2011年7月24日日曜日

131.能勢妙見・野間の大欅・長谷の棚田など

「アカシア紀行・俳句」2011年7月23日(土)

 峰雲の湧く大暑の日、避暑をかねて、いつものメンバー7人で、
大阪府北部の能勢妙見山などを訪ねました。

 能勢の妙見山は1603年清和源氏の流れをくむ能勢頼次が帰依した
日蓮宗の日乾上人が、法華経の守護神である妙見菩薩(北極星の化身)を
山上に祀ったのが始まりで、頼次公が開基とされています。

 電車では能勢電鉄の川西能勢口から妙見口駅(約30分)経由でバス
またはケーブルで参詣できます。
我々は車で阪神高速・池田線11号線から423号線を利用しましたが、
11号線では大阪空港の北側でまっすぐ池田市の方へ出てしまいました。
迷ったあげく、171号線、113号線、176号線経由で10時前池田木部の
ローソンで集合後、423号線の妙見口を左折し妙見荘を左折して、
山を登り駐車場に着きました。

 門前は土産物店が1、2軒あるだけですが、神仏習合の大きな鳥居をくぐると
青銅の神馬像が左右に4頭も建っています。
妙見菩薩のための馬だそうで、お腹には能勢家の家紋である
大きな金色の矢作十字があり、足首には青い布を巻いていました。

       (妙見山案内図:クリックで拡大:以下すべて)

       (妙見山の鳥居)

       (妙見山の神馬)


 石段をさけて、右手の参道を行くとうっそうとした檜林で、
夏鶯が鳴いて、京大地震観測所(無人)がありました。
境内には絵馬堂、経堂、待合所、祖師堂などがありますが、
本殿では虫払会の祈祷中で、待合室で休んでいると、
リズミカルな木鉦の音に合わせて早口の数人のお経が聞こえ、
しばらくすると太鼓が聞こえ、それも止むと蜩の声が聞こえました。

 外壁の虫払いの貼紙を見ていたら、お坊さんがきて、虫払いを説明
してくれました。
煩悩の虫を払ってもらうのが目的ですが、もとは、道教の庚申信仰で、
60日ごとの庚申の日の夜、人のお腹から三尸虫(さんしのむし)が
出て天帝にその人の悪事を報告するので、集まって一晩中起きていた、
というようなことがあり、天帝(北極星)である妙見菩薩に、
虫の話を「むし?」するよう頼んだのがはじまりだそうです。
祈祷では霊刀「浪切丸」を頭に当てるそうです。
7月の庚申は4日ですが、虫払は7月22~24日となっています。

 境内にはご神水の浄水堂があり山の清水が龍口から出ています。
また南の石段を上がると山門の奥に大きなガラスの信徒会館が
あり、見晴らしは格別でした。


        木鉦のリズムの中に清水汲む    常朝

        山門に温度計掛く峰の夏      常朝

       (神馬の祠:クリックで拡大:以下すべて)

       (妙見山本殿)

       (妙見山絵馬堂)

       (妙見山浄水堂(ご神水))

       (山門の温度計 24度)


 その後、4号線を野間峠を西へ越えて、野間の「大欅」を訪ねました。
樹齢千年以上と推定される「けやき」は高さ30メートル、幹周り14メートル、
枝張り東西42メートルという巨木です。
何人かの人がベンチに腰掛けて見上げていましたが、中の一人の主婦が
朝アオバズクの子供達が3羽いたが全部飛び立ったと教えてくれました。
木陰も100坪以上あるのですが、陰の南縁に向日葵が咲いています。
近くに「けやき資料館」もあり、木瘤や古墳時代の壺などの他、
保存工事の写真、アオバズクの写真なども掲示されていました。
大欅は昔ここにあった蟻無宮という神社の神木だったそうで、
神社名の由来は紀貫之の歌
「手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそあるけれ」
からきたらしいです。

 昼食の場所を聞くと親切な男性が近くのレストラン「けやき」を
教えてくれ、車を走らせて、開店中を確認してくれました。
そのレストランで昼食をいただき、女将に色々話を聞きました。
8年前開店し、暇をみては畑で玉ねぎワケギなどを作っているとのこと。

        大欅の蔭百坪に蝉時雨       常朝

        向日葵に影届きをり大欅      常朝

       (野間の大欅1)

       (野間の大欅2)


 そのあと、さらに4号線を西へ森上の西の長谷(ながたに)の棚田を訪ねました。
長谷は名の通り、東西1キロ、南北300メートルほどの広大な棚田ですが、
我々は川沿いの道からほぼ中央の道を南へ登り、上から棚田を見ました。
広すぎて全貌は見えませんが、走ってきた道が向いの山すそに白く見え、
広々とした眺めでした。小学生が一人自転車を押して坂を登って来ました。
道端には南瓜の花やノウゼンカズラが咲き、鴨の小屋にマガモやアイガモ
数羽がゲーゲー鳴いていました。

 
        花南瓜棚田見下ろす溝に沿ひ    常朝


 その後、173号線を南へ池田木部へ戻り、高速入口東の
ベビーフェースでかき氷をいただき、小句会後5時半頃解散しました。
店内は音楽が少しうるさい位でしたが、大暑にしては涼しい一日を
過ごせました。

2011年7月7日木曜日

130.東吉野・七滝八壺から日裏

「アカシア紀行・俳句」2011年7月6日(水)

 梅雨晴れ間の最高気温33度の日、涼しさを狙って、
いつもより少ない4人で、奈良・東吉野村の天好園、七滝八壺から
隠れ里のような日裏を訪ねました。

 東吉野の天好園は、国道166の榛原街道を榛原から南下、鷲家から
伊勢街道166号線を東へ4キロの木津(こつ)の松本大橋で左折、3キロほど
北上した「たかすみ温泉」の北側にある料理旅館です。
ここは俳句結社「運河」の人々が吟行・記念会などでよく利用しており、
日野草城、右城暮石、茨木和生などの句碑があります。
また、大山蓮華、ハンカチの木、なんじゃもんじゃの木など珍しい樹や草花が
多く植えられています。
暮石先生の句碑の左の夏椿は白い花がいくつか散っていました。

 我々は10時半頃着きましたが、しばらく渓流の音と青葉に包まれて庭園を
散歩したのち昼食をいただき、涼しい時間を過ごしました。

        夏椿句碑の上より風来たる     常朝

        女将指す大山蓮華終わりしと    常朝

       (天好園:クリックで拡大:以下すべて)

       (右城暮石句碑:鷹舞へり青嶺に隠れ現れて)


 そのあと、前登志夫の「朴の花」の歌碑のある、新木津トンネルの東側から、
右へ入り、山道の221号線を南下して、丹生川上神社中社を訪ね、
茨木和生先生の新句碑「こつぽりの子が衝羽根の實を拾ふ」を拝見しました。
そばには衝羽根の樹と百合のつぼみがありました。
夏祓えの茅の輪が残されていたので、くぐった後、220号線を約6キロ東の
「七滝八壺」を訪ねました。

        夏祓過ぎたる茅の輪くぐりけり   常朝

       (丹生川上神社中社)

       (茨木和生先生句碑:こつぽりの子が衝羽根の實を拾ふ)


 七滝八壺は2006年にも訪ね、ナナフシなどをみたのですが、
何故かアカシア紀行には記入もれでした。

 狭い谷道に駐車して、鉄製の吊り橋を渡るとすぐ7番目の滝のしぶきがかかる
程の瀧壺が見えます。
外人を含む男性3人がランニング姿で滝にきて、あっと言う間に滝道を登り降り
して、谷道を下っていきました。キャンプ場にきている人達のようです。
急な坂を鎖を持って登ると、頂上から4つの滝を見上げることができます。
瀧水が連れてきた山の空気が風となり、瀧壺に立つと風圧を感じるほどでした。
吊橋の下にはお歯黒トンボが数匹ゆっくり飛んでいます。
吊橋の脇には「クマシデ」の木がホップのような白緑の花を提げていました。
今回は木製の橋が鉄製の吊橋になっていたためか、ナナフシも尺取虫も見え
ませんでした。

        滝下に風圧受けてしぶき受く    常朝

        吊橋の下をはなれず川蜻蛉     常朝

       (七滝八壺)

       (七滝八壺の上の滝)


 221号線の谷道を西へ戻って、キャンプ場のそばから、北へ山道を5キロほど
登ると、日裏地区です。
ここは、もとは10軒位の山中の集落ですが、いまは、常時は3軒しか住んで
いないようです。
集落の手前に産土神でしょう「天一神社」が道の右側にあったので、駐車して
参拝、散策しました。
狭い境内に大きな杉が2本あり、小さな社ながら大切に管理されているようです。
このどちらかの杉の下で、昔赤ちゃんが生まれたので、安産の神としても
お参りされているとのことです。
男性一人が山歩きの途中で、神社に立ち寄りすこし話をしました。
こんな神社があるのは知らなかったとのことです。
小さな御手洗は引いた谷水を流しっぱなしで溢れていました。
社殿の手前右手の屋根付きの塀に「ミヤマクワガタ」が一匹いました。
また道路の谷側の崖に70センチくらいのよく肥えた蛇がいて崖の隙間に隠れました。

        御手洗にあふるる谷水蛾の寄れり  常朝

        安産の神の社に蛇肥えて      常朝

       (天一神社:榊にとまる鶏:クリックで拡大:以下すべて)

       (天一神社の大杉)


 集落への道は狭く、やっと小型車が通れるほどの崖道で、行止りの集会所の
庭に駐車させてもらいまいた。
ここは以前は小学校の分校だったようですが、廃校後集会所になったようです。
ガラス戸越しに見ると教室はひとつだけの小さな学校跡で、玄関左に小さな鐘が
掛り、裏には朴の木が青葉を茂らせていました。
砂利を敷いた庭には園芸種らしい菫があちこち咲いています。
桜の木は黒紫の実がついていました。
集落は山のほぼ頂上にありますが、裏側はまだ急な山で、表側も急な谷で、
山々が迫っていました。

        廃校の鐘見てをればほととぎす   常朝

        桜の実苦味は大人の味なると    常朝

       (日裏集会所・旧分校)

       (日裏の廃屋)


しばらく涼しい山の空気を味わってから、下界へ降り、166号線の宇陀の道の駅
「宇陀路大宇陀」でケーキセットなどいただいて5時頃解散しました。
帰り道は梅雨の雨に戻っていました。

2011年6月25日土曜日

129.景行天皇陵から石上神宮・影媛コース

「アカシア紀行・俳句」2011年6月23日(木)

 梅雨の曇予想から晴れた暑い日、いつものメンバー7人で、
奈良県天理市の景行天皇陵から石上神宮・布留の滝などの影媛コースを
訪ねました。

 景行天皇陵は国道169(天理街道)の天理ICの南4キロほどに
ある大きな前方後円の御陵です。景行天皇は崇神・垂仁天皇のあとの天皇で
日本武尊(やまとたけるのみこと)の父上です。
若い頃日本武尊はかなりの乱暴者だったので、東国から西国へ
遠征させられ、三重でなくなり白鳥になったとの伝説です。

 影媛は、武烈天皇が皇太子の頃、今の桜井市の海石榴市(つばいち)で
皇太子に言い寄られ、恋人だった平群の鮪(しび)が抵抗したら、
鮪はたちまち皇太子の兵隊に平城山で殺されました。(歌碑など後述)
 石上から平城山まで影媛が泣きながら歩いた道は今はほぼ北・山の辺の道と
なっています。つまり影媛コースは山の辺の道といえるかも。

 我々が9時半頃景行天皇陵に着いて参拝後、そばの植田の、
豊年えびや目高の子や、鮴(ごり)の子、蝌蚪(オタマジャクシ)
などを見てていたら、たまたま田のオーナーの人が水番にきたので、
色々話を聞きました。

 虫たちが元気なのは農薬をあまり使わないためのようです。
水が十分な時はそばの小川の水を、不足の時は御陵の濠の水を田に
引くそうです。
御陵の拝所を溝が通っていて、南の田へ水を引くのですが、
拝所の北側は荒地で、そのさらに北の小川から水を引くので、
小川の堰で止めても、まだ荒地の水が流れこむようです。
そのせいか、植田からは水があふれていました。
荒地の北側は水口神社ですが、すこし荒れた感じの小さな社で、
平地の水口神社は珍しいとのことです。

        陵を通る溝より田水引く     常朝

        陵の濠に沿ふ川目高ゐて     常朝

        陵の濠にありたる造り滝     常朝

       (景行天皇陵と植田:クリックで拡大:以下すべて)

       (田水の取水口)

       (濠から濠の造り滝)

       (景行天皇陵の濠)

       (景行天皇陵より:右に耳成山、畝傍山、左奥に香具山)



 その後、向いの「まほろば」で昼食をいただき、影媛コースの
出発点の石上神宮に参拝しました。北山の辺の道の一部です。
境内にはきれいな「おんどり」や白い「うこっけい」がうろついて、
木の枝にもとまり、コケコッコーと長い声で鳴いていました。
神鶏だそうで堂々としています。

 拝殿から参拝後、東へ200メートルほどの布留の滝まで歩きました。
滝のすぐ下流に「布留の高橋」と名付けた小さな橋があります。
滝へは布留川の岸の崖を「はしご」で降りないと全貌はみえませんが、
橋から木の葉ごしに滝の一部を見ることができます。

 このあたりには、昔恋人を皇太子に殺された影媛が泣きながら通った橋が
あったのでしょう。
滝への道は狭い農道のようで梅の実が落ちており、対岸には真紅の柘榴の花が
咲いていました。


        おんどりのうろつく斎庭花榊    常朝

        羽抜鶏長鳴く最後声かすれ     常朝

        瀧壺も木の葉に隠れ布留の滝    常朝

       (石上神宮:榊にとまる鶏:クリックで拡大:以下すべて)

       (石上神宮拝殿)

       (布留の滝)


 その後、石上神宮の駐車場に戻り、169号線経由で、
天理ICのすぐ北側の「和邇下(わにした)神社」を訪ねました。
影媛の歌碑を見るためです。
ここはこのあたりの古代の一族和邇氏を祀る神社で、いまは素盞嗚(すさのお)尊
ほかを祀っています。
未舗装の駐車場の左側の参道から石段を30段ほども上がると、小さな境内に、
昭和13年再建の本殿がありました。

 石段下を左に歩くとうっそうとした樹下に「影媛の歌」の石碑があります。
アカシア紀行13.2005年5月21日稿にも記入しましたが、
石碑の左の説明板「影媛あわれ」には次の歌があります。

  石の上 布留を過ぎて、高橋過ぎ、大宅過ぎ、春日を過ぎ、
  小佐保を過ぎ、玉笥(たまけ)には飯(いひ)さへ盛り、
  玉盌(たまもひ)に水さへ盛り、泣きそぼちゆくも影姫あはれ

    (字句の一部省略:原典は日本書紀・武烈天皇の項)

 この歌にある地名の高橋は、さきほど歩いた高橋ではなく、
この神社の土地の昔の地名であった、ともいわれています。

 暑さのせいもあり疲れてきたので、さらに北へつづく影媛コース
(円照寺など)はあきらめ、3時前から天理街道の別所・北大路の
「天平庵」で冷たい飲み物・和菓子をいただき、小句会後解散しました。

        鳥鳴かぬ影媛の歌碑木下闇     常朝

       (和爾下神社本殿)

       (和爾下神社説明板)

       (影媛の歌碑)

       (歌碑の説明板)

2011年6月16日木曜日

128.三輪大社笹ゆり・耳成山から明日香・蛍狩

「アカシア紀行・俳句」2011年6月15日(水)

 梅雨晴れ間の涼しい日、いつものメンバー5人で、奈良県桜井市の
三輪大社の笹百合園、耳成山、蛍狩で飛鳥柏の森などを訪ねました。

 奈良市の率川(いさがわ)神社は「ゆりまつり」
(三枝祭(さいくさまつり):今年6月17日)で有名ですが、
三輪大社の摂社であり、祭に奉納される笹ゆりは、(今年は6月16日)
三輪大社から送られます。
今日は奉納の前日ですが、大社で大切に育てられている笹ゆりを見に行きました。
三輪の笹ゆり園は2ヶ所あり、ひとつは三輪大社祈祷殿の下(西)に、
もうひとつは、北側の狭井神社の西にあります。
我々は午後2時半過ぎ集合、本殿参拝後、2つの笹ゆり園を拝見しました。
どちらのゆり園もすでに奉納用に剪られたのか、百合の数は数十本しか
見えませんが、いずれも淡いピンクの花を優雅につけていました。
 そのあと、久延彦神社を参拝しました。ここは智慧の神様で、
フクロウ形の受験生の絵馬が沢山かけられていました。
神社下の社前の民家には、蛍袋など多くの花が数えられない程の
植木鉢に咲いていました。小さな植物園のようで、当主の話では、
名前の知らない花もあるとのこと。

        笹百合のうつむき聞くや谷の音    常朝

       (三輪大社:クリックで拡大:以下すべて)

       (ささゆり園)

       (狭井神社)

       (狭井神社鎮女池)

       (久延彦神社参道)


 その後、橿原市の耳成山に立ち寄りました。
時間がなかったので頂上付近の山口神社は参拝せず、
南側の池のよく整備された公園で菱や水鳥を見ました。
菱の白い花がきれいでした。

        蔓引きて見せてもらひし菱の花    常朝

        菱の葉を些も沈めず水馬       常朝

       (耳成山)

       (耳成山の池)


 橿原観光ホテルで5時半頃から夕食をいただき、
この時期蛍が飛ぶとのことで、明日香に行きました。

 7時ころ勧請縄のある飛鳥川・稲渕に着きました。
稲渕の勧請縄の男縄から15号線を100メートル程上流へ進むと、
左に、飛び石の案内標が立っていたので、その坂を左に降りて
マタタビの花をくぐっていくと、飛び石がありました。
飛び石は万葉時代からある地元の簡易な橋です。
梅雨出水で飛び石は殆ど水をかぶっています。
しばらく待っていましたが、まだ早すぎたのか蛍が見えないので、
稲淵に戻り、車を置いて、旧道を100メートル程上流へ歩き、
別の飛び石案内標から川岸に降りました。
飛び石のすぐ下流の板橋で目をこらしていると、
すぐそばの岸の草むらで蛍が光りはじめ、続いて2匹、3匹、
4匹と光って、数匹が飛び始めました。
草の蛍を1匹手に取っても飛ばずにズボンなどに止まりました。
水音にまぎれながらも、河鹿の声も聞こえました。

        飛び石を薄く覆ひて梅雨出水     常朝

        火を消して飛ぶとき速き蛍かな    常朝

       (飛び石案内標)

       (飛び石)

       (飛び石そばの板橋)


 そのうち、15号線に駐車した車から、数人が板橋まで、降りてきて、
いっしょに蛍を鑑賞しました。
最初の飛び石の位置関係がわからなかったので、車で15号線へ戻り、
確認しましたが、最初のは、あとの飛び石より数十メートル下流にあり、
蛍の巣のありそうな岸辺は、最初のより少し上流だったようです。
闇が濃くなる飛鳥川の夜景も楽しんで9時頃現地解散しました。

2011年6月9日木曜日

127.雲ケ畑・惟喬神社から志明院、菩提の滝

「アカシア紀行・俳句」2011年6月8日(水)

 例年より早い梅雨の晴れ間の日、いつものメンバー6人で、
京都・雲ケ畑の惟喬(これたか)神社から志明院、菩提の滝などを訪ねました。

 雲ケ畑は洛北・賀茂川の源流にある山あいの町です。
京都・堀川通から賀茂川沿いに府道38号・61号線を北上して、
雲ケ畑の高雲寺下に着いたのは朝10時すぎでした。
高雲寺は惟喬親王が開いたとされる禅寺です。
惟喬親王は平安時代前期・文徳天皇の第一皇子でしたが、
母が藤原家出身でなかったので、皇位を継がず洛北に隠棲・
出家されたとのこと。

 高雲寺は今は無住の禅寺ですが、道路から50段ほどの急な
石段の上なので、昇るのはあきらめました。
寺の下の雲の畑小学校は、6月4日NHKの路線バスの旅番組で
放映されたように全学児童4人で、耐震工事のためか、校舎に
金網が張ってありました。
北側の中学校は3月に休校になったようです。

 学校の金網を見てから約1.5キロ北の惟喬神社を訪ねました。 
惟喬神社は、雲ケ畑北部のバス停・岩屋橋の洛雲荘を左折して
すぐの狭い道の北側にある小さな神社で、26才でなくなった
親王を祀る神社です。
惟喬親王が大事にしていた雌鶏が死に、村の人が憐れんで
祀ったので雌鳥(めとり)神社とも云われたそうです。
今も本殿の扁額には「雌宮」とあります。

 向いのおうちの道路際に都忘れのような花が咲いていたので、
庭仕事の老主婦に聞くと、深山嫁菜とのことでした。

        鶏愛でし皇子の社に照る青葉     常朝

       (惟喬神社:クリックで拡大:以下すべて)

       (惟喬神社の案内板)

       (本殿と扁額)


 そのあと、狭い道を西へ約1キロ登って岩谷不動の志明院を
訪ねました。
この寺は、役行者が開き、弘法大師が再興した真言宗の寺ですが、
大師が修行したという大きな岩窟の中に清水が湧いており、
それが賀茂川の源流とされたようです。

 入山料300円を納めて、お寺の大黒さんから境内の説明を受け、
仁王門から本殿へ登り、さらに岩を掘った階段などを登って、
5メートル四方位の舞台のついた岩窟(岩屋)に行きました。
高さ5メートルほどの大岩の下が深くえぐられて暗い岩窟に
なっており、岩のくぼみに清水が溜まっていました。
置かれた柄杓で賀茂の源流の清水をいただきました。
大岩には太さ3センチほどの藤蔓が食い込んでいました。

 本堂(不動堂)のそばには九輪草が、参道には山芍薬が咲いて、
鵤(イカル)が鳴いていました。雪の下はつぼみでした。

        空海の岩窟暗く滴れり        常朝

        藤蔓の食ひ込む岩よ滴れり     常朝

        九輪草賀茂源流の岩の下      常朝

       (志明院山門:クリックで拡大:以下すべて)

       (志明院案内板)

       (山芍薬)


 預けていたカメラを返してもらい、山門などを撮影してお寺を辞し、
岩屋橋に戻り、さらに上流2、3キロの舗装道路の行き止まりまで移動、
地道の林道沿いの源流の谷を見ながら弁当をいただきました。

       (舗装道の行止りの谷)

       (紅空木)


 紅空木(べにうつぎ)やピンクのアカシアなどを見ながら
岩屋橋から約1キロ南を右折、持越峠を越えて菩提の滝に行きました。
峠道の左側に鹿がいましたが、車が近づくと草むらに逃げました。

 峠を降りて162号線(周山街道)に入り、すぐ左の道から
中川町を南下、約1キロで左の菩提道に入り狭い谷道を南東へ
約1.2キロ進み、菩提の滝まで行きました。
途中の北山杉の山々は間伐材が置かれたりしていますが、
割合管理が行き届いているようでした。

 菩提の滝は菩提道の大岩の切通しの南側にあり、切通しの道からは
滝頭(滝の上)が見えます。
道際の石段を20-30段降りると、高さ10メートル位の滝が
狭い滝壺に落ちて、大きな音を立てていました。
周囲は岩ばかりなのでよく響くのでしょう。
崖には「こあじさい」が咲いて、左の上方には不動像があり、
そのあたりで虫柱がたっていました。

        親王の谷にひそかに紅空木    常朝

        滝不動の前を動かず虫柱     常朝

       (菩提の滝)

       (菩提の滝説明板)


 その後162号線を南下、高山寺前を通って京都に戻り、
丸太町通りから河原町通りの市役所前の京都ホテルオークラB2の
ロリーヴォ・フェリーチェで小句会後5時頃解散しました。