2009年3月25日水曜日

85.法隆寺・聖霊会(お会式)

「アカシア紀行・俳句」2009年3月23日(月)


 例年より早い桜がちらほら咲く3月下旬、いつものメンバー5人で
奈良・法隆寺の聖霊会(しょうりょうえ・お会式(おえしき)とも)
にお参りしました。
聖霊会は、622年旧暦2月22日なくなられた聖徳太子の霊をまつる
22日から24日までの3日間の行事です。
10年毎の大会式(次は2011年)ではお練り(行列)もあるようですが、
今年は小会式ということで、通常の法要・祭壇のみとのことです。

 11時前に法隆寺について、参道の東側のうどん屋さん(志むら)で
昼食後、屋台を見ながら、東院・夢殿のさきの大黒屋跡へ
歩きました。大黒屋は、堀辰雄の「大和路」などに出てくる旅館でしたが
今は普通の民家になっており、旅館大黒屋という看板があるだけで、
十七八の娘さんも出てきませんでした。
屋台には綿菓子や金魚すくい、亀すくい、たいやき など昔なつかしい
ものもあり、植木市までありました。

 そのあと、西院へもどり聖霊院にお参りしました。
聖霊院は聖徳太子の霊を祀るお堂で、五色の幔幕が屋根から掛かっています。
お堂に上がると、薄暗い堂の内陣にきれいなお供えの壇が飾られていました。
左右の大きなお供えは、須弥山をかたどった「大山立て」というそうです。
お供え3段の1段目には、円筒形に飾られた、金柑、干柿、かやの実、
ほおずきなどが10種以上がそれぞれ三宝の上に置かれていました。
お供えの壇が高くて聖徳太子のお像は拝見できませんでした。

 法要は22日のみだそうで、この日はお参りだけして、西円堂へ歩きました。
薬師如来を安置する西円堂は八角のお堂で、高い石段を登りますが、
石段のすきまに小さな「すみれ」が咲いていました。
薬師如来を撮ろうとしたら詰所のおばさんに撮影禁止ですと言われました。

その後大和郡山市の「茶暮里」で小句会後解散しました。


         綿菓子の綿を飛ばせり春の風   常朝 
    
         塔頭の皆門開けて聖霊会     常朝
         (たっちゅう)

         西円堂段のすきまにすみれ咲く  常朝
  
        (法隆寺・中門と塔:写真はすべてクリックで拡大)

        (聖霊会の屋台)

        (聖霊院)

        (聖霊院の内陣・お供え)

2009年3月4日水曜日

84.葛城・笛吹神社、水分神社から高天彦神社

「アカシア紀行・俳句」2009年3月3日(火)


 ひな祭りの日、いつものメンバー6人で奈良・葛城の笛吹神社などを
訪ねました。
この日は朝から曇り空で午後雨の予報でした。
10時すぎ葛城山のふもとの笛吹神社に着くと、雪が降ってきました。
歴史ある葛城の春の雪ということで、寒いですがみな喜びました。

 笛吹神社は由緒書きによると、笛吹連(ふえふきのむらじ)の祖先の
天香山命(あめのかぐやまのみこと)と、火の神様である、火雷大神
(ほのいかづちのみこと)を、崇神天皇の頃から祭っているとのこと。
笛吹はこのあたりの地名でもあり、フルート、尺八など楽器の上達を
願う方や火を扱う職業(飲食、製造など)、消防関係の崇敬を受けて
いるとのことです。
また境内の「波々迦(ははか)の木」は、天皇ご即位の大嘗祭の斎田の
占いに使われるためこの神社の木を奉じたとのことです。
この木はウワミズザクラとも呼び、4~5月、10センチ位の筒状の穂に
5ミリ位の小さい花を10-20個位つけるとのことですが、
見たことはありません。
鳥居のそばには大きなイチイガシの木があり、境内には、日露戦争の
戦利品であるロシアの大砲が青苔のついた砲身をふもとに向けています。
また石段の上の本殿のうしろには古墳があり、
石室への鉄の扉が下から見えますが柵で保護されています。
一旦ふもとの御所駅近くの「夢宗庵」で昼食後、、葛木水分神社
(かつらぎみくまりじんじゃ)を訪ねました。

ここは、奈良から河内へ越える水越峠の関屋という地域にある古い神社で、
国道309から右へ(北へ)少し登った中腹にあります。
本殿は小さいですが拝殿はわりに大きく、下には水越川の谷が流れて
大きな水音を立てていました。
このあたりは江戸時代葛城、金剛山の西側の河内の農民と水争いが起こり、
京都所司代が古い記録などから大和側へ流すことに決着したそうです。
杉の山や谷を見ていたら春の雪はまたはげしくなりました。

 その後、山麓道30号線を南へ走り、高天彦神社(たかまひこ神社)を
訪ねました。
ここは、金剛山の麓ですがかなり高い所にある、古い神社です。
由緒書きによると、葛城王朝の祖先である、高天彦(たかまひこ)
(高皇産霊尊(たかみむすびのみこと))を祀っているとのこと。
神武天皇の曽祖父の祖父にあたる神話の時代の祖の神様です。
以前はここへ車で参拝するのは相当狭い山道を走りましたが、
今は立派に整備された道を山麓道路から西へ1キロ強で楽に登ることが
できます。
本殿の屋根は赤茶色の瓦で、古い神社に似つかわしくはないのですが、
春の雪がその色をしぶい色に変えていました。
参道は樹齢数百年かとも思う杉の並木で周囲は田んぼや畑があり、
参道入口の駐車場のそばには鶯宿梅という名の大きな白梅の木があります。
その幹にも雪が少し積もっていました。
近くの田の土手でふきのとうや蓮華草を見つけました。

 雪が雨になった3時頃神社を後にして、国道24号線を北上し、
葛城市当麻の文晃堂で小句会後解散しました。

         まっすぐに遅速ありたる春の雪  常朝 
    
         水争いありし峠に春の雪      常朝

         高天原の雨となりたる春の雪   常朝
  
        (笛吹神社・写真はすべてクリックで拡大)

        (笛吹神社のロシアの大砲)

        (葛木水分神社)

        (高天彦神社)

        (高天の鶯宿梅)

2009年2月24日火曜日

83.奈良・巨勢野から牧場

「アカシア紀行・俳句」2009年2月22日(月)


 暦の上では「雨水」のとおり、曇りがちで夜雨予報の日、
いつものメンバー7人で奈良・御所市の巨勢野(こせの)を訪ねました。
ここは万葉集の、

「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲ばな 巨勢の春野を」

で有名な椿の巨勢寺跡や阿吽寺(あうんじ)のある御所市の南、JR・近鉄の
吉野口駅の周辺です。(万葉集1-54)
飛鳥時代に持統天皇が紀伊の国へ行幸の途中、坂門人足の詠んだ一首とのこと。

万葉集には、ほかに

「我が背子を こち巨勢山と人は言へど 君も来まさず 山の名にあらし」

という、恋人をこちらへ来させる(こせ)山と言われているのに、
待っていた恋人がこないので、ただの山の名らしい、とのユーモアのある
歌もあります。(万葉集7-1097)

 駐車場の都合で我々は昼前にまず、阿吽寺を訪ねました。
阿吽寺はJR駅の北西、国道309号に沿った巨勢山の一部、阿吽寺山にあり、
国道沿いの駐車場から階段を登った境内にはさまざまな椿が咲いています。
昔このあたりの大きな寺であった巨勢寺の支院であったようで、
境内に椿が多く植えられているので玉椿(ぎょくちん)山と呼ぶようです。
今は無住の本堂と庫裏があるだけの小さな真言宗のお寺ですが、
玉垣や椿の鑑賞の道(坂道)も整備されていました。
犬養孝先生の書による「つらつら椿」の万葉歌碑もあります。
寺山の上には歴代住職の墓や見晴台があり、そこから見る巨勢野は
鉄道や国道の車を忘れたら、東西の山の緑に囲まれた川や畑もある
自然豊かな盆地です。

 しばらく境内などを散策後、北東へ10分ほどの巨勢寺の塔跡へ行きました。
入口はわかりにくいですが、吉野口駅の北側の曽我川沿いの旧街道を
500メートルほどの正福寺のさらに北200メートルほどから西へ狭い路地を
入って近鉄のレールを越えたところが塔跡です。
JRと近鉄の二つのレールに囲まれた狭い土地で、大きなけやきの木があります。
駅の北側の踏切を西へ渡って右折れして北へ300メートルほど歩き、
JRのレール越えても同じです。
塔跡には1間四方くらいの小さなお堂(大日堂)が建っており、
中はがらんどうでした。
お祭りのときだけ、仏像などを運ぶのでしょう。
塔跡には塔の心礎(石)が残っており真中の舎利孔には水が溜まっていました。
お堂の縁の下には竹箒が数本置いてあります。
昔訪れたときは大日講で近所の奥さん方が10人位集まって楽しそうに
談笑しお祭をしていました。

 その後、車で309号線を西に走り、24号線との交差点(室)の西のレストラン
「わだきん」で昼食をとりました。
食後、偶然同じテーブルで知り合った御所市のTさんの案内で、
Tさんの親戚の牧場を見学しました。
その牧場は少し南の小殿という山麓にあり、乳牛50頭ほどと20頭ほどの
二つの牛舎が、1000坪ほどの土地にあります。
坂の土手には「ふきのとう」がいくつも顔を出していました。
道路側の牛舎の網の窓から中を覗くと、大きなホルスタイン牛が
黒い眼をこちらに向けました。
奥のほうでは子牛が3頭、鎖につながれて食事中でした。
のち、近くの御所市民運動公園に案内され、山の中腹の駐車場から、
金剛山を一望しました。あいにく曇り空でしたが、天気がよいと
とてもきれいに見えるそうです。
3時すぎTさんと別れて、橿原観光ホテルで小句会後、
降りだした雨の中を解散しました。

         塔跡に鉄路光りて冴え返る   常朝 
    
         舎利孔の水に映れる欅の芽   常朝

         春風や視野いっぱいに金剛山  常朝
  
        (阿吽寺・写真はすべてクリックで拡大)

        (犬養先生の書による万葉歌碑)

        (巨勢寺塔跡)

        (塔の心礎)

        (牧場の子牛たち)

2009年2月5日木曜日

82.八坂神社節分祭から建仁寺

「アカシア紀行・俳句」2009年2月2日(月)


 良い天気であたたかい節分前日、いつものメンバー6人で京都祇園の
八坂神社の節分宵宮に行きました。

 四条の祇園パーキングに着いたのは、10時半頃、神社での舞妓さんの
舞踊奉納や豆撒きは13時からなので、鴨川や先斗町かいわいを歩きました。
四条河原町の東岸には南座があり、その壁際の阿国の碑や岸の阿国の像を
見ました。

 鴨川の川床料理のみそぎ川の浅瀬では鴉が水浴びをしており、堰の下では
鴨の群れが泳いでいました。
鴨川の西岸、四条の北の先斗町(ぽんとちょう)を歩くと、平日昼前のためか、
人通りは殆どなく舞妓さんらしい人を見たのは一人だけで、ときおり配達の単車
などがきました。
3条通り近くのお寺の銀杏の木などが芽吹いていました。

 三条大橋を東へ渡り花見小路をゆっくり歩いて四条の八坂神社へ戻りました。
途中、芸者さんたちのお参りする神社「辰巳大明神」にお参りし、
巽橋を見ましたが、小さな石橋で白川の流れの上の木には10羽位の五位鷺が
じっと止まっていました。

 神社へ戻ると12時を過ぎていたので、食事をせずそのまま神社で福豆を求め、
空くじなしのくじを引きました。大当たり(?)でしたが中身はヒミツ。
境内の舞殿の周囲にはすでに大勢の人達が集まり、舞妓さんの登場を待って
いました。
我々も本殿にお参りをしたあと舞殿のそばで待っていると、
午後1時前に斎殿から舞妓さんが二人、長唄演奏者ほかとあらわれ舞殿に登り、
奉納舞踊が始まりました。演目は「梅にも春」でした。
奉納は今日は1時から先斗町の舞妓さん、2時から弥栄雅楽会の舞楽、
3時から宮川町の舞妓さんの舞踊となっているようですが、
我々は先斗町の舞踊だけ拝見しました。
二人の舞妓さんの名は「小楽」、「豆楽」さんだそうです。
舞踊は5分位で終わり、あとは舞妓さんと年男による豆撒きでした。
豆撒きもあっというまに終わり、私は一つも拾えませんでした。

 その後祇園の十二段家で昼食後、近くの建仁寺を拝観しました。
ここは臨済宗建仁寺派の大本山で建仁2年(1202)栄西により建立され、
「風神雷神図」「襖絵」などで有名です。
我々は、方丈にある俵屋宗達の「風神雷神図」屏風や
先日厨子から阿弥陀像が盗まれた方丈の仏間と庭、法堂(はっとう)天井の
双龍図などを拝観しました。

 のち四条通りの「くずきり」の鍵善に行きましたがお休みのため、
おとなりの「コーヒー店あさぬま」でコーヒーをいただき、
夜自宅で前回の安土の分と合わせて2回小句会後解散しました。

         春立ちし広き川原阿国の碑   常朝 
    
         先斗町寺の銀杏の芽吹きけり  常朝

         風神図笑顔に見えて春立てり  常朝
  
        (阿国の碑・写真はすべてクリックで拡大)

        (阿国の碑・説明板)

        (鴨川東岸より上流)

        (先斗町)

        (八坂神社・豆撒き)

        (建仁寺・方丈:1月31日右の部屋に泥棒が入り3月2日逮捕)

81.近江観音正寺から安土城

「アカシア紀行・俳句」2009年1月30日(金)


 午後雨の予想の日、いつものメンバー7人で近江観音正寺など安土へ吟行しまし
た。天気に強い我々ですので、午後もしばらくは曇りでしたが夕方雨となりました。

 9時半奈良出発、京滋バイパスから名神竜王ICから8号線経由で11時すぎ
山の上の観音正寺に着きました。
最初、観音正寺の西側の正面からの駐車場を探しましたが、急な坂道なので、
五個荘南交差点から東側の林道を登りました。

 観音正寺は西国三十三ヶ所の寺で、琵琶湖東岸の繖山(きぬがさやま)の山頂
付近にあり、聖徳太子がこの地で出会った人魚の願いで建立されたとのことです。
本堂や本尊が平成5年の火事で全焼したので、平成16年再建され、
本尊の観音像もインドからの白檀で新造されたとのこと。

 駐車場から10分位の山道をゆっくり登ると、道端には石仏が
いくつも置かれ、残り雪があちこちにありました。
土手には冬苺もあり、寒椿が咲いていました。
見下ろす下界は広い近江平野で、青い麦田を白い新幹線が走っていました。

 頂上付近の寺に入ると、広い境内に一対の大きな仁王さまが立っておられ
大仏や献茶用の茶園もあります。
山手(右側)には善男子、善女子と書いたトイレと供養堂や護摩殿、太子殿が
あり、本堂の正門階段の前は屋根から落ちた雪(垂雪:しずりゆき)が高く
積もっていて入れないので、右横の縁から本堂にはいりました。
大きな千手観音坐像を拝んでから本堂横の石積みや観音池を散策しました。
枯れ蓮の観音池には大きさ15センチ位の蝌蚪(かと:おたまじゃくし)
の卵のかたまりがありました。

帰りには供養堂のお坊さんからお下がりのりんごやお菓子をいただきました。

山を下りて、8号線から安土に戻り、安土町役所北の仙五郎店で昼食後、
雨模様のなか安土城跡へ行きました。
織田信長が建てて3年しか住めなかったこの城は、低い安土山頂上にあった
のですが今は約400段の石段や石垣だけが残っています。
大手道に入るとすぐ左が秀吉屋敷跡、右が前田利家屋敷跡、その上が家康
屋敷跡(今は總見寺仮本堂)があります。

大手道・石段の脇の石(耳石)の中にはいくつもの石仏が組み込まれてあり、
時々降る雨に濡れていました。
我々は天守台跡へはいかず、左の總見寺の3重の塔や山門を見て駐車場へ降り
ました。

 その後、東南500メートルほどのところの「安土文芸の郷」の「信長の館」に
行き、再現された安土城天守閣を見ました。
この天守は、1992年のスペイン・セビリア万国博覧会に出展されたものを移築
したそうで、建物の中に天守の5、6階分が実物大で再現されています。
天守は10万枚の金箔が使われているようで、柱も梁も輝いており、竜や釈迦、
天人などの襖絵も、とにかくきらびやかです。
最上の6階へは横の階段で登ると、8畳位の金襴の部屋の真中に美しい2畳の畳
が置かれていました。ここで、信長が客人などを接待したのでしょう。
4時頃信長の館を出て帰りましたが夕方は本格的な雨となりました。


         山頂は近江の札所残り雪    常朝 
    
         麦芽吹く近江突っ切り新幹線  常朝

         耳石にされし石仏冬の雨    常朝
  
        (観音正寺から近江平野・写真はすべてクリックで拡大)

        (石組みと蝌蚪のいた観音池)

        (安土城大手道)

        (信長の館)

        (安土城天守5階)

        (安土城天守6階)

2009年1月15日木曜日

80.石山観音、関宿から油日神社

「アカシア紀行・俳句」2009年1月9日(金)


 年明けの雨模様の日、いつものメンバー7人で宿場町の関方面へ
吟行しました。珍しく降ったり止んだりの天気となりました。

 10時すぎ名阪国道を関インターチェンジで下りて、
名阪ドライブインで待ち合わせ、まず南西へ約1キロの石山観音へ
行きました。

 石山観音は三重県芸濃町にある磨崖仏の霊場ですが今は石山観音公園
として保存されています。
周囲数百メートルの岩山に多くの観音や阿弥陀仏が彫られており、
三十三ヶ所巡拝コースとなっています。
小雨の中、岩山の細い道を登りましたが、頂上の馬の背という
大岩のそばの阿弥陀仏を拝んで急坂を降りました。

 のち、関宿の北側の観光駐車場に車を置いて「会津屋」で昼食後、
宿場町を歩きました。
関宿は、古代三関の一つ鈴鹿の関の宿場町で、旧東海道に沿った、
東海道五十三次の47番目の宿場だそうです。
西の追分から東の追分までの約2キロが宿場町で、我々はほぼ中央の
地蔵院から東の追分まで約1.5キロを古い町並みを見ながら歩きました。
地蔵院のすぐ東の福蔵寺に入ると、烈女小万の大きな碑が立っています。
小万は父親の仇討ちのため少女の時、亀山の道場まで毎日通って、
剣道を修行し、見事仇を討ったとのことで鈴鹿の馬子唄にもあります。

 東の追分には広重の浮世絵の関宿にある鳥居と燈籠がありましたが、
案内板にある道標はみつかりませんでした。
戻る途中、和菓子店「関の戸」の荷担箱や旅籠の玉屋の蔵などを
見学しました。

 その後、名阪国道を西に戻り上柘植ICから甲賀の油日神社を参拝しました。
油日神社は、油日山のふもとにある甲賀地方の総社で、聖徳太子創建とも
伝えられており、境内に入るとうっそうとした木々の境内は広く、
いかにも神様のおられるような杜です。
三重国体の聖火を採火した記念碑もありました。
白州正子さんの「隠れ里」にも紹介され能面「福太夫」などで有名だそうです。
お面などは境内の民俗資料館にあるようですが、閉まっていました。

雨は上がりましたが、軒下には残り雪がありました。
祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)と猿田彦神とのことです。
本殿に参拝後、桧皮葺の楼門・回廊(かいろう)・障子のある拝殿など
を拝見、本殿左の槙の巨木にもびっくりしました。

4時すぎ神社を辞して、名阪国道の針テラスで小句会後解散しました。


         石仏の山七曲り初吟行     常朝     
          
         宿場町人少なくて花八手    常朝

         残り雪白州正子の訪ひし杜   常朝
  
        (石山観音阿弥陀像・写真はすべてクリックで拡大)

        (関宿郵便局の飛脚顔ハメ)

        (関宿の町並み)

        (広重の絵にある東の追分)

        (油日神社拝殿)

2008年12月30日火曜日

79.童仙房・沈下橋から柳生芳徳寺

「アカシア紀行・俳句」2008年12月18日(木)


 師走の朝曇りの日、いつものメンバー7人で南山城村の童仙房から野殿の
神社や木津川あたりを吟行しました。
やはり午後は晴れになりました。

 童仙房は江戸時代までは京・大和・尾張の三国にはさまれた山地だった
ようですが、明治政府が開拓を勧めたとのことです。
JR関西本線の大河原駅の東から山地へ狭い山道を10キロほど走ると
急に田畑が広がる童仙房につきました。

 まず案内板に従い「總神寺」をお参りしました。
ここは日蓮宗の寺で、日譽上人が昭和41年開山されたとのこと。
しかし境内には本堂、釈迦堂、日蓮上人の像などのほかに神社もあり、
八幡大菩薩、素戔鳴尊、のほか、ハワイの火の神女神ペレまで祀っています。
また神馬像や大きな鷲の像もあります。
境内はやや高台にあるので冬霞の山々や村の一部が見えました。
庭の苔には日陰カズラが日差を受けて若緑色を見せていました。

 その後東の野殿という所の千体仏があるという福常寺にいきましたが、
小さな無住のお堂があるだけで、中は拝観できませんでした。
庭の土手には龍のひげの青い玉がいくつかありました。
さらに東の六所神社を訪ねました。
せまい道の奥に立派な杉林の参道があり、萱葺きの落ち着いた
覆い屋(本殿)と萱葺きの舞殿があります。
舞殿には「京都の自然二百選」の認定証が掲げられていました。

 のち木津川付近へ戻り、「レストランおしはら」で昼食後、
木津川の沈水橋に行きました。
レストランの壁の上の方には女店主が書かれた人生標語が
30枚くらい貼ってあり、その中には私も好きな
「諦めなければ失敗でない」「目に見えないものが一番大事」
などもありました。庭には破芭蕉が数本立っていました。

 沈水橋はこのあたりには二つあり、二つとも車を止めて歩きました。
大水が出ると水中に沈みますが流れないよう、コンクリートの低い橋があり、
小型車がやっと通れる狭い巾でした。
歩くとすぐ下を冬の澄んだ川が流れ寒風が吹いてきます。
 二つ目の橋では偶然、鮒の放流を見ることができました。
漁業組合の2人が小型トラックで「へら鮒」の小鮒を500キロ運び、
車の水槽のホースから大きなバケツへ何度も小鮒を入れ、
橋のたもとから放流するところを、カメラに撮らせてもらいました。

 まだ少し時間があったので、夕方笠置経由で柳生の芳徳寺を訪ねました。
芳徳寺は柳生藩の柳生氏の菩提寺ですが、母が生前、歌人であった
先代の奥様に師事していたので母を乗せて車で何度か訪ねました。
ひさしぶりに訪ねると正木坂道場や学舎が立派になっていました。
寺の落葉の道の奥には柳生家墓所があり上泉伊勢守、石舟斎、
徳川家の剣道指南であった柳生藩初代の宗矩(むねのり)、子の十兵衛三厳
(みつよし)以下、80基ほどの墓石があります。
中には酒好きの人の盃型の傘と徳利型の墓石もありました。
4時頃お寺を辞して、奈良市内の喫茶店で小句会後解散しました。


         女神ペレ祀ってゐたる冬の杜   常朝     
          
         破芭蕉破りて音を確かめし    常朝

         放流の小鮒離れず冬の川     常朝
  
        (總神寺・写真はすべてクリックで拡大)

        (六所神社)

        (レストランの標語)

        (沈水橋)

        (鮒の放流)