2018年1月10日水曜日

259. 奈良・正暦寺の清酒祭

「アカシア紀行・俳句」2018年1月8日(日)    前へ     次へ

 一日中雨の予報の成人の日、いつものメンバー3人で3年ぶりに奈良正暦寺の清酒祭を訪ねました。菩提山川に沿って車で登り寺の駐車場に着いた9時半頃は、雨模様ながら降っていませんでした。

 酒樽のある建物の中を含めるとすでに4、50人の人が清酒祭会場の駐車場に集まっており上の駐車場にと案内されました。
建物の前にはテントが張られて、斎竹と幣の付いた縄でテントと大きな甑(こしき:蒸し釜)が囲まれています。テントの下には6-7枚の葭簀が広げられており、甑からは湯気がもうもうと上がって、寺山の木々に届くほどでした。
また反対側のテントでは、清酒売り場や餅つき場、休憩所などが用意されており、会場の左奥にはモデル・造形作家:ほっぺふき子さんによる清酒オブジェが飾られていました。

              (正暦寺山門:クリックで拡大:以後同じ)    
              (清酒祭会場)
              (清酒売り場)

 10時頃から大原住職からマイクで説明が始まりました。
以前のアカシア紀行204にも記入しましたが、正暦寺は日本の清酒発祥の地とされており、清酒は寺の境内を流れる菩提山川の水に含まれる乳酸菌で余分な微生物を除去して作られるそうです。
2日間水に漬けた米を蒸して、葭簀(よしず)に拡げて冷やし、麹(こうじ)と乳酸菌入りの水に入れ建物の中の別の桶で7日間発酵させるとのことです。
ここでできた酒の元(菩提酛: ぼだいもと)を奈良の蔵元8社が持ち帰り、独自に麹、蒸米、水を加えて醸造を3回くりかえして13倍の清酒を造るとのこと。説明紙もいただきました。

 平安時代の最盛期には120もの寺(塔頭)があり、酒の販売も盛んで、本山にあたる興福寺大乗院には年貢として銀40~50貫(約1億円)を納めていたそうです。
元は国家の寺なので僧侶の正装はうなじに高い襟(僧綱襟)を立てるそうです。

 多くの塔頭の跡は、寺の東側の道に沿って石段と土地があるとのことなので、
坂を登ると、坂の両側に20以上の石段と土地があり、畑や空地になっています。

 会場へ戻ると、10人位の男女が蒸し米を甑から葦簀に拡げていました。
均一に10度位まで冷やしてから、酒樽に入れるそうです。作業などを拝見しながら、
ふるまいの粕汁とひねり餅(きな粉餅と餡餅)をいただきました。

 人々が増えて来たので、12時前頃から住職の2度目の説明があり、2度目の蒸し米の取り出しと、葦簀へ拡げる作業が始まりました。
その頃から予報通りの雨が降り出しました。
その後僧侶のご祈祷があるとのことですが、我々はお寺を辞して、天理街道に戻りCafe Gricksでコーヒーとケーキをいただき、奈良へ帰りました。

       清酒祭仕込みの湯気の淑気かな  常朝

       塔頭の跡は段畑冬菜生ふ      常朝

              (説明される大原住職)           
              (湯気を立てる甑(こしき))
             (蒸米を取り出す)
              (蒸米を拡げる人たち)
              (ほっぺふき子さんのオブジェ)
             (喫茶店 Cafe Gricks)

 正月の雨にも降られずに、きれいな谷川のある古寺で僧房酒の寒仕込みを拝見し、
美味しい粕汁や餅をいただき、めでたい一日を過ごすことができました。

2017年12月5日火曜日

258. 奈良・当麻寺から染野の傘堂

「アカシア紀行・俳句」2017年11月27日(月)    前へ  次へ

  初冬の晴れた日、いつものメンバー6人で奈良・当麻寺を訪ねました。
今回の目的は、蕎麦屋さん「一乃庵」と周辺の冬紅葉を訪ねることでした。
「一乃庵」は9年前九品寺や葛城山を訪ねたときは、竹内街道にありましたが、
その後近鉄当麻寺駅のそば(南東50メートル)に移転してからは初めてです。(参照:アカシア紀行78

「一乃庵」では、戸隠の新蕎麦を使った天そばと、メニューにない蕎麦搔きをいただきました。
さすが信州の新そばは腰があって美味しかったです。(一人1800円)

 その後車を店の駐車場から当麻寺・薬師門北側の有料駐車場に移動し、数年前練供養で訪れた境内に入りました。
練供養が行われる境内は今は参詣の人が少ないですが、大きな出店が一つあり、
はったい粉、きな粉、きくらげ、ゆばなど土佐の山菜を売っていました。

 本堂西の紅葉名所・西南院へ入ろうとしましたが、見上げると紅葉はすでに山の影になっていたので、少し散策後、北西500メートルほどの染野の傘堂に移動しました。

       蕎麦搔に深大寺道想ひ出す    常朝

       境内の屋台に売れりはったい粉  常朝

              (一乃庵:クリックで拡大:以後同じ)           
             (当麻寺の屋台)
             (当麻寺境内の桜紅葉)
              (当麻寺西南院入口)

 傘堂は説明板によると江戸時代の郡山城主本多政勝の位牌を祀るために家臣らが建てたとのことです。梵鐘ははずされていますが石碑2基は残っています。

 傘堂のすぐ下の駐車場のそばには、きれいな冬紅葉の木が3本ありました。
近くには大きな池があり鴨が集まってきました。そばの猪垣のある谷川には柿の実が掛かり、
下流の岸には烏瓜が垂れていました。

       傘堂の川に掛かれリ残り柿    常朝

       傘堂の石碑に薄き冬日差     常朝

              (傘堂:クリックで拡大:以後同じ)           
              (傘堂説明板)
            (傘堂の池とよってくる鴨)
              (池の土手の猪垣)
              (文晃堂の中の店)

 その後、当麻寺本堂の北200メートルほどの文晃堂でアンミツなどをいただき解散しました。
お天気のおかげでさほど寒くはなく、新蕎麦と二上山麓の冬紅葉を楽しむことができました。

2017年11月18日土曜日

257. 坂本・西教寺の菊御膳から堅田漁港

「アカシア紀行・俳句」2017年11月15日(水)    前へ  次へ

  初冬の雨が止んで晴れた日、いつもの4人で大津市坂本の西教寺を訪ねました。
西教寺は、聖徳太子の頃創立、室町時代1484年僧・真盛が入山し天台念仏の道場として栄え、
信長の比叡山焼き討ちで焼失後、明智光秀の援助もあって再興、のちに明智家の菩提寺となったとのことですが、今日は菊御膳という菊づくしの料理をいただくのが主な目的です。

 11時半ころ寺の駐車場に着き、明智光秀の坂本城の城門を移設したという山門を
くぐって、砂利を敷いたゆるい坂の参道を登りました。
参道の両側には数メートルごとに置燈籠があり、火袋には鬼などを描いた大津絵が
描かれています。
坂の上の菊御膳の案内板に従い、本堂の右下の研修道場前に行きました。
周囲の紅葉を見ていると、カーン、カーンという不断念仏の鉦の音が聞こえました。
そこの受付台で12時の予約を確認、土産の菊寿司を予約して研修道場の食堂に入りました。

 すでに50人位の客が道場の予約席の札の立つ長机に坐っていました。
我々は12時の予約だったので10分位前に着席しましたが、ほどなく料理が運ばれてきました。

 一人の僧がマイクを持って、菊御膳の菊は坂本菊という地元の食用菊を使っていること、
通常は拝観できないが希望者は拝観料で本堂に入堂でき説明も受けられるとのこと、
など簡単な説明をしてくれました。

 料理は、前酒、先付け、酢の物、和物、揚げ物、椀物、菊寿司ご飯、吸い物、香物、
デザートでしたが 椀物以外はすべて黄色の菊の花びらが入っており、
見た目も美しく、味もなかなかのもので、2700円にしてはボリュームも品もある料理です。
運転者の自分は勿論菊酒は見るだけにして、その他の料理を残さずいただきました。

 受付で菊寿司を受け取った後、本堂には入らずに参拝だけをして、境内の明智一族の墓を
見てお参りしました。
光秀の妻や家来の武将の墓もありましたが光秀の墓は見ることができませんでした。
その後、15キロほど北の、堅田漁港へ行きました。

       山門は明智の城門冬紅葉     常朝

       置灯籠に鬼の大津絵冬紅葉    常朝

              (西教寺山門:クリックで拡大:以後同じ)     
              (置灯籠)
             (研修道場)
              (研修道場前の紅葉)
              (坂本菊を置いた大食堂)
              (菊御膳)
              (明智一族の墓)

 堅田漁港は5年前の12月に来ましたが、今回は浜には漁師さん達がおらず、
浜を青鷺がゆっくり歩き、雑魚を捨てる1メートル立法位の2つの箱の上に猫達が、
坐って小魚を食べたりして遊んでいました。(参考:アカシア紀行164
向こう岸のはるかに近江富士(三上山)が見え、
漁船が20艘以上狭い港内に止めてあり、そのすき間の湖水に鳰(にお)や鷭(ばん)が泳いでいました。

       雑魚箱の上に猫どち冬港     常朝

       近江富士見ゆる漁港に鳰浮けリ  常朝

              (堅田漁港:クリックで拡大:以後同じ)         
              (田村淡水)
             (雑魚箱のそばの猫達)

 5年前と同じく、右手(南側)の田村淡水の作業場兼お店で、
鮎の佃煮、諸子の南蛮漬けなどを買い、西教寺の参道に戻って土産店で菊なます、丁稚羊羹を
買い琵琶湖を後にしました。

 初冬の好天に恵まれ、比叡山の里坊でもある、格式のあるお寺で、菊づくしの精進料理:菊御膳を生まれてはじめていただき、琵琶湖の景色とともに漁港の風景を楽しめた一日でした。

2017年10月22日日曜日

256. 奈良・龍田大社の秋祭

「アカシア紀行・俳句」2017年10月21日(土)    前へ   次へ

  秋の台風21号が近づく雨の土曜日、3人で奈良生駒郡・三郷町の龍田大社の秋祭を訪ねました。
秋祭は21日,22日と続きますが本祭の22日は台風が本州に上陸しそうなので、
風雨をさけるつもりで、21日の宵祭に参加しました。

 龍田大社は約2100年前、崇神天皇の頃造営されたという、豊作と疫病退散を祈願して
風の神を祀る、周囲1キロほどの森に包まれた神社です。

 14時頃龍田大社の駐車場につくと、雨の中でも、20台位は駐車しており、
空きスペースは5、6台でした。

 雨の中、20位の屋台も出ていて、傘をさした子供たちがゲームや玩具などの店をのぞいていました。
我々はまず、石段を登って拝殿にお参りしたあと、周囲を散策しました。
境内には高橋虫麻呂の万葉歌碑や昔の手押しポンプ(火消し車)がありました。
その後、雨を避けるため、舞殿(旧拝殿)の軒の石壇に坐りました。

 午後3時、宵宮の神事がはじまり、10数人の参拝者も拝殿にのぼりました。
我々は拝殿に椅子がなかったので、昇殿は遠慮しました。

 神事は他の神事と同様、お祓い、降神、献饌、祝詞ではじまり、巫女の舞、鈴のお祓い後、
撤饌、昇神して、40分位で終わりました。

 拝殿には2台の立派な神輿が左右においてあり、神事の終わりには、
神輿の神をお送り(昇神)するため、4人位の神官が左の神輿を囲んで「オー オー」と
声を上げました。

 神事の終わる頃、町内を回ってきた太鼓台が、1台2台と大社の下の道路に戻り、
太鼓台のメンバーの男たちが三々五々拝殿に参拝しました。
太鼓台の形は、布団太鼓、提灯太鼓、社形の太鼓などさまざまですが、
いずれも雨から守るため、おおきなビニールで包まれていました。

 4時前にアナウンスがあり、4時から、7地区の太鼓台が順次、大社境内に宮入し、
鳥居下の広場に整列しました。
それぞれ20~30人の男たちが祭法被の上に雨合羽をきて、太鼓台を引いてきましたが、
7台のうち3台は、車でなく、肩で担いできました。

 いくつかの太鼓台には音頭取りの男性が乗って、音頭を歌い、掛け声を掛けながら、
威勢よく行進してきました。
(7地区は、高山、馬場、下之庄、坂根、いわせが丘、山上辻堂、今井で、
 うち、坂根、山上辻堂、今井のは肩に担いでいました)

 400~500人の参列者の雨傘の波のなか、雨を弾くようにして、
太鼓台が神社に入るのは、なかなか勇壮な見ものでした。

 4時30分すぎ、すべての太鼓台が宮入りしたので、我々は大社を辞して、
法隆寺東の「さと」でケーキをいただき、奈良へ戻って解散しました。
5時には太鼓台がそれぞれの地区に戻り、明日の本祭には再び行進と宮入りをするそうです。

       斎庭の砂雨吸ひ込みて秋祭    常朝

       秋雨に負けじと囃す太鼓台    常朝

       風神の杜に雨受く薄紅葉     常朝

                     (龍田大社秋祭の宵祭:クリックで拡大:以後同じ)           
                     (龍田大社拝殿)
                     (龍田大社拝殿より本殿)
                      (神輿)
                      (火消し車)
                      (高山の太鼓台)
                      (坂根の太鼓台)
                      (今井の太鼓台)

 結局1日中雨でしたが、古い神社の伝統を支える若い人たちのエネルギーと
努力に感心しつつ、深みゆく龍田の秋と祭を楽しむことができました。

2017年9月27日水曜日

255. 東京・根岸の子規庵

「アカシア紀行・俳句」2017年9月24日(日)    前へ   次へ 

  秋彼岸の好天の日曜日、長男夫婦の招きで、東京・開成高校の文化祭を訪ねました。
参観する前に時間があったので、高校の南の鶯谷から北へ歩いて10分位の
子規庵を訪ねました。

 子規庵は、正岡子規が明治27年2月から母、妹の律と、明治35年9月19日亡くなるまで
住み、その後昭和20年4月の空襲で焼けた家を、寒川鼠骨氏他が昭和25年復元したもので、今は東京都指定史跡となっています。

 奈良を6時に出て、東京駅に9時半、鶯谷に着いたのは10時前だったので、
開館の10時半まで時間があり、近くの中村不折家跡、西側の陸羯南(くがかつなん)家跡、
森鴎外家跡などを探しました。書道博物館になっている中村不折家跡以外は
案内板がなく、このあたりとしかわからなかったですが。

 子規庵は間口奥行とも約7間(14メートル)ほどで、入り口(北側)は、
書道博物館の南です。玄関の前には白く細い花びらの朝顔の鉢がありました。

 入庵料500円を納めて、ビニール袋に靴を入れて、座敷に上がりました。
すでに20人位の人が展示の絵や写真、仕込み杖などを見ており、庭に向かって左側には
子規が使っていた机がありました。机は子規の左足が曲がらなかったので、
立膝で座れるよう、15センチ四方位の切り込みがありました。

 庭に出ると、絶句となった「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」などにある、
糸瓜棚(ヘチマ)があり、8個位はぶら下がっています。
その前には有名な「鶏頭の十四五本もありぬべし」の 鶏頭が20本以上咲いており、
萩、女郎花など色々な秋の花が咲いていました。

 庭には間口4メートルほどの文庫蔵がありますが、このおかげで貴重な、
作品や遺品が空襲からまぬがれたとのことです。

       子規庵の庭は狭しや女郎花    常朝

       切れ込みの机より見る糸瓜かな  常朝

                 (子規庵玄関:クリックで拡大:以後同じ)
                 (子規庵)
               (子規庵説明板)
                (子規庵の庭)
                (八畳と縁側)
                (子規文庫蔵)


 その後、鶯谷から山手線・日暮里駅で降り、子規が好きだったという
羽二重団子を買い、西日暮里の高校の文化祭にいきました。

 文化祭では、100ほどの教室や会場に分かれたパフォーマンスや展示説明などがありますが、
我々は折り紙室、生物学室、カジノ室などを見学、カジノ室では、
ルーレット、ブラックジャック、ポーカーで遊びました。
もらった100点分位のコインは結局全部まきあげられましたが、
高校とは思えないほど良く練られて準備された文化祭でした。

 夜は鶯谷の「笹の雪」で子規が好んだという豆腐料理、あんかけ豆腐などをいただきました。

 翌日は、歌舞伎座の一幕見席で「毛谷村」を見て、近くのインドカレー店「ナイル」で
ムルギーランチをいただいた後、子規が

      藪蕎麦に菊の膾はなかりけり 

と詠んだ藪蕎麦を、神田淡路町でいただいて、奈良に帰りました。

                (開成文化祭の入口)
                (文化祭の人の群)
                (笹の雪:鶯谷)
                (藪蕎麦の店:神田淡路町)

 長男夫婦と孫のおかげで、よく練られた秋の高校文化祭を参観でき、
運良く子規を偲ぶ小旅行ができました。

2017年9月14日木曜日

254. 奈良・平群の白山神社から普門院跡

「アカシア紀行・俳句」2017年97月13日(水)    前へ   次へ

  奈良地方の集中雨の翌日の快晴の日、いつものメンバー4人で奈良・平群の白山神社などを
訪ねました。
ここは4年前と3年前、メンバー6人で訪ねました。 (アカシア紀行198
 
 白山神社は、平安時代、法隆寺の高僧、道詮律師が隠居された地で、
当時は富貴寺という60坊もある大寺だったそうです。

 説明板によると、神社は富貴寺の神宮寺で、明治の初め神仏分離で独立し、
付近の39社神を合祀し富貴地区全体の氏神となったようです。

 周辺は富貴寺の跡で、弘法大師と親交があつかった道詮律師は伝燈大師として
南都七大寺の僧綱(そうごう:僧正など僧尼の管理職)を兼ね、法隆寺夢殿を再建し、
隠居後は富貴寺から法隆寺へ夏季百ヶ日の三経の講義のため往来されたとのこと。
今も奈良県俳人協会では秋に平群俳句の集いで道詮献句会などを開催しています。

 我々が11時ころ着いた駐車場のそばの田には、今年も沢山の水葵が紫の花を
つけていました。参道右には大きなビニールハウスができています。
石段の左の土手には今年初めての彼岸花が一茎咲いていました。

 前回同様、我々は境内を散策、拝殿と弥勒堂、奥の森の中の道詮律師の墓を
訪ね参拝しました。
墓への道は太さ5センチ以上の走り根が伸びていて、根の間の狭い土を
踏んで参拝しました。

       道詮の隠居の谷に水葵     常朝

       平群谷に初彼岸花雨上がり   常朝

               (白山神社:クリックで拡大:以後同じ)          
               (神社の説明板)
               (神社の下の田の水葵)
               (白山神社の拝殿)
              &nbsp(神社の右の池)
               (道詮律師の墓)

 社務所の裏の柿の木には柿が少し色づいていました。
右手の池には葛の花が散り、四阿(あずまや)の屋根の笠は破れていましたが、
木立の下、涼しい風が谷から吹いてきました。

 その後、以前にも訪ねた神社の北側の普門院跡を訪ねました。
普門院は福貴寺の塔頭のひとつで、道詮師の住居であったそうです。
 いまは5台分くらいの駐車場に小さな門、句碑、金網で囲まれた寺跡草地が
あるだけです。
金網の中には、以前あった柿の木がなくなっていましたが、
小さな石塔と大きな槙の木があり、大きな蝋梅の木が実をつけていました。
金網には自然薯の蔓が青い葉と零余子(むかご)をつけていました。

       坊跡に石塔ひとつ法師鳴く    常朝

       坊跡の金網伝ふ零余子採る    常朝

              &nbsp (普門院跡)          
              &nbsp (普門院跡説明板)

 その後普門院跡から坂を下りて、交番の西の多良福で昼食をいただき、
奈良へ戻って解散しました。
途中、平群の小菊が咲いているかと道端の畑を見ましたが、まだ花は見えませんでした。
日が当たるとまだ真夏のような暑さですが、木陰などでは涼しい風もあり、
歴史のある平群の初秋を楽しむことができました。