池のそばに若い僧がカメラを持ってこられたので聞くと、
記録のために寺の梅などを撮っているとのこと。 
島の2本の紅梅に見えたのは河津桜と教えてくれました。


       河津桜梅と競えり観心寺       常朝

       南朝の御陵ある寺梅白し       常朝

        (観心寺)
         (後村上天皇旧跡碑)
        (観心寺梅林)
        (開山堂)
        (正成公首塚)
        (後村上天皇陵・檜尾稜参道)
        (星塚-破軍星)
        (星塚説明板)
        (建掛塔)

 本堂(金堂)に入って 観音の厨子やびんづる像を参拝後、一番上の梅林を訪ねました。
そこにはいくつかの石のインド仏像があり、仏像の足元には梅が散っていました。
身体をくねらせている像や右手に数珠を差し上げている像もあります。

 さらに境内の北西の端には恩賜講堂があり、エンタシスの柱とともに古びたままで、中に
正成公らしい像が置かれていました。裏には軽自動車の廃車が草に囲まれていました。
すこしだけ霊宝館を覗いてから、境内のほぼ中央に戻り、鬼子母神堂(訶梨帝母天堂)の上の
侘助の大樹を見ました。 足の踏み場もないほど花が散っていました。
また若い女性が一人早足で星塚を回っていました。

       星塚の柵の赤きに落椿         常朝

       梅林に印度仏像首かしぐ        常朝

        (観心寺金堂)       
         (訶梨帝母天堂と侘助)
        (梅林のインド仏像)
        (恩賜講堂)
        (霊宝館)

 2番めの梅林も少し見てから、観心寺を辞しました。
河内長野駅近くで駐車しやすいレストランなどがなかったので、少し北の錦織公園を訪ねました。

 梅林入口までいきましたが坂を登るのがきついメンバーもいたので、子供達のどんぐり拾いなどを
見てから、外環状線(170)・南旭ヶ丘のガストで昼食後句会を楽しんだあと、交差点北側の
CAFERESTでコーヒーをいただき、4時半頃解散しました。

 外環状線は中央分離帯があるので東側に多いレストランに行くには、立体交差点を
下からくぐる必要があり、移動には少々疲れましたが、
啓蟄の頃にしては、4月上旬のような暖かい日差のなか、広大な寺院と梅林を楽しんだ一日でした。