2009年5月18日月曜日

87.大阪・住吉大社、万代池公園など

「アカシア紀行・俳句」2009年5月16日(土)


 午後五月雨の予報の日、いつものメンバー6人で大阪・住吉大社に参拝しました。
住吉大社は、仲哀天皇9年に神功皇后が三韓より帰還されたとき、海の神である
住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を祀ったのに始まる古い神社で、
源氏物語の「明石の君」の関連舞台など歴史にでてくる神社です。
電車では、難波から南海線の住吉大社駅、あるいは天王寺より路面電車で上町線
の住吉公園駅から東へ歩いて約3分です。

 9時半頃太鼓橋(反橋)の東側に集合し、まず本殿に参拝しました。
住吉大社は本殿が第一から第四まであり、それぞれ底筒男命、中筒男命、
表筒男命と神功皇后を祀っています。
第三本殿にきた巫女さんによると、第一と第二本殿は工事中で、底筒男命、
中筒男命は今は一番外側の第三本殿に共に祀っているとのこと。
巫女さんのかんざしは、松の木に鷺が二羽止まっている立派なものです。
神功皇后が住吉の浜に着かれたとき、ここの杉の木に鷺が止まったので、
その場所に神を祀ったとのことで、その何代目かの杉の木は第一本殿と
石舞台の間の玉垣に囲まれて神木として祀られています。
あとで聞きましたが、千木(ちぎ:本殿の屋根の上のX字の木組み)は、
男神のは先が上に尖り、女神のは水平とのことで、第四本殿の皇后の千木は
たしかに女神の千木でした。

 その後、境内南端の御神田に行きました。
60メートル四方はあるかと思う大きな田が大阪のまん中にあるとは
驚きですが、毎年6月14日にお田植神事があるとのこと。
しかし田はまだ草が生い茂り、ゲンゲの花が咲いて雀が遊んでいました。

 のち東側の武道館の弓道場をのぞき、玄関前の「卯の花園」にいきました。
10時開園とある扉は10時3分でもまだ鍵がかかっていましたが、
しばらくすると、お年寄りの武道館の職員がきて鍵を開けてくれました。
卯の花園には卯の花、谷うつぎ、箱根うつぎ、梅花うつぎ、姫うつぎなど
さまざまな卯の花があり、赤い大きな傘がほぼ中央に立てられています。

 石舞台で池の鴨と杉の神木を見て、楠大樹の下の稲荷神社にいきました。
境内には何本かの楠の大樹がありますがここのは一番大きく、樹齢千年との
ことで4本の太い鉄柱で支えられ、白い小さな花を咲かせていました。
楠落葉が5~6センチの深さに溜まって歩くとふわふわします。

 ふたたび西の正面に戻り、偶然きた結婚式の行列を迎えてから反橋を渡りました。
花嫁は大きな角隠しをして、まず御手洗で夫婦が手を清めてから
巫女さん二人に先導されて本殿への石段をゆっくり登っていきます。
橋の上の桟には松のしべや松葉が溜まっていました。

 のち、阪堺上町線の路面電車に乗り帝塚山三丁目に行きました。
路面電車は何十年ぶりかの久しぶりで、学生であった昭和30年代の
大阪の町を思い出しました。
帝塚山三丁目で降りて東の万代池公園に行き、かきつばたや、オウチ(栴檀)の
花などを見ました。子供達がドッジボールなどで遊んでいます。
雀が餌を欲しがってチュンチュン鳴きながら寄ってきました。
あと駅の西側の帝塚山学院前の橋本多佳子屋敷跡を見てから、
姫松駅のそばのFORMAで昼食をいただき、上本町のシェラトン都ホテルの
2階喫茶コーナーで小句会の後 5時頃解散しました。
結局いつも天気に強い我々は雨に会わずに無事吟行できました。


         大阪の神田広し紫雲英(げんげ)咲く     常朝 
    
         卯の花や靭(うつぼ)背負ひて女射手   常朝
  
         卯の花の匂ふ垣根と足弾む          常朝
  
        (住吉大社反橋:写真はすべてクリックで拡大)

        (第三本殿)

        (御田植祭説明板)

        (楠の巨樹)

        (万代池-帝塚山)

        (橋本多佳子邸跡-帝塚山3丁目)

2009年5月1日金曜日

86.鳥羽・答志島

「アカシア紀行・俳句」2009年4月28日(火)


 連休前のさわやかな日、いつものメンバー7人で鳥羽の答志島に行きました。
近鉄八木駅で集合し特急で鳥羽まで約1時間半の列車の旅です。
答志島は鳥羽から2キロくらいの離島ですが、定期船で40分くらいで、和具港、
答志港、桃取港などへ行けます。
島は東西6キロ、南北2キロくらいで、中世では九鬼水軍の根拠地だったようです。
今は人口2700人くらいとのこと。

 我々は11時前に鳥羽に着き、11時半の定期船に乗船しました。
和具港周辺には九鬼水軍の嘉隆の墓などあるようですが、海女小屋などを
見たいので終着の答志港で下船しました。

 まず港町の路地にある、ロンク食堂でいきのよい、刺身定食をいただき、
浜に戻りました。
港の北側と南側には漁船の船溜りがあり、青葉の岬を鳶(とび)が舞っていました。
あちこちで蛸壺を干しています。
浜には海女小屋があり、7~8人のお年寄りの海女さん達が、海から上がってきた
ところでした。(海女小屋といっても丈夫なシートをパイプで張った簡単な造りです)
めかぶ(若布の根株)、うに、さざえなどを潜って採るとのことで、小屋の中の
炭火でめかぶを焼いていました。

 外には若布干し場があり、張った数本のロープに、洗濯ばさみの親分のような
はさみで、若布を沢山吊って干していました。
干している男の人に聞くと、天日干しでないとおいしい若布にならないとのことです。
色々聞いていたらしまいに若布を沢山いただきました。
また女の人が浜のコンクリートの上に芽鹿尾菜(メヒジキ)を並べて干していました。

 その後、魚市場(せりは終っていましたが)に行き、沢山並んでいる大きな生簀
などを見ました。 ここでは生きたままの魚を競るそうです。
しばらく帰港する海女船やくらげなどをみて、浜の南にある岬(八幡鼻)の
八幡神社にお参りしました。
岬へは赤い橋を渡り、神社へは石段を50段以上登ります。
橋を渡ったすぐ右に歌碑があります。

歌碑には、万葉集巻1-41、柿本人麻呂の

  釧(くしろ)著(つ)く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ

の歌が刻まれていました。

くしろは昔の腕飾り(ブレスレット)だそうで、「くしろ著く」は答志(手節)の枕詞
だそうです。
このとき人麻呂は、持統天皇らが答志島で風光を楽しんでいるとき飛鳥の都で
留守番をしていたとのこと。
すでに持統天皇の頃から観光(?)と若布などの海の幸に恵まれたところだった
ようです。

 4時の定期船で鳥羽に戻り、6時前発の特急電車内で小句会の後八木駅で解散しました。


         漁師町の路地に明るき柿若葉          常朝 
    
         鹿尾菜(ひじき)干すコンクリートに膝つけて   常朝
  
         玄関に蛸壺飾る島の宿             常朝
  
        (答志島:写真はすべてクリックで拡大)

        (答志島案内図)

        (海女小屋)

        (若布干し場)

        (弁天鼻への八幡橋)