2013年4月27日土曜日
171.宇陀の青蓮寺から仏隆寺
「アカシア紀行・俳句」2013年4年25日(木) 前へ 次へ
穀雨の頃の晴れながらやや風の寒い日、いつものメンバー7人で、
奈良・宇陀市の青蓮寺、仏隆寺を訪ねました。
最初は宇陀山中の大蔵寺を訪ねるつもりで、名阪国道・針ICの
針テラスに9時すぎ集合し、369号線を南下、榛原の南の栗野の山中に
車で登りかけましたが、途中でパトカーに止められました。
住職らしい方がおられて、入山禁止なので戻ってと言われました。
仏事目的かつ予約者以外は入山できないようです。
(あとでホームページをよく読むと、写真撮影などレジャー関連の
入山は禁止とのこと、5年前はOKでしたが)
入山者をとめるなら、もっと手前でするべき、とか、ぶつくさ
いいながら、山道でUターンして、同じく山中の青蓮寺を訪ねることに
しました。
370号線の捨生(すてう)を東へ右折、166号線で約6キロの菟田野・
宇賀志から山中の道を4キロほど登ると青蓮寺です。
ここは以前も訪ねましたが、奈良時代中将姫が配流された草庵を
もとに創立された尼寺(浄土宗)で、青葉の山中にあります。
谷に半分乗り出した駐車場に駐車し、坂道をゆっくり登って行くと、
軽自動車でケアマネジャーの女性が登ってきました。
あとで聞くとご住職を訪ねてこられたがお留守とのこと。
若い尼僧がおられて、我々を本堂、阿弥陀堂に案内してくれました。
本堂には中将姫の小さい坐像が祀られています。
寺の縁起によると、中将姫は14才のとき配流され、2年半後、狩りに来た
父上と再会、当麻寺で法如尼として当麻曼荼羅を感得されたのち、
19才のとき再びこの地に戻り、お堂を建てたそうです。
境内には見事な八重桜やシャクナゲなどが咲いており、
八重桜の下にはかわいいヒキガエルの子が一匹跳ねていました。
以前にあった物資運搬用のレール・ウエイは、車道ができたためか
なくなっていました。
八重桜下に尼僧の語らヘリ 常朝
中将姫の坐像小さし百合の花 常朝
(青蓮寺本堂:クリックで拡大:以後同じ)
(八重桜)
(中将姫遺跡の説明板)
(シャクナゲ)
(霧島?)
捨生に戻り、あきのの湯の「おときや」で昼食をいただいた後、
再び166号線東の水分神社橋から北上、369号線の榛原高井から、
約2キロの仏隆寺を訪ねました。
仏隆寺は弘法大師が最古の茶を栽培した地に、高弟堅恵(けんね)が
創設した真言宗の寺ということで、今は室生寺の末寺だそうです。
ここも以前彼岸花の頃などに何度か訪ねましたが、名物の大桜は終り、
人影はすくなかったです。
それでも、一本の大きな山桜が満開で白い花を散らし始めていました。
駐車場の無人販売所には鹿避けの網カーテンが掛けられていました。
階段を避けて右の坂道を登ると、土手に野甘草の若芽が伸びて、
春の草花が色々咲いています。
本堂下の道で大黒さま(お寺の奥様)とお会いしたら、
畑の草取りの最中だそうです。
高い猪垣の中の一反ほどの畑では、住職が草刈機を使っていました。
鹿や猪の被害は猪垣でなんとか止められたが、アライグマは土を掘って
侵入しじゃがいもなどを食べるそうです。
坂の途中の谷にある楓が柔らかい若葉を揺らしていました。
境内に入ると藤棚に白い藤が咲いて、大きな山梨の木が白い花を
つけていました。
500円の抹茶のサービスもあるようですが、畑の大黒様しか女性は
おられないようなので、あきらめて坂をおりました。
やはらかき風にやはらか若楓 常朝
本堂も庫裏も留守なり梨の花 常朝
(仏隆寺の地蔵堂)
(仏隆寺の説明板)
(山桜)
(本堂)
(仏隆寺の畑)
(山梨の花)
その後、針テラスに戻りメルカートロッソで小句会の後、解散しました。
朝はやや寒く昼はやや暑い位の、お天気に恵まれた春の一日でした。
ラベル:
吟行案内
2013年4月13日土曜日
170.河内・龍泉寺、烏帽子形八幡神社から岩瀬の塞神
「アカシア紀行・俳句」2013年4年11日(木) 前へ 次へ
春寒の晴れた日、いつものメンバー7人で、河内・富田林市の龍泉寺などを訪ねました。
集合地を葛城市の山麓道、屋敷山公園として、
まず、水越峠から309号線を西に約20キロの龍泉寺に参詣しました。
龍泉寺は河内長野駅の北東、約10キロの岳山のふもとにある古いお寺です。
入山料300円を納めていただいた説明書によると、
今は真言宗の霊場ですが、595年、推古天皇の勅命によって
蘇我馬子がこの地の池にいた悪龍を追い出して創建したとのこと。
その後、水が枯れ衰退した寺地で、
弘法大師が7日間雨乞いの祈祷をして雨が降り龍の八大龍王が戻り、
堂塔が再建されたそうです。
南北朝時代に岳山の山頂に南朝方の城を築いたので、戦乱で伽藍を
失い衰退し、織田豊臣時代、江戸時代から、修復されたようです。
境内には後醍醐天皇の皇子「尊性法親王」のお墓もあります。
池ほとりには雨乞いの井戸に、竜王の社が建てられ、
3つの池には聖天、弁財天、叱天(だてん)の社があります。
訪ねたときは池の工事中で水がほとんどなく、数人が島で整備をしていました。
井戸の石柵の一部は壊れて、社も古くなっていますが、戸を開けると、
井戸に春の水が溜まっていました。
護摩堂や威古神社を拝見してから車で、山を降りる途中のオレンジ園に
立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
すみれ咲く大師祈りし井戸ほとり 常朝
護摩堂の床にたまりし春埃 常朝
(龍泉寺仁王門:クリックで拡大:以後同じ)
(龍泉寺本堂)
(竜王の池)
(雨乞いの井戸)
(行者堂:護摩堂)
その後、河内長野駅の西側の烏帽子形八幡神社を訪ねました。
南側からは石段が高くて急なので、西側へ回り、広い道路脇に駐車して
鳥居をくぐり参拝しました。
烏帽子形八幡神社は、烏帽子形山のふもとにあります。
ウィキペディアによると、この山に楠木七城(河内七城)のひとつとされる
烏帽子形城があり、楠小二郎が城の鎮護として創祀したものとのこと。
また神社の説明板によると、1480年創建され、すさのおの命、
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、重要文化財とのことです。
本殿の左に古い宝屋(宝蔵)があり、その左に稲荷神社が
あります。我々のほか誰もいない静かな杜にときどき烏が鳴き、
小鳥のさえずりがありました。
宝蔵の壁に落書囀れり 常朝
(烏帽子形八幡神社)
(本殿)
(説明板)
神社を出ると1時を過ぎていたので、
河内長野駅の南東5キロの岩瀬のレストラン歩笑夢(ぽえむ)に行きました。
歩笑夢は南海電鉄高野線の千早口駅東の川沿い1キロほどで、
道の南側の川の対岸です。
遅い昼食をいただいてから周囲を散策しました。
庭には水仙、ムスカリなどの花が植えられ、桜や白い花の木がありました。
レストランの川下に蓮華田があり、蓮華が風に揺れ、川岸に虎杖
(いたどり)が伸びていました。
少し雨模様でしたが、川のさらに南側の山麓道に歩くと、大きな
「塞神(さいのかみ)」の案内板があり、その右に石組みの祠が2つあります。
菊などが供えられ、椿の花が落ちていました。
説明板によると
塞の神は、邪神を統御する神と信じられたが、
道祖神との習合で、旅行神、縁結び、安産の神となり、
猿田彦が祭神 とのことです。
塞の神はイザナギノミコトと関係があるようです。
近くの坂を登ると大きな桜にブランコがあり、ロープがたぐりあげて
ありました。
白とピンクの花の木が見えたので、
たまたまおられた農家の男性に聞くと、桃(源平桃)でした。
また白いラッパ形の花の木を聞くと、びっくり茱萸(ぐみ)とのことでした。
茱萸の枝は成長が早くて、剪定しないと垂れ下がるようです。
男性によると、北原白秋の唄「砂山(海は荒海向こうは佐渡よ)」
の3番の歌詞に「かえろよ茱萸原分けて」とある言葉の意味が、
茱萸を育ててやっとわかったと言われました。
レストランの白い花の木を聞くと梨の木と教えてくれました。
花蓮華笑い合ふごと揺れゐたる 常朝
塞の神祀る山道茱萸の花 常朝
(レストラン歩笑夢)
(塞の神案内板)
(塞の神)
(茱萸の花)
散策後、歩笑夢で小句会を楽しんだ後、170号線を北上、
西名阪道経由で奈良に帰りました。
春寒の晴れた日、いつものメンバー7人で、河内・富田林市の龍泉寺などを訪ねました。
集合地を葛城市の山麓道、屋敷山公園として、
まず、水越峠から309号線を西に約20キロの龍泉寺に参詣しました。
龍泉寺は河内長野駅の北東、約10キロの岳山のふもとにある古いお寺です。
入山料300円を納めていただいた説明書によると、
今は真言宗の霊場ですが、595年、推古天皇の勅命によって
蘇我馬子がこの地の池にいた悪龍を追い出して創建したとのこと。
その後、水が枯れ衰退した寺地で、
弘法大師が7日間雨乞いの祈祷をして雨が降り龍の八大龍王が戻り、
堂塔が再建されたそうです。
南北朝時代に岳山の山頂に南朝方の城を築いたので、戦乱で伽藍を
失い衰退し、織田豊臣時代、江戸時代から、修復されたようです。
境内には後醍醐天皇の皇子「尊性法親王」のお墓もあります。
池ほとりには雨乞いの井戸に、竜王の社が建てられ、
3つの池には聖天、弁財天、叱天(だてん)の社があります。
訪ねたときは池の工事中で水がほとんどなく、数人が島で整備をしていました。
井戸の石柵の一部は壊れて、社も古くなっていますが、戸を開けると、
井戸に春の水が溜まっていました。
護摩堂や威古神社を拝見してから車で、山を降りる途中のオレンジ園に
立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
すみれ咲く大師祈りし井戸ほとり 常朝
護摩堂の床にたまりし春埃 常朝
(龍泉寺仁王門:クリックで拡大:以後同じ)
(龍泉寺本堂)
(竜王の池)
(雨乞いの井戸)
(行者堂:護摩堂)
その後、河内長野駅の西側の烏帽子形八幡神社を訪ねました。
南側からは石段が高くて急なので、西側へ回り、広い道路脇に駐車して
鳥居をくぐり参拝しました。
烏帽子形八幡神社は、烏帽子形山のふもとにあります。
ウィキペディアによると、この山に楠木七城(河内七城)のひとつとされる
烏帽子形城があり、楠小二郎が城の鎮護として創祀したものとのこと。
また神社の説明板によると、1480年創建され、すさのおの命、
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、重要文化財とのことです。
本殿の左に古い宝屋(宝蔵)があり、その左に稲荷神社が
あります。我々のほか誰もいない静かな杜にときどき烏が鳴き、
小鳥のさえずりがありました。
宝蔵の壁に落書囀れり 常朝
(烏帽子形八幡神社)
(本殿)
(説明板)
神社を出ると1時を過ぎていたので、
河内長野駅の南東5キロの岩瀬のレストラン歩笑夢(ぽえむ)に行きました。
歩笑夢は南海電鉄高野線の千早口駅東の川沿い1キロほどで、
道の南側の川の対岸です。
遅い昼食をいただいてから周囲を散策しました。
庭には水仙、ムスカリなどの花が植えられ、桜や白い花の木がありました。
レストランの川下に蓮華田があり、蓮華が風に揺れ、川岸に虎杖
(いたどり)が伸びていました。
少し雨模様でしたが、川のさらに南側の山麓道に歩くと、大きな
「塞神(さいのかみ)」の案内板があり、その右に石組みの祠が2つあります。
菊などが供えられ、椿の花が落ちていました。
説明板によると
塞の神は、邪神を統御する神と信じられたが、
道祖神との習合で、旅行神、縁結び、安産の神となり、
猿田彦が祭神 とのことです。
塞の神はイザナギノミコトと関係があるようです。
近くの坂を登ると大きな桜にブランコがあり、ロープがたぐりあげて
ありました。
白とピンクの花の木が見えたので、
たまたまおられた農家の男性に聞くと、桃(源平桃)でした。
また白いラッパ形の花の木を聞くと、びっくり茱萸(ぐみ)とのことでした。
茱萸の枝は成長が早くて、剪定しないと垂れ下がるようです。
男性によると、北原白秋の唄「砂山(海は荒海向こうは佐渡よ)」
の3番の歌詞に「かえろよ茱萸原分けて」とある言葉の意味が、
茱萸を育ててやっとわかったと言われました。
レストランの白い花の木を聞くと梨の木と教えてくれました。
花蓮華笑い合ふごと揺れゐたる 常朝
塞の神祀る山道茱萸の花 常朝
(レストラン歩笑夢)
(塞の神案内板)
(塞の神)
(茱萸の花)
散策後、歩笑夢で小句会を楽しんだ後、170号線を北上、
西名阪道経由で奈良に帰りました。
ラベル:
吟行案内
2013年3月24日日曜日
169.大和郡山市の大納言墓、源九郎稲荷から郡山城
「アカシア紀行・俳句」2013年3月21日(木) 前へ 次へ
晴れた春彼岸の翌日、いつものメンバー6人で、
大和郡山市の大納言墓などを訪ねました。
集合地を郡山市額田部町のファミリー公園として、
まずフラワーパークの春の花を楽しもうとしましたが、
公園の駐車場にくると、元のフラワーパークのあたりは
工事の囲いがしてあり、以前人工滝のあった小山にシャベルカー
が乗って、木や土を取りこわしていました。
工事の人に聞くと、フラワーパークはほぼ1年前に広陵町へ
移転したとのことでした。事前の調査不足でした。
やむなく、すぐに北上して郡山城の南約500メートル、
金魚池近くの箕山町の大納言墓を訪ねました。
大納言墓は、豊臣秀吉の弟で、郡山100万石の城主であった
秀長の墓です。
約20メートル四方の白塀と玉垣で囲まれた墓地に、
大きな五輪塔と木々があるだけですが、入口に「お願いの砂」を
入れた箱があります。
その中に穴のあいた石の箱と砂があって、穴から砂を3回
落としながら願い事を唱えるとかなうそうです。
墓地の外の通路に句碑
「箕山しぐれ鬼貫がここにゐるやうな」 坂口草堤
が立っており、さつき(?)の若芽が出ていました。
江戸時代芭蕉の頃の俳人上島鬼貫がここを訪ねたのでしょうか。
大名墓願いの砂に春日差 常朝
(大納言墓:クリックで拡大:以後同じ)
(お願いの砂箱)
(箕山しぐれの句碑)
その後、郡山市市役所の駐車場に車を留めさせてもらい、
500メートルほど東南の洞泉寺町の勘九郎稲荷神社を訪ねました。
源九郎稲荷神社は、秀長が郡山城主の頃、城の守護神として、
城内に建てられたのち、江戸時代今の場所に遷座したそうです。
祭神は名前のとおり、源の九郎判官義経が吉野に隠れたとき、
佐藤忠信に変身して義経や静御前を助けたという白狐です。
境内はさほど広くないですが、本殿には白狐像が2頭祀られて、
狐面の絵馬がけがあり、狛犬ならぬ狛狐が2頭、それぞれ
巻物と玉をくわえています。
境内には、歌舞伎の中村勘九郎さんが襲名記念に植えた、
しだれ梅としだれ桜があり、梅の根元には白い花びらが散り敷き、
桜は咲き始めていました。
本殿の壁には去年2012年9月参拝した勘九郎さんや今年2月参拝の
市川猿之助さんの写真がビニールに包まれ掲示してありました。
父上の勘三郎さんは去年12月なくなりました。
境内には、大きな楠の木が芽を出し、椿、沈丁花、水仙など
さまざまな花が咲いていました。
襲名の記念の桜咲き初むる 常朝
楠の芽に日差やはらか狛狐 常朝
(源九郎稲荷神社)
(神社の略記)
(社務所)
(中村勘九郎さんの写真)
郡山城近くのレストラン「Le BENKEI」で昼食後、
追手門に駐車して郡山城跡を散策しました。
場内は29日からのお城まつりの準備で軽四輪などが
入って、雪洞(ぼんぼり)柱を立てていました。
場内いたるところに雪洞があるので、その黒い電線が
お城を巡っていました。
奈良の図書館を移築した市民会館の広場には、
以前、郡山城お月見茶会 に記入した山口誓子や森田許六の
句碑がありますが、その先の草原には祠と寄せ仏があり、
雪柳と白タンポポが咲いていました。
濠の土手には寄贈の桜がたくさん植えられていますが、
満開に近いのは2本だけでした。
そのうちの一本にヒヨドリがとまって、しきりに花の中に
くちばしを入れていました。
元の城内高校の校舎(今は郡山高校)の中から、
クラブ活動のバンド練習のにぎやかなリズムと歌声が
濠の土手まで響いていました。
バンド練習音に花びら散りさうな 常朝
花喰鳥ときをり見上ぐ城の空 常朝
(郡山城内)
(白タンポポ)
(郡山城天守台)
午後3時頃奈良に戻り自宅で小句会を楽しみました。
空気はやや冷たいですが、午後曇りの予想に反して一日中快晴の
春彼岸らしい一日でした。
ラベル:
吟行案内
2013年3月8日金曜日
168.暗峠から枚岡神社
「アカシア紀行・俳句」2013年3月6日(水) 前へ 次へ
3月啓蟄の頃の快晴の日、いつものメンバー6人で、
主に梅見を目的に奈良県生駒郡平群町の暗峠(くらがりとうげ)から、
東大阪市の枚岡(ひらおか)神社を訪ねました。
第二阪奈有料道路の中山入口付近から9時半頃、国道308を西へ登り、
追分峠を越えて、南生駒駅東の「足湯」に立ち寄りました。
足湯は生駒市が2006年に創設した保健施設「歓喜の湯」足湯で、
生駒市小瀬町の国道308沿いの老人ホーム「やすらぎの杜」のそばに
ある無料施設です。
まだ10時前だったので、誰もきておらず、快晴ながら少し霞がかった
生駒山からまだ寒い風が吹いていました。
湯は36度とのことですが、足を浸けると40度位の感じです。
しばらくすると、ご夫婦らしい2組と女性のハイカーらしい2、3人が
きて、足湯に入りました。本を読む女性もいました。
梅の木はなく桜が2本まだ固い蕾をつけていました。
足湯して望む生駒の朝霞 常朝
(足湯:クリックで拡大:以後同じ)
(足湯から生駒山)
2、30分後我々は足湯を出て、308号を暗峠へ登りました。
この国道は奈良時代から大阪と奈良を結ぶ古道ですが、
今もやっと車1台が通れるほどの山道です。
暗峠のトンネルの手前に車を置き、峠の石畳を歩きました。
梅の木は紅梅1本だけ、まだ固い蕾でした。
峠の家の前に赤土を干していました。
道で会った人に聞くと苗代用の土だそうです。
道端には犬ふぐりが咲き、土手に水仙の若芽が出ていましたが、
その下の土に水仙の球根が数個出ていました。
猪が掘ったのかもしれません。
慈光寺まで歩いた組もありましたが、2、3人の女性の蓬摘みを
見たり、付近を散策後、トンネル奈良側のカフェ「有遊由」で
そばやうどんの昼食をいただきました。
犬ふぐり頬にきりりと峠風 常朝
(暗峠) (前回の記事写真へ)
(苗代の土)
その後308号線を東大阪側へ降り、枚岡神社を訪ねました。
枚岡神社は、社記によると神武天皇ご即位の3年前に、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売御神(ひめかみ)を、
祀って創祀され、孝徳天皇の頃650年この地に移された、
河内一の宮とのことです。
枚岡駅の東側の大きな鳥居をくぐった左手の駐車場に車を置き、
石段を登って本殿に参拝しました。
天児屋根命を祖神とする中臣氏と縁のある武甕槌命(たけみかづちのみこと)
のお供であった鹿の像「なで鹿」が境内にあります。
御手洗では鹿のくわえた巻物から春水が落ちていました。
本殿の右に大きな鯉の泳ぐ池があり、
池からの水かげろうが社殿の壁にゆらいでいました。
その右の道を登ると、急に明るく開けた枚岡梅林です。
大阪平野を見下ろす斜面にあり、
数百本の種々の梅の木が花を開いていました。
梅林は公園のように整備され、所々の石の椅子には家族連れや
カップル、小グループがのんびりと梅見を楽しんでいました。
やっと来た春を喜ぶように男性がギターで古い歌を歌っていました。
神社へ戻る坂道の杜では、鳩の群が落葉を盛んについばんで
いました。啓蟄の虫などを探しているようでした。
水かげろう社殿に揺らす春の鯉 常朝
梅林の日差に心ゆるびけり 常朝
(枚岡神社)
(赤い蕾の木)
(境内の紅梅)
(枚岡梅林)
(梅林の休憩所)
その後、神社の案内地図に、神社の南500メートルほどにあると
記された中世領主の水走氏の屋敷跡を訪ねましたが、それらしい遺跡が
見つからず、マンションの近くに空地だけがありました。
少し山手に五輪塔があるようですが今回は訪ねませんでした。
3時前第二阪奈有料道路から奈良へ戻り自宅で小句会を楽しみました。
久しぶりの快晴に恵まれた早春の一日でした。
ラベル:
吟行案内
2013年2月24日日曜日
167.吉野・国栖奏
「アカシア紀行・俳句」2013年2月23日(土) 前へ 次へ
雨水の頃の朝晴れの日、いつものメンバー6人で
奈良県吉野町の国栖(くず)で行われる「国栖奏」を見学に訪ねました。
国栖は近鉄上市駅から国道370を東へ約12キロの吉野川沿いの集落です。
便数は少ないですが上市駅からバス便もあるようです。
また今回は訪ねませんでしたが紙漉きの家もあります。
「国栖奏」は、応神天皇が19年10月1日吉野の宮(宮滝)に来られた時、
国栖の人びとが一夜酒を作り、歌舞を見せたのが始まりとされています。
また、壬申の乱の折、国栖の人々は大海人皇子に味方して、皇子をかくまい、
慰めのために一夜酒やうぐい(腹赤魚)を供して歌舞を奏しました。
皇子はとても喜ばれて国栖の翁よと呼ばれたので翁舞と言うように
なったとのことです。
代々受け継がれて毎年旧正月14日に天武天皇を祭る浄見原神社で、
舞が奉納され、国栖奏として奈良県無形文化財にしてされています。
(吉野町観光課:浄見原神社の掲示板より)
壬申の乱のとき、裏返した舟に隠れた大海人皇子を探しに犬が
2匹来たので、村人は赤石で犬を殺し皇子を助けたそうです。
それ以来国栖の人は犬を飼わないようになり、
地元の神社にも狛犬がないそうです。
神社は、吉野川北岸の切り立った岸壁のすき間に建てられています。
下の吉野川は深い渕になっており、天皇渕と呼ばれています。
早春の水の青さよ天皇渕 常朝
(天皇渕:クリックで拡大:以後同じ)
我々の車は10時半ごろ駐車場に着きましたが、神社の境内は狭くて
遅れると13時から始まる舞などを見られないため、早めの昼食をとる
ことにしました。
親切な係の人が携帯電話でお店の営業を確認してくれたので、
1キロほど東の東吉野村に入ったすぐの「やんちゃ庵」で昼食を
いただきました。
11時頃神社に戻って、舞殿のすぐ横に立って、開式を待ちました。
すでに、見学者は50人くらい来ていましたが、さらに数10人増えて、
狭い境内は一杯になりました。
舞殿の端には祭壇が作られ供物が三方に載せられていました。
左から、もみ(赤蛙)、くにつもの(土毛、根芹)、腹赤魚(うぐい)、
こざけ(一夜酒)、山菓(くり)でした。
下の段には、それぞれ三方の上に、鈴2つ、笛4本、鼓1個が、
置かれていました。赤蛙とうぐいはまだ生きているようで、
ぴくぴく動いていました。
昼前は天皇渕の川面から春日が照り返して、舞殿の天井に
「水かげろう」がゆらいでいました。
水かげろうゆらぐ舞殿国栖の奏 常朝
(国栖奏伝習所)
(国栖奏説明板:クリックで拡大:以後同じ)
(舞殿)
(神饌の供物台)
13時すぎ、人を押し分けて、神主、舞人達11人が舞殿に登り、
祝詞に続いて翁舞が始まりました。
奏歌は「世にいでば腹赤の魚の片割れも国栖の翁が渕にすむ月」
など優雅な歌が3曲続き、そのあと「エンエイ」とはやしながら、
正月から12月を読み上げ、それに合わせて二人の翁が鈴と榊を持って
ゆっくりと舞いました。
最後の4曲目の歌は、聞いた時はまったく意味がわかりませんでしたが、
日本書紀第十巻の応神天皇の項を読むと、
橿の生(ふ)に よくす(横臼)を作り よくすにか(醸)める
おほみき(大神酒)うまらに きこ(聞)し 持ちを(食)せ
まろがち(父) でした。
派手さはありませんが、さすがに古代を彷彿とさせる典雅な舞でした。
1300年前に書かれた歌が今もそのまま祭で歌われているのは驚きです。
その後、御巡楽として祈祷料を納めた人の名が「エンエイ」という
掛け声と共に順次よみあげられました。
(舞人)
(正月エンエイの舞)
閉式後の撤饌は赤蛙から順次下げられ、境内の別の台に載せられたので、
写真を撮ることができました。
人々が神社から戻る2時頃、雪が降って来ました。
翁舞果てし川の辺春の雪 常朝
(供物の赤蛙)
(ぜんざいのサービス)
駐車場に帰る途中にある国栖奏伝習所前のテントではぜんざいが
200円でサービスされていたので、我々も焚き火に当たりながら
いただきました。
3時半から餅まきとのことでしたが、待たずに車で橿原観光ホテルへ戻り、
小句会後解散しました。
年一度の天武天皇祭である国栖奏を守り盛り立てていこうとする、
吉野町や国栖の人々の心が感じられる一日でした。
雨水の頃の朝晴れの日、いつものメンバー6人で
奈良県吉野町の国栖(くず)で行われる「国栖奏」を見学に訪ねました。
国栖は近鉄上市駅から国道370を東へ約12キロの吉野川沿いの集落です。
便数は少ないですが上市駅からバス便もあるようです。
また今回は訪ねませんでしたが紙漉きの家もあります。
「国栖奏」は、応神天皇が19年10月1日吉野の宮(宮滝)に来られた時、
国栖の人びとが一夜酒を作り、歌舞を見せたのが始まりとされています。
また、壬申の乱の折、国栖の人々は大海人皇子に味方して、皇子をかくまい、
慰めのために一夜酒やうぐい(腹赤魚)を供して歌舞を奏しました。
皇子はとても喜ばれて国栖の翁よと呼ばれたので翁舞と言うように
なったとのことです。
代々受け継がれて毎年旧正月14日に天武天皇を祭る浄見原神社で、
舞が奉納され、国栖奏として奈良県無形文化財にしてされています。
(吉野町観光課:浄見原神社の掲示板より)
壬申の乱のとき、裏返した舟に隠れた大海人皇子を探しに犬が
2匹来たので、村人は赤石で犬を殺し皇子を助けたそうです。
それ以来国栖の人は犬を飼わないようになり、
地元の神社にも狛犬がないそうです。
神社は、吉野川北岸の切り立った岸壁のすき間に建てられています。
下の吉野川は深い渕になっており、天皇渕と呼ばれています。
早春の水の青さよ天皇渕 常朝
(天皇渕:クリックで拡大:以後同じ)
我々の車は10時半ごろ駐車場に着きましたが、神社の境内は狭くて
遅れると13時から始まる舞などを見られないため、早めの昼食をとる
ことにしました。
親切な係の人が携帯電話でお店の営業を確認してくれたので、
1キロほど東の東吉野村に入ったすぐの「やんちゃ庵」で昼食を
いただきました。
11時頃神社に戻って、舞殿のすぐ横に立って、開式を待ちました。
すでに、見学者は50人くらい来ていましたが、さらに数10人増えて、
狭い境内は一杯になりました。
舞殿の端には祭壇が作られ供物が三方に載せられていました。
左から、もみ(赤蛙)、くにつもの(土毛、根芹)、腹赤魚(うぐい)、
こざけ(一夜酒)、山菓(くり)でした。
下の段には、それぞれ三方の上に、鈴2つ、笛4本、鼓1個が、
置かれていました。赤蛙とうぐいはまだ生きているようで、
ぴくぴく動いていました。
昼前は天皇渕の川面から春日が照り返して、舞殿の天井に
「水かげろう」がゆらいでいました。
水かげろうゆらぐ舞殿国栖の奏 常朝
(国栖奏伝習所)
(国栖奏説明板:クリックで拡大:以後同じ)
(舞殿)
(神饌の供物台)
13時すぎ、人を押し分けて、神主、舞人達11人が舞殿に登り、
祝詞に続いて翁舞が始まりました。
奏歌は「世にいでば腹赤の魚の片割れも国栖の翁が渕にすむ月」
など優雅な歌が3曲続き、そのあと「エンエイ」とはやしながら、
正月から12月を読み上げ、それに合わせて二人の翁が鈴と榊を持って
ゆっくりと舞いました。
最後の4曲目の歌は、聞いた時はまったく意味がわかりませんでしたが、
日本書紀第十巻の応神天皇の項を読むと、
橿の生(ふ)に よくす(横臼)を作り よくすにか(醸)める
おほみき(大神酒)うまらに きこ(聞)し 持ちを(食)せ
まろがち(父) でした。
派手さはありませんが、さすがに古代を彷彿とさせる典雅な舞でした。
1300年前に書かれた歌が今もそのまま祭で歌われているのは驚きです。
その後、御巡楽として祈祷料を納めた人の名が「エンエイ」という
掛け声と共に順次よみあげられました。
(舞人)
(正月エンエイの舞)
閉式後の撤饌は赤蛙から順次下げられ、境内の別の台に載せられたので、
写真を撮ることができました。
人々が神社から戻る2時頃、雪が降って来ました。
翁舞果てし川の辺春の雪 常朝
(供物の赤蛙)
(ぜんざいのサービス)
駐車場に帰る途中にある国栖奏伝習所前のテントではぜんざいが
200円でサービスされていたので、我々も焚き火に当たりながら
いただきました。
3時半から餅まきとのことでしたが、待たずに車で橿原観光ホテルへ戻り、
小句会後解散しました。
年一度の天武天皇祭である国栖奏を守り盛り立てていこうとする、
吉野町や国栖の人々の心が感じられる一日でした。
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吟行案内
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