2011年6月25日土曜日

129.景行天皇陵から石上神宮・影媛コース

「アカシア紀行・俳句」2011年6月23日(木)

 梅雨の曇予想から晴れた暑い日、いつものメンバー7人で、
奈良県天理市の景行天皇陵から石上神宮・布留の滝などの影媛コースを
訪ねました。

 景行天皇陵は国道169(天理街道)の天理ICの南4キロほどに
ある大きな前方後円の御陵です。景行天皇は崇神・垂仁天皇のあとの天皇で
日本武尊(やまとたけるのみこと)の父上です。
若い頃日本武尊はかなりの乱暴者だったので、東国から西国へ
遠征させられ、三重でなくなり白鳥になったとの伝説です。

 影媛は、武烈天皇が皇太子の頃、今の桜井市の海石榴市(つばいち)で
皇太子に言い寄られ、恋人だった平群の鮪(しび)が抵抗したら、
鮪はたちまち皇太子の兵隊に平城山で殺されました。(歌碑など後述)
 石上から平城山まで影媛が泣きながら歩いた道は今はほぼ北・山の辺の道と
なっています。つまり影媛コースは山の辺の道といえるかも。

 我々が9時半頃景行天皇陵に着いて参拝後、そばの植田の、
豊年えびや目高の子や、鮴(ごり)の子、蝌蚪(オタマジャクシ)
などを見てていたら、たまたま田のオーナーの人が水番にきたので、
色々話を聞きました。

 虫たちが元気なのは農薬をあまり使わないためのようです。
水が十分な時はそばの小川の水を、不足の時は御陵の濠の水を田に
引くそうです。
御陵の拝所を溝が通っていて、南の田へ水を引くのですが、
拝所の北側は荒地で、そのさらに北の小川から水を引くので、
小川の堰で止めても、まだ荒地の水が流れこむようです。
そのせいか、植田からは水があふれていました。
荒地の北側は水口神社ですが、すこし荒れた感じの小さな社で、
平地の水口神社は珍しいとのことです。

        陵を通る溝より田水引く     常朝

        陵の濠に沿ふ川目高ゐて     常朝

        陵の濠にありたる造り滝     常朝

       (景行天皇陵と植田:クリックで拡大:以下すべて)

       (田水の取水口)

       (濠から濠の造り滝)

       (景行天皇陵の濠)

       (景行天皇陵より:右に耳成山、畝傍山、左奥に香具山)



 その後、向いの「まほろば」で昼食をいただき、影媛コースの
出発点の石上神宮に参拝しました。北山の辺の道の一部です。
境内にはきれいな「おんどり」や白い「うこっけい」がうろついて、
木の枝にもとまり、コケコッコーと長い声で鳴いていました。
神鶏だそうで堂々としています。

 拝殿から参拝後、東へ200メートルほどの布留の滝まで歩きました。
滝のすぐ下流に「布留の高橋」と名付けた小さな橋があります。
滝へは布留川の岸の崖を「はしご」で降りないと全貌はみえませんが、
橋から木の葉ごしに滝の一部を見ることができます。

 このあたりには、昔恋人を皇太子に殺された影媛が泣きながら通った橋が
あったのでしょう。
滝への道は狭い農道のようで梅の実が落ちており、対岸には真紅の柘榴の花が
咲いていました。


        おんどりのうろつく斎庭花榊    常朝

        羽抜鶏長鳴く最後声かすれ     常朝

        瀧壺も木の葉に隠れ布留の滝    常朝

       (石上神宮:榊にとまる鶏:クリックで拡大:以下すべて)

       (石上神宮拝殿)

       (布留の滝)


 その後、石上神宮の駐車場に戻り、169号線経由で、
天理ICのすぐ北側の「和邇下(わにした)神社」を訪ねました。
影媛の歌碑を見るためです。
ここはこのあたりの古代の一族和邇氏を祀る神社で、いまは素盞嗚(すさのお)尊
ほかを祀っています。
未舗装の駐車場の左側の参道から石段を30段ほども上がると、小さな境内に、
昭和13年再建の本殿がありました。

 石段下を左に歩くとうっそうとした樹下に「影媛の歌」の石碑があります。
アカシア紀行13.2005年5月21日稿にも記入しましたが、
石碑の左の説明板「影媛あわれ」には次の歌があります。

  石の上 布留を過ぎて、高橋過ぎ、大宅過ぎ、春日を過ぎ、
  小佐保を過ぎ、玉笥(たまけ)には飯(いひ)さへ盛り、
  玉盌(たまもひ)に水さへ盛り、泣きそぼちゆくも影姫あはれ

    (字句の一部省略:原典は日本書紀・武烈天皇の項)

 この歌にある地名の高橋は、さきほど歩いた高橋ではなく、
この神社の土地の昔の地名であった、ともいわれています。

 暑さのせいもあり疲れてきたので、さらに北へつづく影媛コース
(円照寺など)はあきらめ、3時前から天理街道の別所・北大路の
「天平庵」で冷たい飲み物・和菓子をいただき、小句会後解散しました。

        鳥鳴かぬ影媛の歌碑木下闇     常朝

       (和爾下神社本殿)

       (和爾下神社説明板)

       (影媛の歌碑)

       (歌碑の説明板)

2011年6月16日木曜日

128.三輪大社笹ゆり・耳成山から明日香・蛍狩

「アカシア紀行・俳句」2011年6月15日(水)

 梅雨晴れ間の涼しい日、いつものメンバー5人で、奈良県桜井市の
三輪大社の笹百合園、耳成山、蛍狩で飛鳥柏の森などを訪ねました。

 奈良市の率川(いさがわ)神社は「ゆりまつり」
(三枝祭(さいくさまつり):今年6月17日)で有名ですが、
三輪大社の摂社であり、祭に奉納される笹ゆりは、(今年は6月16日)
三輪大社から送られます。
今日は奉納の前日ですが、大社で大切に育てられている笹ゆりを見に行きました。
三輪の笹ゆり園は2ヶ所あり、ひとつは三輪大社祈祷殿の下(西)に、
もうひとつは、北側の狭井神社の西にあります。
我々は午後2時半過ぎ集合、本殿参拝後、2つの笹ゆり園を拝見しました。
どちらのゆり園もすでに奉納用に剪られたのか、百合の数は数十本しか
見えませんが、いずれも淡いピンクの花を優雅につけていました。
 そのあと、久延彦神社を参拝しました。ここは智慧の神様で、
フクロウ形の受験生の絵馬が沢山かけられていました。
神社下の社前の民家には、蛍袋など多くの花が数えられない程の
植木鉢に咲いていました。小さな植物園のようで、当主の話では、
名前の知らない花もあるとのこと。

        笹百合のうつむき聞くや谷の音    常朝

       (三輪大社:クリックで拡大:以下すべて)

       (ささゆり園)

       (狭井神社)

       (狭井神社鎮女池)

       (久延彦神社参道)


 その後、橿原市の耳成山に立ち寄りました。
時間がなかったので頂上付近の山口神社は参拝せず、
南側の池のよく整備された公園で菱や水鳥を見ました。
菱の白い花がきれいでした。

        蔓引きて見せてもらひし菱の花    常朝

        菱の葉を些も沈めず水馬       常朝

       (耳成山)

       (耳成山の池)


 橿原観光ホテルで5時半頃から夕食をいただき、
この時期蛍が飛ぶとのことで、明日香に行きました。

 7時ころ勧請縄のある飛鳥川・稲渕に着きました。
稲渕の勧請縄の男縄から15号線を100メートル程上流へ進むと、
左に、飛び石の案内標が立っていたので、その坂を左に降りて
マタタビの花をくぐっていくと、飛び石がありました。
飛び石は万葉時代からある地元の簡易な橋です。
梅雨出水で飛び石は殆ど水をかぶっています。
しばらく待っていましたが、まだ早すぎたのか蛍が見えないので、
稲淵に戻り、車を置いて、旧道を100メートル程上流へ歩き、
別の飛び石案内標から川岸に降りました。
飛び石のすぐ下流の板橋で目をこらしていると、
すぐそばの岸の草むらで蛍が光りはじめ、続いて2匹、3匹、
4匹と光って、数匹が飛び始めました。
草の蛍を1匹手に取っても飛ばずにズボンなどに止まりました。
水音にまぎれながらも、河鹿の声も聞こえました。

        飛び石を薄く覆ひて梅雨出水     常朝

        火を消して飛ぶとき速き蛍かな    常朝

       (飛び石案内標)

       (飛び石)

       (飛び石そばの板橋)


 そのうち、15号線に駐車した車から、数人が板橋まで、降りてきて、
いっしょに蛍を鑑賞しました。
最初の飛び石の位置関係がわからなかったので、車で15号線へ戻り、
確認しましたが、最初のは、あとの飛び石より数十メートル下流にあり、
蛍の巣のありそうな岸辺は、最初のより少し上流だったようです。
闇が濃くなる飛鳥川の夜景も楽しんで9時頃現地解散しました。

2011年6月9日木曜日

127.雲ケ畑・惟喬神社から志明院、菩提の滝

「アカシア紀行・俳句」2011年6月8日(水)

 例年より早い梅雨の晴れ間の日、いつものメンバー6人で、
京都・雲ケ畑の惟喬(これたか)神社から志明院、菩提の滝などを訪ねました。

 雲ケ畑は洛北・賀茂川の源流にある山あいの町です。
京都・堀川通から賀茂川沿いに府道38号・61号線を北上して、
雲ケ畑の高雲寺下に着いたのは朝10時すぎでした。
高雲寺は惟喬親王が開いたとされる禅寺です。
惟喬親王は平安時代前期・文徳天皇の第一皇子でしたが、
母が藤原家出身でなかったので、皇位を継がず洛北に隠棲・
出家されたとのこと。

 高雲寺は今は無住の禅寺ですが、道路から50段ほどの急な
石段の上なので、昇るのはあきらめました。
寺の下の雲の畑小学校は、6月4日NHKの路線バスの旅番組で
放映されたように全学児童4人で、耐震工事のためか、校舎に
金網が張ってありました。
北側の中学校は3月に休校になったようです。

 学校の金網を見てから約1.5キロ北の惟喬神社を訪ねました。 
惟喬神社は、雲ケ畑北部のバス停・岩屋橋の洛雲荘を左折して
すぐの狭い道の北側にある小さな神社で、26才でなくなった
親王を祀る神社です。
惟喬親王が大事にしていた雌鶏が死に、村の人が憐れんで
祀ったので雌鳥(めとり)神社とも云われたそうです。
今も本殿の扁額には「雌宮」とあります。

 向いのおうちの道路際に都忘れのような花が咲いていたので、
庭仕事の老主婦に聞くと、深山嫁菜とのことでした。

        鶏愛でし皇子の社に照る青葉     常朝

       (惟喬神社:クリックで拡大:以下すべて)

       (惟喬神社の案内板)

       (本殿と扁額)


 そのあと、狭い道を西へ約1キロ登って岩谷不動の志明院を
訪ねました。
この寺は、役行者が開き、弘法大師が再興した真言宗の寺ですが、
大師が修行したという大きな岩窟の中に清水が湧いており、
それが賀茂川の源流とされたようです。

 入山料300円を納めて、お寺の大黒さんから境内の説明を受け、
仁王門から本殿へ登り、さらに岩を掘った階段などを登って、
5メートル四方位の舞台のついた岩窟(岩屋)に行きました。
高さ5メートルほどの大岩の下が深くえぐられて暗い岩窟に
なっており、岩のくぼみに清水が溜まっていました。
置かれた柄杓で賀茂の源流の清水をいただきました。
大岩には太さ3センチほどの藤蔓が食い込んでいました。

 本堂(不動堂)のそばには九輪草が、参道には山芍薬が咲いて、
鵤(イカル)が鳴いていました。雪の下はつぼみでした。

        空海の岩窟暗く滴れり        常朝

        藤蔓の食ひ込む岩よ滴れり     常朝

        九輪草賀茂源流の岩の下      常朝

       (志明院山門:クリックで拡大:以下すべて)

       (志明院案内板)

       (山芍薬)


 預けていたカメラを返してもらい、山門などを撮影してお寺を辞し、
岩屋橋に戻り、さらに上流2、3キロの舗装道路の行き止まりまで移動、
地道の林道沿いの源流の谷を見ながら弁当をいただきました。

       (舗装道の行止りの谷)

       (紅空木)


 紅空木(べにうつぎ)やピンクのアカシアなどを見ながら
岩屋橋から約1キロ南を右折、持越峠を越えて菩提の滝に行きました。
峠道の左側に鹿がいましたが、車が近づくと草むらに逃げました。

 峠を降りて162号線(周山街道)に入り、すぐ左の道から
中川町を南下、約1キロで左の菩提道に入り狭い谷道を南東へ
約1.2キロ進み、菩提の滝まで行きました。
途中の北山杉の山々は間伐材が置かれたりしていますが、
割合管理が行き届いているようでした。

 菩提の滝は菩提道の大岩の切通しの南側にあり、切通しの道からは
滝頭(滝の上)が見えます。
道際の石段を20-30段降りると、高さ10メートル位の滝が
狭い滝壺に落ちて、大きな音を立てていました。
周囲は岩ばかりなのでよく響くのでしょう。
崖には「こあじさい」が咲いて、左の上方には不動像があり、
そのあたりで虫柱がたっていました。

        親王の谷にひそかに紅空木    常朝

        滝不動の前を動かず虫柱     常朝

       (菩提の滝)

       (菩提の滝説明板)


 その後162号線を南下、高山寺前を通って京都に戻り、
丸太町通りから河原町通りの市役所前の京都ホテルオークラB2の
ロリーヴォ・フェリーチェで小句会後5時頃解散しました。

2011年5月23日月曜日

126.南港野鳥園、難波宮跡から四天王寺

「アカシア紀行・俳句」2011年5月22日(日)

 梅雨の前触れのような雨の日、いつものメンバー7人で、
大阪南港の野鳥園、難波宮跡から四天王寺を訪ねました。

 野鳥園は大阪南港の咲洲(さきしま)の北端にある、
500メートル X 300メートル程の広さの大阪市の公園で、中には
海水を入れる「潮入り」の池として北側の西池・北池と南側の南池、
展望塔、北観察所、南観察所、遊歩道などがあります。
電車ではコスモスクエア駅から南へ約1キロです。

 我々が阪神高速5号湾岸線の南港北出口からATC前を通って駐車場に
着いた9時半頃は雨で、展望室に入るとさらに激しくなりました。

 展望室の大きなガラス窓からは、大阪の海と、低い堤防の前の
野鳥園の池が目の前に広がりました。
野鳥を探しましたが、最初は西池の干潟の左に軽鴨が3羽いるだけ
でした。しばらくすると川鵜が来て、そのうち、「キアシシギ」
の群が南池の干潟の向う側の岸辺にきました。

 しばらくすると、干潮になり、潮が引いて干潟が大きくなり、
西池干潟と南岸のすき間が狭くなり、流れが出てきました。
そのうちきれいな婚姻色のアオサギが1羽流れに来て立ちつくします。
干潟の向う側(西側)には「シロチドリ」が数羽ツツツと走り始めました。
野鳥園の人が親切に大きな望遠鏡をセットしてキアシシギやシロチドリ
などを我々に見せてくれました。
飛んできた雪加(せっか)と鳴き声、ミサゴも教えてくれました。
12時を過ぎる頃には西空が明るくなり、明石大橋も見えてきました。

        潮入りの池に波立て走り梅雨    常朝

        青鷺立つ潮入り池に潮流れ     常朝

       (野鳥園:クリックで拡大:以下すべて)

       (野鳥園北池・潮入り池)

       (野鳥園西池と干潟)

       (野鳥園南池・潮入り池)


 12時半頃からATC北館3階の和献洋彩店(にんにん)で昼食後、
難波宮跡に行くため、阪神高速で市内に戻り森ノ宮ICで高速を出ようと
しましたが、森ノ宮ICは入口のみで出口はなく高井戸から戻りました。
玉造筋を少し南下して西の難波宮跡公園に着きました。

 ここは大化の改新(645)後約150年間断続的に都のあった所ですが、
今は300メートル四方ほどの広い公園となっており、
芝生と植林のほかには大極殿跡の石壇などがあるだけです。
雨は大体上がっていましたが、駐車場がないので、早々に宮跡を
離れました。

        雨上がる難波宮址に楠の花    常朝

       (難波宮跡公園)


 その後谷町筋を南下して四天王寺を訪ねました。
四天王寺は天王寺駅の北500メートルにある、300メートル四方ほどの
大きな寺院です。
聖徳太子を祀る大阪市内最大のお寺で、推古天皇の頃太子によって
建てられたとのこと。

 広い境内に五重塔と金堂、講堂、亀井堂、六時堂(六時礼讃堂)、
本坊など多くの建物があり、我々は東側の駐車場に駐車しました。
今日は聖徳太子の月命日で、入山料は無料でした。

 金堂の救世観音を参拝したのち、亀井堂で水塔婆の供養を拝見しました。
お寺の堂守2人が水塔婆(ご先祖の霊などと書いた薄い木の板の
経木(きょうぎ))を、長い柄杓で、湧き水を流す大きな亀形石盤の中に、
沈めていました。亀井堂の前には石の転法輪がありました。
湧き水は金堂の下から引いてきているそうです。
 のち、六時堂の前の石舞台を拝見しました。舞台の両脇の池には
大きなアカミミガメが沢山いました。

        水塔婆長柄で掬ふ青葉寺    常朝

        転法輪回す大寺楠の花     常朝

       (四天王寺:クリックで拡大:以下すべて)

       (四天王寺講堂)

       (六時礼讃堂と石舞台)

       (石舞台横の池)

       (亀井堂説明板・内部は撮影禁止)


本坊庭園は時間がなくて拝見せず、4時半頃お寺を辞して、上六の
シェラトン都ホテルのカフェベルで小句会後解散しました。

2011年5月9日月曜日

125.磐之媛陵から日葉酢媛陵、松林苑跡

「アカシア紀行・俳句」2011年5月8日(日)

 五月晴れの母の日、いつものメンバー6人で、
奈良・平城京北の磐之媛陵から歌姫町の松林苑跡を訪ねました。

 磐之媛陵はアカシア紀行35(2007年6月16日)にも記入しましたが、
仁徳天皇のお妃の御陵で平城京北の水上池の北にあります。

10時頃御陵に着くと、写真家が数人三脚をお濠に向けて立てていました。
お濠の岸辺には、紫や黄色の杜若(かきつばた)が咲いており、
睡蓮と河骨の葉が水面をほぼ埋めていました。
南側の水上池の木立からは葭切(よしきり)の元気な声が聞こえます。
拝所の左側(西側)の松は枯れており、松の切株も2つありました。

        葭切の声届きけり皇后陵    常朝

       (磐之媛陵のかきつばた:クリックで拡大:以下すべて)

       (拝所と黄かきつばた)


 のち、水上池の西1キロメートルほどの成務天皇陵、日葉酢媛陵に
移動しました。車で、南の佐紀神社(ふたつあります)にはさまれた
御前池の東岸の道から狭い農道を北西に200メートルほど進み、
山上八幡神社の道から進むと衛士小屋の前に駐車場があります。
拝所は北向きですが、すぐ南側に称徳天皇陵の杜があります。
日葉酢媛は垂仁天皇のお妃です。
3つの御陵の青葉に囲まれたあたりは静かで時々鵯らしい声が
聞こえました。

 成務天皇陵の拝所前の小さな池には杜若が咲き、
日葉酢媛陵の濠には亀や鯉が泳ぎ、軽鴨が一羽寄って来ました。

        三陵の青葉の中の静けさよ     常朝

       (成務天皇陵)

       (日葉酢媛陵:垂仁天皇のお妃の御陵)


 近くの食事処「中川」で昼食をいただいたあと、
日葉酢媛陵の西200メートルほどの瓢箪山古墳に行きました。
この古墳は長さ100メートルほどの前方後円墳ですが、
周囲の空濠・庭に竹落葉が音を立てて散っており、
夏鶯の声が聞こえました。

 この古墳から東は平城京の禁園、松林苑だったとのことです。
松林苑は天皇家の庭(禁園)でしたが、南北1キロ、東西0.5キロほどの、
周囲が土塁で囲まれ、皇室用の農場のほか、楽人・歌姫の住居や
衛士府の兵の住居があったようです。
町名の歌姫は多分ここからきたのでしょう。
最近の調査ではさらに東側、こなべ古墳のあたりまで約1キロ四方の
禁園だったようです。

 古墳のすぐ東側の道路に面して土塁の跡があります。
土塁跡は巾6メートル、南北20メートルくらいの雑木林のようで、
背の高い木立に竹が侵食していました。

        禁園の跡に音立て竹落葉     常朝

       (瓢箪山古墳:クリックで拡大:以下すべて)


 さらに、東へ約500メートルほどのハジカミの池に行きました。
池は100メートル四方位で、中に小さな島が2つあり、
西岸には土塁跡が残っています。庭園の中の池かもしれません。
池には亀や軽鴨が泳ぎ、夏落葉の赤い葉が浮いていました。

        禁園の池に紅夏落葉       常朝

        母の日の采女の棲みし苑の跡   常朝

       (ハジカミ池の土塁跡)

       (ハジカミ池の浮島)

 その後、歌姫街道(751号線)の北の、添(そう)神社を訪ねました。
添神社は「添御縣坐神社」で、速須佐之男命、櫛稲田姫命、武乳速命を
祀る、奈良時代からある古い神社です。
境内には長屋の王の歌碑と菅原道真の歌碑があります。
この神社は当時の県境にあり、旅の安全を守る神だったようです。

長屋の王の歌は

 佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ

 (佐保から出立するとき神への手向けとして置く幣は
  妻と無事再会できますようにと祈るためです)

道真公の歌は(百人一首)

 このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに

 (今度の旅はあわただしく、幣をささげることもできない。
  せめて、錦のような手向山のもみじを、
  幣のかわりに神のみ心のままにお受けください)

 いずれも旅の安全を祈る歌で、昔は県境の神社を手向山とも
呼んだようです。
境内の藤棚には藤の花が見事に垂れています。
大きな松が4本あり、大きな松ぼくりが落ちていました。
その後、ドリームランド跡の前のCOCOSで小句会後解散しました。

        長屋王歌碑ある杜に藤の花    常朝

       (添神社の藤)

       (添神社の拝殿)

       (長屋王の歌碑)

       (菅原道真の歌碑)