2008年8月30日土曜日

68.奈良・なべくら渓と神野山(こうのやま)など

「アカシア紀行・俳句」2008年8月29日(金)


 8月末のゲリラ豪雨の合い間の日、妻、義兄姉らと奈良・山添村の
鍋倉(なべくら)渓、めえめえ牧場、神野山頂、氷室神社を訪ねました。

 鍋倉渓は、名阪国道・神野口ICの北西約3キロの神野山(こうのやま)の
ふもとにある巨岩ばかりの渓谷です。
我々は奈良から車で行きましたが約50分で鍋倉渓の下の駐車場に着きました。
駐車場には10数台のスペースがありますが、この日は我々の車だけでした。

 案内板によると、鍋倉渓は神野山の角閃班れい岩という火成岩が侵蝕に
耐えて残った渓谷だそうです。
伊賀の天狗と神野山の天狗が岩をけんかで投げ合ったという言い伝えも
あるようです。

 岩の色は黒っぽく、このために鍋底の黒色ということから、なべくらという
名ができたらしいとのこと。
数百メートルの渓谷に木道・木階段があり百メートルほど登りました。
途中、岩の間から仙人草、ひよどり花(つぼみ)、桔梗、へくそかずら
などの花が咲いています。ときおり下から涼しい風が吹いてきました。

 その後、同じ神野山のふもとの「めえめえ牧場」へ移動、羊毛館に駐車し
40~50頭いる羊の牧場を見学しました。
顔と足の黒い種は「サフォーク」、全身白い種は「コリデール」とのこと。
子羊は12月に生まれ、春に羊毛を刈るそうです。
羊たちは人なつっこく、我々に寄ってきます。
羊たちに羊せんべいをあげ上の牧場区画を見たのち、神野山頂にいきました。
牧場は10以上の区画に柵で分けられ、牧草を育てるため順に休ませるようです。

 頂上へは羊毛館からの道では行けず、一旦ふもとへ下りて塩瀬地蔵の
西の道から狭い道を登りました。
頂上には展望台があり、すこし霧と雲で包まれた景色が360度見えます。
また阿波野青畝の句碑にも霧が流れていました。
こと座の星などを地上に映したという、3つの大岩(王塚、八畳岩、天狗岩)
へは今回行きませんでした。

 のち、名阪国道「針」の道の駅で昼食後、雨の氷室神社を参拝し、
奈良で小句会後5時頃解散しました。


         仙人草天狗投げたる岩の谷      常朝     
          
         伏流の岩間に一花花桔梗       常朝

         山頂のつつじの句碑に霧流る     常朝   

        (鍋倉渓(なべくらけい))

        (めえめえ牧場)

        (神野山頂の青畝句碑)
         
        (写真はすべてクリックすると拡大します)

2008年8月23日土曜日

67.京都・清閑寺

「アカシア紀行・俳句」2008年8月9日(土)


 暦の上では秋といってもまだまだ暑い日、句会の諸先輩らと京都東の
清閑寺を訪ねました。

 清閑寺は、お寺からいただいた伝記によると、
延暦21年(802年)紹継法師による創設で今は真言宗智山派とのこと。
この地は、東海道から京の五条方面へ入る峠にあり、「歌の中山」と
よばれているそうです。
江戸方面からきた人が京を見る最初の感動の地でした。
また土が良く清水焼の発祥の地だそうで、石碑が立っています。
さらに、平家物語にある小督(こごう)の局で有名な寺で、幕末には
西郷隆盛と月照が謀議した寺とのことです。
小督の局は高倉天皇に愛されましたが、中宮(建礼門院徳子)の父であった
平清盛の命で、御所からこの寺に追い出され剃髪しました。
高倉天皇の遺言で、小督の局の寺に御陵が作られたとのことです。

 ここへは、清水寺から南へ徒歩でも来られますが、
我々は京都駅からタクシーに合い乗りしてきました。
(京都駅の東約3キロ、国道1号線のガードをくぐります)
駐車場の上は高倉天皇、六条天皇の御陵があり、蝉が鳴いていました。
御陵の前の石段を登ると清閑寺の山門があり、
石段や境内には道おしえ(はんみょう)が数匹いました。

 我々が入山するとお住職が蚊取り線香を庭に出してくれました。
山門を入って左の鐘楼の前に、西郷隆盛月照謀議旧跡の石標があります。
境内から西の谷の合間に京都タワーが見えます。
見晴らしの場所に大きな岩があり、要石(かなめいし)と呼ばれています。
これは京都を望んだ扇状の空の要の部分に石があるからだそうです。
またこの石に祈ると願い事がかなうといわれています。
そこの大桜にこげら(小啄木鳥)がきていました。

本堂右の庫裏の縁ではクーラーをかけて犬があごを足に載せて寝ていました。 
その後中京区六角麩屋町の「三木半」で句会、夕食後解散しました。


         西郷の謀議の寺や秋暑し         常朝     
          
         足にあご載せて犬寝る夏の寺       常朝

        (清閑寺山門)

(西郷月照謀議旧跡)

        (小督の局像)

66.高野山

「アカシア紀行・俳句」2008年8月7日(木)


 立秋の日、妻、義兄姉らと和歌山の高野山に参拝しました。

 高野山は、弘法大師が平安時代の818年(弘仁7年)に真言密教の道場として
開かれ、1592年秀吉が本山・金剛峰寺を建立した、海抜800メートルの山中の
仏教の聖地です。
電車では、南海高野線の極楽橋終点からケーブルカーで高野山駅にいき、
タクシーあるいはバスで女人堂あるいは大門前までがよいでしょう。
我々は、車で紀ノ川沿いの国道24号の橋本(8時頃)から九度山町に入り、
370号線で花坂を経由して480号線で大門から入りました。
橋本から約1時間かかりました。
4つある無料の駐車場のうち、もっとも西の金堂前の駐車場に車をとめ、
まず金堂に参拝しました。

 金堂では約30人の僧侶が、今日から始まった不断経を唱えていました。
中央の祭壇の周囲を何度も回りながら声明を唱えて10時ころ終りました。
その後、大塔から御影堂、孔雀堂などを拝観後東の金剛峰寺まで歩き、
本堂の切子灯篭を見ました。
本堂前では、愛知から「お盆の迎え火」をいただくためにバスできたという、
5、6人の人達に会いました。
中の若い女性は首から迎え火の灯篭を胸にかけて抱いていました。
先導の男の人は長い竿先に御幣のような飾りをつけていました。
本堂の中では、新別殿、雌雄の竜の石庭、秀次自刃の間などを拝観し、
厨房では三つもある七斗焚きの釜などを拝見しました。

 蓮華院の南向いのレストランで昼食後、車で中の院駐車場へ移動し、
奥の院を参拝しました。
ここから1キロ以上の参道の両側は、大杉林の中に大名家の墓など
著名人のお墓が並んで、芭蕉の句碑などもありました。
静かな墓所では蝉の「かなかな」(ひぐらし)が鳴いていました。
奥の院では弘法大師御廟、灯篭堂などを参拝し、みろく石に挑戦して
駐車場へもどり、そこの菓子・レストラン「はちよう」でかき氷などを
いただき、3時半ころ胡麻豆腐を買いました。
高野の胡麻豆腐店の隣は昔なつかしい「金物屋」でした。
そのあと、高野を下りて栄山寺のレストラン「吉野川」で小句会後、
解散しました。
下界の暑さを忘れる立秋の1日でした。


         不断経始まる高野秋立てり      常朝 
   
          
         石庭は雌雄の竜よ蝉時雨       常朝


         かなかなの鳴きて高野の静けさよ   常朝



        (金剛峰寺本堂と切子灯篭)
 
        (迎え火を抱く人)

        (奥の院 芭蕉句碑)

        (奥の院 流水潅頂)

2008年7月15日火曜日

65.華岡青洲の家・粉河寺から根来寺

「アカシア紀行・俳句」2008年6月30日(月)


 6月最後の曇りの日、妻、義兄姉らと和歌山・紀ノ川市西野山の
華岡青洲の家、粉河寺から岩出市の根来寺を訪ねました。
華岡青洲は江戸時代世界で始めて麻酔薬を実用化した高名な医者ですが、
その家は24号線高野口の南、小島交差点の北約700メートルほどにあります。
今はフラワーヒル(華岡の直訳?)公園として記念館(ミュージアム)もあり、
その近くに家も大部分が復元されて春林軒の名で保存されています。
麻酔の薬草の四種の一つ「曼陀羅華(まんだらげ)」も育てられています。
公園内の直売店では、地元の野菜のほか「すもも」も売っていました。
近くにある青洲のお墓もお参りしました。

 ミュ-ジアム内のバイキングレストランで昼食をいただいた後、
粉河寺を訪ねました。
粉河寺は奈良時代の猟師大伴孔子古(おおとものくじこ)が童行者の彫った
千手観音像を安置して創建し、鎌倉時代の盛時は寺領4万石だったとのことです。
境内に入ると立派な蓮葉型の御手洗の堂があり、杓に水を汲むとすぐに
蚊が寄ってきました。
立派な本堂への崖地を石庭として、大きな蘇鉄(そてつ)が植えられています。
庭師に聞くと、祭礼(お練り)まで4日しかなく一人なので忙しい。
蘇鉄も剪定しすぎると新葉が出なくなるので、芽がでても剪定しない株もある
とのこと。

 大門を撮影して、さらに南の根来寺を訪ねました。
根来寺は平安時代高野山の高僧覚鑁(かくばん)が建て、のちに高野山の大伝法
院を移し、室町時代には寺領70万石、僧兵1万余の大寺となり、根来寺僧が種子
島から持ち帰った鉄砲伝来後は強力な鉄砲軍団となり、のちに雑賀衆とともに
秀吉の軍勢に焼き討ちされたとのことです。
そのとき残った太子堂や大塔には弾痕が残っています。
紀州徳川家の御殿の一部を移築した名草御殿や美しい庭も拝見しました。
その後24号線を北上し、栄山寺のレストラン「吉野川」で小句会のあと
解散しました。


         青洲の里に李の実の青し       常朝     
          
         御手洗の杓を持つなり蚊の寄り来   常朝

         弾痕は顔の高さよ青葉照る      常朝


        (華岡青洲の里ミュージアム)
        (曼陀羅華(まんだらげ))

        (粉河寺の石庭)

        (根来寺の庭)

64.北京・長城から天壇、故宮博物院など

「アカシア紀行・俳句」2008年6月21日(土)~24日(火)


 梅雨の晴間をぬって、妻、次男一家4人、次男の妻の母上と北京に
4日間の旅をしました。
旅程は子供2人の次男夫婦の希望をいれて、北京在住の長男夫婦が
実にきめ細かく作ってくれました。
総勢は日本から7人、北京一家の3人、それに2日目からは、
長男がいつも通勤でお世話になっている運転手さんとその知り合いの
運転手さん合計12人の団体旅行になりました。

 初日は、現地時間16時に着いた北京空港からHISのリムジンで送られた
ホテルに長男一家が迎えにきてくれて近くの四得公園にいきました。
子供たち3人を遊ばせるのが主な目的ですが、大きなゴム製の動物遊具、
光線銃つきの小列車、ゴムボールに乗る池など珍しいものがありました。
夜は近くの紫金府で初めて本格的な中華料理をいただきました。
このとき長男夫婦の子(男6才)が母親から頼まれて、店員の女性に、
中国語で「果物がありますか」と聞いてくれ、皆が杏(あんず)を
いただくことができました。
この子は北京の外国人向けの幼稚園で英語と中国語を習いました。
(というか、日本語が使えない幼稚園でした)

 2日目は早朝から2台の車で北京市の北方、慕田峪(ぼでんこく、
Mutianyu)の長城に行きました。
7時半にホテルを出て9時前には長城下につくと、土産物店が20軒以上
あって熱心に客を呼んでいます。
我々は、リフトで長城へ登り、11時ころまで長城の上を歩いたり、眼下の
山々を眺めました。リフトで登る山にも栗の花が咲いて、桃の木には青い実が
なっていました。
下りはすべり台で滑り降りました。
ひとりずつ小さな船状の椅子に坐り、中央にあるブレーキ棒を倒すと進み、
引くとブレーキがかかる仕掛けです。約5分程で下に着きましたが、
スリルがありなかなか楽しい乗り物でした。
少し南の魚師傳で昼食後天壇を歩き、秀水街で買物をしました。
天壇は明、清朝の皇帝が天にお祈りをする場所だったようで、立派な円形の
建物がいくつもあります。出口の北門ではお年寄りが数人、琴や胡弓などの
楽器を演奏して楽しんでいました。
夕食は東三環長虹橋東南のレストラン「大董(だいとう)」での北京ダック
でしたが、そこのシェフが我々を調理場に案内して大きな炉でダックを焼いて
いる所を見せてくれ、また部屋で目の前で調理をしてくれました。

 3日目は天安門から故宮博物院を歩きました。
4歳とほぼ2歳の子供が歩きつかれたので交替で抱いて歩いたのも
良い思い出です。
京味面大王でジャージャーメンをいただいたあと、胡同(フートン)という
古い町並みを5台の人力三輪車で約1時間かけて回りました。
先頭の一台は案内役の女性で日本語で説明してくれました。
途中四合院と呼ぶ民家の中も見せてもらい、北京の人々の生活の一端を
のぞきました。
のち長男一家の家(マンション20階)を訪ね、北京オリンピックの
鳥の巣スタジアムを見たあと、ショーつきのレストラン大宅門で夕食を
いただき、ホテルまで送ってもらい、一家と運転手さんと別れました。
4日目は6時半のリムジンで北京空港に行き、13時関西空港に着きました。
活気あふれる中国の首都を実感できた旅でした。


         眼前に長城迫り栗の花      常朝

         燕飛ぶ故宮の庭の人の波     常朝

        (慕田峪の長城)
        (天壇の龍の石段)
        (故宮博物院・大和殿)

        (胡同の街)

        (鳥の巣スタジアム)

63.奈良・北山十八間戸から東大寺・大仏殿裏の蛍狩

「アカシア紀行・俳句」2008年6月12日(木)


 6月の晴れた日の夕方、妻、妻の友人、義兄姉らと奈良東大寺・大仏殿裏の
蛍狩に行きました。
集まった夕方7時ころはまだ明るかったので、暗くなるまでの数十分、
鎌倉・江戸時代の療養所跡である奈良・北山十八間戸に行きました。
北山十八間戸は、鎌倉時代の僧忍性がハンセン氏病の患者を救うため
般若寺の北東に建て、のち戦火で焼かれたので江戸時代に今の場所に移され、
後に復元されたもので、奈良市の北、旧奈良坂沿いの般若寺の南にあります。
名のとおり十八間の長い平屋ですが瓦屋根がきれいでした。

その後、東大寺大仏殿の北側の小川のほとりに行きました。
すでに薄闇に10人くらいの人がいて、蛍が数疋ゆっくりと飛んでいました。
見ていると蛍の数が増えてきて、20~30匹はいたでしょうか。
蛍は源氏蛍の仲間でやや大きいので大仏蛍と呼ばれています。
ある集団は同じ周期で蛍火を点滅させていました。
二月堂の湯屋の軒にも1、2疋が飛んでいきました。
蛍を見ていたら東大寺の太郎鐘がごーーんと響きました。
一人の子が一匹の蛍を手の平に置いて見ていたら急に飛んで逃げたので
まわりの子供達が大歓声をあげました。
その夜旧ドリームランド前のレストランで小句会の後解散しました。


         大仏蛍呼吸合わせて火を灯す    常朝

         掌を透かす如くに蛍かな      常朝

        (北山十八間戸)

2008年7月14日月曜日

62.奈良・藤岡家住宅と広橋梅林・廃校

「アカシア紀行・俳句」2008年6月9日(月)


 6月の雨模様の日、妻、義兄姉らと5人で奈良・五條市小和町の豚牧場と
藤岡家住宅を見学後、奈良・下市町の広橋梅林を訪ねました。
豚牧場では期待の生きた豚は見られず、レストハウス「ばあく」でソーセージや
ハムを買っただけでした。
藤岡家は五條市近内町、JR北宇智駅の西約1キロにある、江戸時代天保3年
以来の民家で俳人故藤岡玉骨氏のご実家です。
昔庄屋だった大邸宅の復元と公開をすすめているNGO「うちのの館」の
若い職員の人が、親切に我々に米倉や玉骨さんゆかりの俳句の短冊などを
見せてくれました。
復元工事がほぼ終わり、11月から公開されるとのことでした。

五條市栄山寺近くのレストラン「吉野川」で昼食後、広橋梅林に行きました。
広橋梅林は近鉄吉野線・下市口駅から南へ約8キロほどの下市町広橋地区の
山地にある梅林です。
我々は車で五條市から吉野川沿いに下市町に入りましたが、
車では通常橿原神宮方面から169号線を南下、吉野川(紀ノ川)の
千石橋を渡ってさらに7キロほど黒滝方面へ南下します。

広橋地区の坂の途中に選果場があり、一人おられた梅農家の人に尋ねると、
地区の共同選果場でなく、その農家専用とのことでした。
梅干の箱が山と積まれていましたが、殆どが3年間漬けるものとのことで、
1箱6千円とのこと。われわれは見せてもらうだけにしました。

のち、頂上に近い広橋小学校の廃校跡にいきました。
平成11年に下市小学校に合併されましたが校舎や運動場はほぼ残っています。
小さな校舎は2階建てですが、すぐ前の崖の上が運動場で、運動場からの坂に
橋がかけられ、校舎の2階につながっていました。
運動場に登ると、卒業記念の長さ2メートルほどの絵が掛けられており、
校庭から見られる山々の絵が、山名入りで描かれていました。
下市町広橋出身の歌人「前登志夫」も昔この小学校で学んだことでしょう。
橋の崖側にはうつぎ(空木)の白い花が咲いていました。
広橋のお葉付き銀杏を見たのち、梅林に行き青梅を見ましたが、
道端に一羽の雉がいました。今年は梅不作で実が少ないそうです。
橿原ロイヤルホテルで小句会後解散しました。
盛り沢山な一日でしたが俳句の方はもう一つでした。


         青梅や庄屋に見たる句短冊      常朝
          
         校庭は崖の上なり囀れり       常朝

         校庭より二階への橋山空木      常朝


        (藤岡家住宅)
        (広橋小学校跡)
        (卒業記念の絵)