2012年5月16日水曜日

150.当麻寺・二十五菩薩練り供養会式

「アカシア紀行・俳句」 2012年5月14日(月)

    5月のさわやかな月曜日、義兄夫妻のお誘いもあって、
奈良・当麻寺の二十五菩薩練り供養会式を約30年(以上)ぶりに
拝観しました。

    練供養会式は、当麻寺で修業され、 当麻曼荼羅を編まれたと伝えられる、
藤原不比等のひ孫にあたる中将姫を、阿弥陀如来と二十五菩薩が西方浄土へ
お迎えする様子を再現する練り供養です。

    我々が当麻寺へ着いた午後2時頃はすでに多くの人が、当麻寺の本堂から
約120メートル東の娑婆堂まで、特設された来迎道の周囲に集まって、
バスで到着したいくつかの団体が、金堂などを拝観していました。
金堂の軒に燕の巣があるらしく燕が数羽忙しく飛び交っていました。

                (当麻寺本堂: クリックで拡大、以下同じ)
                (当麻寺金堂)      
                (来迎道)
                (中将姫の像)

    練り供養は、浄土から現世へ里帰りした中将姫を、稚児行列や、僧侶の行列に
先導された、阿弥陀如来や二十五菩薩が、本堂(曼荼羅堂)から、
娑婆堂までお迎えにこられ、その後、中将姫のお輿を最後に、
同じ行列が、娑婆堂から本堂(浄土)へと迎える供養です。

    我々は、中間の講堂の前で、石段などに腰掛けてお練りを待ちました。
3時半頃、本堂の回廊にセント君と葛城市のゆるキャラ「蓮花ちゃん」が
現れました。中将姫とどういう関係があるかはわかりませんが、
奈良のイベントとしての賛助出演かもしれません。

4時前、稚児に先導された中将姫のお輿が娑婆堂へ進みました。
一旦現世へ戻られたのでしょう。

                (中将姫のお輿)    

    そのあと、娑婆堂から、僧侶の行列が本堂へ進み、
4時過ぎ、雅楽隊の「越天楽」が境内を流れるなか、本堂から
稚児行列、雅楽の楽隊、僧侶の行列があり、それぞれが付き添いの人に
手を引かれて、お面をかむった二十五菩薩が娑婆堂までゆっくり進みました。
最後に、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来が進みます。

    観音菩薩は左右にゆっくり足を進めるたびに、中将姫を載せる蓮座
(お盆状の台)を両手で左、右へと持ち上げます。
観音様の優雅で力強い歩みです。
勢至菩薩は、同じく両手を合掌しながら左右に上げながらゆっくり進みます。
阿弥陀如来は頂上に竜頭と天蓋がついた長い杖を持ちながら進みました。

                (稚児行列と雅楽隊)
                (僧侶の行列)

                (二十五菩薩)
                (琴をもつ菩薩)
                (観音菩薩)
                (勢至菩薩)
               (阿弥陀如来)


   そのあと、しばらくして、娑婆堂から、逆方向の行列が始まりました。
浄土への帰りは、仏になった中将姫を蓮座に載せて、観音菩薩が
左右に蓮座を捧げ上げながら、先頭を進み、続いて、勢至菩薩、
阿弥陀如来、二十五菩薩、最後に稚児二人に先導されたお輿が進み、
ゆっくりと本堂に入りました。
帰りは菩薩も緊張がとけたのでしょう、一人の菩薩が、
女性の参拝客の振る手に答えて、右手を振っていました。

                その空を燕飛び交ひ練供養     常朝

                うららかや菩薩手を振る練供養  常朝

                練供養消えゆく御堂に春日落つ  常朝

                (仏・中将姫を運ぶ観音菩薩)

    夕日は雲の上にあって見えませんが、5時過ぎ西方浄土への旅が無事に
終りました。きらびやかで荘厳な儀式で、さすが1000年以上続いた法要だと感動しました。


2012年5月13日日曜日

149.室池から四條畷神社、野崎観音、飯盛城趾

「アカシア紀行・俳句」2012年5月12日(土)

  5月の若葉風の土曜日、いつものメンバー6人で、大阪四條畷市の
室池園地から四條畷神社、野崎観音などを訪ねました。

  奈良方面から室池へは、阪奈道路を西へ、生駒登山口を右折北上して
数キロの園地の駐車場が基点です。
室池は、昭和62年頃、大阪府民の憩いの場「むろいけ園地」として
整備された、大池4つもある東西約1キロの森林公園です。
昔は氷室があったそうでおそらく名前の由来でしょう。

  駐車場から南へ400メートルほど森の中を歩くと、
谷に100メートル以上の木道がある湿生植物園があります。
花菖蒲などはまだでしたが、数本の白と一本の紫のカキツバタが
咲き始めていました。
著莪の花やツツジ、藤のほか、近くでは見られない、チョウジソウ、
クリンソウ、紫サギゴケなどが見られ、鶯とアカガエルが美声を
競っていました。

  園路をおおう枝から緑の尺取虫が細糸でぶら下がっていたので、
指に這わせてもっと早く歩けとけしかけました。
園路の入口付近では子育て中でしょうか、鴉の群が騒いでいました。

  入口の園地案内所に職員の方が戻っていたので、
高い声の蛙は「アカガエル」、トキワソウのような紫の花の名は
「紫サギゴケ」、大きなシャモジのような葉は水芭蕉と教えてもらいました。

                 鳥声と聞けば蛙よ湿生園      常朝

                尺取に歩け歩けと谷の道      常朝

                (室池の木道:クリックすると拡大:以下すべて)

                 (紫サギゴケ)

  その後、163号線・東中野交差点の「さと」で昼食をいただいた後、
170号線を南下、四條畷神社を訪ねました。

  四條畷神社は南朝の忠臣楠木正成の息子・正行公ほかを祀るため、
最後に高師直軍と戦った飯盛山(城)の麓に明治初年に建てられた
神社です。吉野・如意輪寺の扉に矢尻で彫られた、

     「帰らじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞ留むる」

の歌を残して22才で戦死しました。

  境内の墓(五輪の塔)のそばにその時植えられたクスノキが、
今は巨樹となり、若葉を風にきらめかせていました。

                楠公の杜にかがやき楠若葉     常朝

                 (四條畷神社)

                 (桜井の別れ:楠木正成と正行公)


                 (五輪の塔と楠巨樹)

  さらに170号線を南下して、野崎観音にお参りしました。
野崎観音(慈眼寺)は、昭和の始め、東海林太郎の歌、
「野崎参りは屋形船でまいろ・・・」と、お染久松の悲恋物語で有名な
大東市の寺です。駐車場は参道の南100メートル位を左折して登ります。
電車ではJR片町線「野崎駅」から東へ600メートルほどです。

  石段を登ると、中国風の山門があり、立ち葵紋の幕の張られた本堂があり、
右手に中興の祖といわれる「江口の君」のお堂があります。
慈眼寺(野崎観音)は、奈良時代行基が千手観音を安置したのが
始まりらしいですが、戦乱で荒れていたのを平安時代・江口の君や、
江戸初期・青厳和尚が中興したそうです。

  歌にある「どこを向いても菜の花盛り・・」ののどかな風景は
近くにはなく、屋形船が参拝者を運んだ天神橋からの川は今は
ありませんが、飯盛山の深い緑は今もお寺に迫っています。
本堂の左手に松瀬青々に師事した西村白雲郷の銅像があります。

  境内の東側の池のそばには「お染久松」の塚があり、
観音会館の壁には近松半二の浄瑠璃「お染久松」の新版歌祭文の
絵巻が長い額に掛けられていました。
歌祭文によるとお染は観音様詣りといって久松と逢ったそうです。
結局身分の違う二人は悲恋に終り、久松は閉じ込められた蔵の中、
お染は蔵の外で自害したそうです。

                     お染久松塚に寄り来し黒揚羽   常朝

                      (野崎観音(慈眼寺))

                      (お染久松の塚)

                    (お染久松の歌祭文)

  そのあと、阪奈道路を東へ頂上付近の「楠公寺」の看板で左折して、
約1キロ、飯盛山の山中の楠公寺を訪ねました。
ここは、昭和25年妙春日祥法尼が開基した日蓮宗の寺で、
楠木正行公をお祀りし、祈祷本尊は鬼子母神とのことですが、
本堂は障子で閉じられています。
しばらく境内にいると、四條畷高校の男女の生徒達が、
軽々と(?)境内を抜けて飯盛山頂上への山道を駈けて行きました。

  寺から約200メートルの車巾一杯の山道を登ると、
NHKとEASY851のFMアンテナ塔があり、数台のスペースがあったので
駐車し、東側の山頂まで急坂をロープなどを持って登りました。

  山頂は飯盛山城跡で、楠正行公の若い顔の銅像などがあり、
老鶯が一羽、高さ4メートル位の木に隠れて鳴いていました。
そのうち鶯の枝がわかり身体をふるわせて鳴いている姿を見ました。
また山頂からは青葉の枝の間からはるかに明石大橋が見えました。
狭い山頂の周囲の草原に「ミヤマナルコユリ」が小さな蕾を
鈴のようにいくつかつけていました。

                老鶯は隠れ上手よ歌上手      常朝

                小楠公の像初々し青葉風      常朝


               (楠公寺)

              (飯盛城址案内図)

              (楠木正行像)

              (飯盛山から霞む明石大橋:クリックすれば拡大)

その後、奈良の自宅で小句会後解散しました。
さわやかな5月の天気に恵まれた一日でした。

2012年4月24日火曜日

148.大安万呂墓から都祁氷室神社八咫烏神社など

「アカシア紀行・俳句」2012年4月22日(日)

 4月下旬の穀雨の日曜日、いつものメンバー7人で、奈良・大安万呂墓から
都祁氷室神社、八咫烏(やたがらす)神社などに吟行しました。

 奈良方面から大安万呂墓へは、奈良教育大学南の東紀寺3丁目交差点を東へ、
県道80号線を約8キロの田原交差点を左折、約600メートル北の橋を越えて
左折、約400メートルの茶畑が目印で、道路右側に案内板があります。

 我々は田原交差点を北上し光仁天皇陵まで行き過ぎたので西へ戻りました。
茶畑についたのは10時前、少し風もある雨の中を、茶畑の中の石畳の急坂を
30メートルほど登りました。
墓は大きな桜の木のそばにあり、直径4メートル程の円形に石を2段並べた
縁がありました。

 昔訪ねたときは、茶畑の中の農道を登りましたが、
今は丁寧に整備されて参拝しやすくなりました。
お墓から見える桜や山桜はまだ見事な満開でした。
先日の新聞では古事記編纂1300年記念に安万呂の分骨を命日の7月6日に
田原本市・多神社の東1キロにある古墳に納骨するそうです。

        安万呂の墓を鎮めて花の雨    常朝

        茶畑の中によき墓穀雨かな    常朝

        (安万呂の墓:クリックすると拡大:以下すべて)

        (安万呂の墓説明板)

        (安万呂の墓からの景色)


 茶畑を降りて、47号線一台峠を越えて一旦369号線に入り、
再び47号線を西へ、天理市福住の都祁・氷室神社を訪ねました。
いつ訪ねても神々しい杜と神社で、神池(茅萩池)には雨足が水面に
はね返り暗い杜の中に光っています。
緋鯉達も春の雨を喜んでいるようでした。
また、池の近くにはミヤマカタバミが蕾をつけており、
本殿の鎖樋からは春雨の水があふれています。
神社北側の棚田では蛙が鳴き、電柵のある土手には土筆が
いっぱい生えていました。

        雨足の光つてゐたる春の池    常朝

        電柵のなかにあまたの土筆生ふ  常朝

        (氷室神社)

        (氷室神社北の谷)


 メンバーの一人が昼に奈良へ帰るため、榛原駅へ送ってから、
駅近くのオークワ3階のレストラン「ピア・ジョリー」で
昼食をいただき、少し小止みになった雨の中、榛原駅の南、宇陀市
上井足の三十八神社を訪ねました。

インターネットによると三十八は「みそは」とよむそうですが、
38神をお祀りするのでなく、水の神、弥都波能売命を祀っています。
明治までは、境内に神宮寺「善福寺」があったそうです。
雨の中10人位の背広の人が、月次祭ということで参拝され、
背広の神官代行の人から、一人ひとり玉串を受けて奉納されていました。
境内東側の道には桜が10本以上満開を過ぎて、花びらを道脇に
敷き詰めていました。
また土手にはカキドオシが紫の花をつけていました。

        花びらの流れ吸ひ込む神の杉   常朝

        蛙の声谷越え届く山の杜     常朝

        (三十八神社の境内)

        (三十八神社の月次祭)


 その後、さらに南の八咫烏神社を訪ねました。
八咫烏神社は、神武東征のおり、熊野から吉野・宇陀まで、
神武天皇軍を道案内したという八咫烏を祀っています。
伝説によると、八咫烏は賀茂氏の先祖建角身命(たけつのみの命)が
化身したものとのことで、この神社はその方を祀っています。

日本サッカー協会のシンボルマークが八咫烏のためでしょう、
サッカーボールを頭に載せたカラスの像が境内右手にありました。
高い石段の上に大きくはないですが立派な本殿がありました。
境内左手は森への細道と土手で、鶯が鳴き、虎杖(いたどり)が伸びて、
ムラサキケマンが咲き、ウバユリの蕾がありました。

        八咫烏の社の旗に穀雨かな    常朝

        八咫烏祀る社に花見鳥       常朝

        (八咫烏神社の拝殿)

        (八咫烏の像)

        (八咫烏神社の説明板)


その後名阪国道針テラスに戻り、メルカートロッソで小句会後解散しました。

2012年4月9日月曜日

147.飛鳥蹴鞠と花祭り

「アカシア紀行・俳句」2012年4月8(日)

 4月のすばらしい天気の花祭りの日、いつものメンバー7人で、
奈良・飛鳥の花祭りに参加、蹴鞠も見学しました。

 9時半飛鳥夢販売所で集合し、まず橘寺の花祭りにお参りしました。
夢販売所の軒では燕が巣作りをしていました。
橘寺は、聖徳太子誕生の寺として知られていますが、
さらに昔垂仁天皇の命により不老不死の果物を求めた田道間守が持ち帰った
橘の実をこの地に植えたため地名となったようです。

 8日はお釈迦様のお誕生日を祝う祭で、花祭り、花会式、潅仏会などとして、
全国の大きな寺で行われます。
橘寺では本堂の中に、お寺の敷地内で採られたという
様々な花をお堂の屋根に載せた「花御堂」を安置していました。
中の灌仏盤というお皿の中にまるまる太った誕生仏が立っておられ、
甘茶を小さな杓でおかけしました。
その後紙カップの甘茶をいただきました。
本堂の裏庭には「二面石」があり、左が泣き怒っているような顔、
右は笑っているような顔ですがどちらも石が摩耗していました。
裏庭の池には、錦鯉が数匹泳ぎ、紅色の春落葉が風に流れています。
奥の広い庭には中門跡、五重塔跡などがあり、桜などを見て散策しました。

        直売の店へまっすぐ初燕      常朝

        み仏のおなかぽっこり花御堂   常朝

        花の上に御堂見えたる飛鳥かな  常朝

        (飛鳥夢販売所の燕の巣:クリックすると拡大:以下すべて)

        (橘寺本堂)

        (橘寺の花御堂)

        (橘寺の二面石)


 その後、飛鳥寺北の「膳」店に行きましたが満席だったので、
石舞台の駐車場に車を置き、夢市茶店で、古代米御膳をいただき、
石舞台南の芝生広場で飛鳥蹴鞠を見学しました。

 飛鳥蹴鞠は、数年前蹴鞠保存会が飛鳥時代に宮中などで
行われた中国伝来の蹴鞠を再現したとのことです。
紫(衣装)組と白組に5人ずつに分かれて、7X14メートル位の
斎竹で囲まれた芝生を2つに分けてそれぞれチームが入り、
直径20センチ位の鹿皮のボールを落とさないよう代るがわる蹴ります。

 地面に落としたら審判役の鞠司が相手チームにボールを渡し、
互いに相手チームの後方の斎竹の縄を蹴って越えさせると1点が入るという、
割合勇壮な競技です。(優雅な平安時代の蹴鞠とは違い)
風向きも勝負に影響するのでコートチェンジもあるようです。
今回は25分位のゲームで白組が3対1で勝ちました。

 周囲の桜が徐々に色を濃くする飛鳥の芝生の上で、
春の空高く鞠が上がるのはなかなか気持ちの良いものです。
練習中に白蝶が蹴鞠場に迷い飛んできました。

        斎竹を越え飛ぶ蹴鞠山笑ふ    常朝

        初蝶の覗きにきたる蹴鞠かな   常朝

        (飛鳥蹴鞠:アイヤーと声掛けて蹴る)


 その後、飛鳥寺に移動し、2時からの花会式に参加しました。
飛鳥寺は日本最古のお寺で、本堂では飛鳥大仏が古代的な微笑を
今も見せておられます。

 開始まで時間があったので、本堂前に置かれた
小さな花御堂の、さらに小さな誕生仏に甘茶をお掛けし、
甘茶をふたたびいただきました。
こちらの花御堂は、橘寺と違いかわいい花ばかりが屋根に敷かれて
いました。本堂内にも花のない小さな御堂と誕生仏がありました。
寺の外の田んぼでは画家があちこちにキャンパスを立てていました。

 境内の松瀬青々の句碑などを見てから西門跡から数十メートル西の
入鹿の首塚を訪ねました。

 首塚は、西暦645年の大化の改新のとき、
中大兄皇子と藤原鎌足(当時中臣)によって討たれた蘇我入鹿の
首が飛んできたという所にある供養の5輪塔です。
昔は周囲は田のぬかるみのようでしたが、今は塚までの通路が
きれいに舗装されています。
入鹿への供花のように一畝の菜の花が見事に満開でした。

 花会式は御詠歌と住職と他の4人位の僧侶による声明から始まりました。
村長代理の方の祝辞や招待客の灌仏などなど式は続きましたが、
我々は3時前に寺を辞して、橿原観光ホテルで小句会後解散しました。

        大庇の日差ゆたかに花御堂    常朝

        飛鳥路の時ゆったりと花祭    常朝

        (飛鳥寺本堂)

       (飛鳥大仏)

       (飛鳥寺の花御堂大仏)

       (青々句碑:ましまして斗帳に花の主かな)

       (入鹿首塚)


 今日は今年始めての春らしい天気に恵まれて、古都飛鳥の花祭りや
蹴鞠を楽しめました。
その割には良い句はできませんでしたが。

2012年3月22日木曜日

146.奈良・矢田民俗公園から菅原神社筆まつり

「アカシア紀行・俳句」2012年3月20日(火)

 良い天気となった春分の日、いつものメンバー6人で
奈良・菅原神社の筆まつりに参加しました。

 菅原神社は菅原道真公生誕の地、奈良菅原地区の神社ですが、
筆供養のまつりとして筆まつりを例年3月に行います。

 神社北側の駐車場に9時前に集合しましたが、
主な行事の筆供養や筆交換は午後とのことなので、午前中は
大和郡山市矢田の県立大和民俗公園を訪ねました。

 梅などを見ながらスロープをゆっくり歩いて民俗博物館の
企画展「雛まつり」を拝見しました。
会場には、大正時代からの様々な雛飾りが展示されていますが、
中でも、御所市の豪商から寄贈された御殿雛は見事でした。
巾2メートル以上もありそうな御殿の模型に立派な内裏雛と
女雛が別室に飾られ、門には門衛が立っています。
けし粒のような芥子雛や、掛け雛もあります。

        御殿雛夫婦別居で笑みをらず   常朝

        随身の弓矢持たずに古雛     常朝

        (民俗博物館:クリックすると拡大:以下すべて)

       (民俗公園の熊五郎狐大明神)

       (民俗公園の梅林)


 その後、博物館そばの満開の白梅の下の狐大明神(熊五郎狐)碑や、
梅林の紅梅、白梅を見て菅原町に戻りました。
11時を過ぎていたので、菅原東交差点の大戸屋で昼食をいただき、
再び菅原神社を訪ねました。

 すでに多くの人が、古筆の交換券をもらったりしていましたが、
境内左側では、テントの下で書家・鳥居雙先生の大字書き中で、
100人ほどが見守る中、8尺の紙に「梅まつり」「梅香る天満宮」
などと力強く書かれていました。
境内右側では、筆作り体験や一字書きのコーナーもあり、
多くの種類の筆や墨などが展示販売されています。

 我々も参拝後、竹製の毛筆ペンなどを買ったり、行列に並んで
筆交換や1字書きに挑戦して抽選の景品・墨汁をもらったりしました。

 一時半頃から境内左の4本の斎竹(いみだけ)に囲まれた護摩壇で
筆供養が始まりました。
神主の祝詞のあと蔭灯(かげとう:神火の箱)から護摩に点火され、
2人の巫女や神官が次々と古筆を火に投げ入れました。
最初は白い煙が周囲の梅の花をかき消す程でしたが、青い煙になって
向うの梅がよく見えるようになりました。
古くなった筆もゴミ箱に捨てられるよりは幸福かもしれません。

        斎竹の内に梅咲く筆供養     常朝

        梅散らす風もありけり筆まつり  常朝

        (菅原神社)

       (大字書き)

       (筆作り体験)

       (筆供養の準備)

       (筆供養の護摩壇)

       (よく燃えた護摩)


 その後自宅で小句会後、解散しました。
遅かった梅も咲いてやっと春らしくなった彼岸の中日でした。