2011年12月5日月曜日

140.信貴山大根焚き・雁多尾畑

「アカシア紀行・俳句」2011年12月4日(日)

 師走の冬晴れの日曜日、いつものメンバー6人で奈良・信貴山の
大根焚きのあと雁多尾畑(カリンドオバタ)を訪ねました。

 9時半頃我々が信貴山朝護孫寺の駐車場に着いたときは、
もうすでに50台分くらいの駐車場はほぼ満車に近いほどでした。

 さっそく、塔頭のひとつ千手院に参拝すると、
法要開始の10時前でしたが、受付で一人ずつ受付用紙をもらって
名前と祈願を記入し、大枚1000円を納めて護摩木をいただきました。
そこにあらためて家内安全などの祈願文字と名前を記入し、
護摩壇前の台に置いてもらいました。
次から次へと入ってくる信者には大柄の僧が祈願記入などを
案内していました。

 我々は開始前に大釜で煮られている大根焚きをお椀でいただきました。
大根は信州産とのことで、大釜の大根がなくなると次から次へと
庫裏で既に煮られた3センチ程に切られた大根が大型バケツで
運ばれてきます。
5、6人の堂守らしい人が釜の周囲でお椀に大根を入れて箸を渡したり
戻りの椀を受けたりと大忙しです。

 そのうち法螺の音で法要が始まり、釜の横の護摩壇の周囲に
行者が並んで、法螺を吹いたり、心経や真言を唱えたりして
護摩に火がつけられ、白煙が境内をかけまわりました。

 法要が終り火も下火になった頃、護摩壇の前で一人ひとり行者さんに
背中に散杖(さんじょう)とかいう棒を当てて加持祈祷をしてもらいました。

        大根焚案内係は大坊主       常朝

        護摩の煙釜にも届き大根焚     常朝

        (千手院境内:クリックすると拡大:以下すべて)

       (大根焚きの釜(中央))
 
        (大根焚きの法要)


 11時過ぎになったので、近くの信貴山観光ホテルの「おはし」で
昼食をいただき、雁多尾畑(カリンドオバタ)へ移動しました。
雁多尾畑は昔、鉄の技術者集団がたたら炉などを作って鉄鉱石から
鉄を製造していたところらしいです。

 雁多尾畑へ降りる途中東へ左折すると留所(とめしょ)山といわれる
なだらかな土地があり、桜の園の名で、有志が桜を植えつつありますが、
その先のふもとの林の中に「龍田神社本宮跡」の石碑があります。
龍田神社は昔この地にあったとのことです。
車が入れないので、私だけ歩いて写真を撮りました。

        (龍田神社本宮跡の石碑)


 そこから鉄の神様である金山媛、金山彦を祀る神社を訪ねるつもりが、
山から降りる道を間違えて、東の峠地区に入りました。

 ここは昔の竜田街道の峠で峠八幡神社があります。
あとで参拝するつもりでしたが、まず八幡神社を訪ねました。
山のふもとの傾斜地にある小さな神社ですが、石段から南正面に
大和川対岸の山の冬紅葉が見事でした。境内にも紅葉、
西隣の畑に山茶花が満開でした。石段の下に古い地蔵堂があります。
また、石段右の土手にたつ地すべり標識は写真のように
曲っていました。多分地すべりで柱が回転移動したのでしょう。

        正面の山まるごとの冬紅葉      常朝

        (峠八幡神社) 
        (曲がっている地すべり標識)


 その後、西へ500メートル程の「亀ヶ瀬」に行きました。
亀ヶ瀬はJR河内堅上駅のそばにある大和川の瀬ですが、
昭和の始めに大きな地すべりがあり、
鉄道のトンネルを川の北側から南側へ移す大工事をしたそうです。
今も地すべりの対策保存地域になっています。
ここは江戸時代以前は船着場で、大阪湾からの船を上流用の
小舟に荷物を移し替える流通拠点だったようです。
冬の川には亀の形の大岩が見えましたが、
岩の周囲が少し深い位で船着場跡らしいものは何もありません。

        亀岩の下は深き瀬冬の川      常朝

        (亀ヶ瀬)
 

 一旦国道25号に出てから雁多尾畑に車を進め、まず金山彦神社を
訪ねました。
金山彦神社は、柏原市雁多尾畑の道沿いの池の北側の神社ですが、
周囲は池をめぐる公園のようで四阿(あずまや)もあります。
拝殿には平成10年に再現された土の溶鉱炉である、
「たたら炉」の跡が展示されています。

        たたら炉の跡は土塊(つちくれ)冬日差  常朝

        (金山彦神社)
 
        (拝殿のたたら説明板)

        (拝殿の古代たたらの写真)


 まだ少し時間があったので約1キロ北の金山媛神社を訪ねました。
高い石段を上がると社務所兼神主宅があり、右手が神社拝殿です。
狭い境内を拝見していると、神主が拝殿の戸を開けて、我々を
案内してくれました。
拝殿の中の右手にはきんぴかの金幣(きんぺい)があり、正面には
径46センチの八咫鏡がありLED光が中心に輝いていました。
神主が金幣の由来や鏡の由来を話し、金幣によるお祓いをしてくれ、
榊の玉串奉奠もさせてくれました。
話が長く皆多少疲れてきたので、3時過ぎ神社を辞して
王寺駅南の「さと」で小句会後5時すぎ解散しました。
少し玉串料を納めたお礼か蜜柑を一つづついただきました。
いただいた名刺によると、金山媛神社と金山彦神社の両方の
宮司となっていました。

        金幣の鈴背に受けて冬の杜    常朝

        (金山媛神社)

2011年11月20日日曜日

139.柘植・徳永寺、福地城跡から油日神社など

「アカシア紀行・俳句」2011年11月19日(土)

 ほぼ日本全国雨の予報の土曜日、いつものメンバー6人で三重県柘植の
徳永寺、福地城跡、油日神社などを訪ねました。

 我々は、雨の中9時半すぎ名阪国道針ICの針テラスで集合し、
まず名阪国道東約30キロの上柘植ICから北上して1.5キロの、柘植小学校の
西にある徳永寺を訪ねました。

 徳永寺は伊賀市柘植町にあり、天正10年6月2日、織田信長が本能寺で
討たれた時、堺にいた徳川家康が急きょ三河に帰る時立ち寄った浄土寺です。
10時半頃着いた寺は檀家の法事の最中で、雨の中読経が続いていました。
インターネットによると、この時の家康の逃避行は「伊賀越え」として語られ、
この時のもてなしに家康から寺領と葵紋の使用を許されたようです。

 住民が見張りに立ったという山もすぐ後にあり、薄紅葉が見えました。
大きな本堂の左には閻魔堂があり、赤顔の閻魔大王の左右に司録、司命らが
白い顔で並んでいます。葵紋の鬼瓦も軒に立ててありました。


        閻魔堂の官吏白顔冬の雨      常朝

        家康の寄りたる寺や冬の雨     常朝

        (徳永寺:クリックすると拡大:以下すべて)

       (鐘楼)
 
        (閻魔堂)



 その後訪ねた福地城跡は寺の南、名阪国道沿いにある福地氏の城跡で、
明治以来、芭蕉公園として整備されています。
伊賀SAの北側の旧国道25号から狭い道を南に入るとすぐ見える木立の中を
走ると、数台の駐車場があり、城趾の碑と芭蕉公園の木碑がありました。

 雨の中低い石段を登ると、石垣の上に木造のレストランがありますが、
閉店中でした。さらに進むと、芭蕉生誕の地の石碑と四阿(あずまや)があり、
中の机に投句箱が置かれ、上に入選句の額が掛かっていました。
左手に「ふるさとや臍の緒に泣くとしの暮」の芭蕉句碑があり
紅葉もいくつか見えました。
入口の芭蕉生誕350年モニュメント広場には寒桜が咲いていました。
雨が止みそうにないので、早々に城を退去し伊賀SAで昼食をいただきました。

        百歩程で登れる小城大紅葉      常朝

        (福地城跡)
 
        (福地城跡説明板)

        (城跡のあずまや)

        (城跡の紅葉)


 昼食後、伊賀ICからUターンして、上柘植交差点から約6キロ北上し、
甲賀の油日神社を訪ねました。
油日神社はアカシア紀行80(2009年1月15日)にも書きましたが、
聖徳太子創建と伝える甲賀の社です。
祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)と猿田彦神で、鳥居の先には
立派な楼門と回廊・格子戸のある拝殿の奥に本殿があります。
いずれも桧皮葺で一部は苔さえ生えています。

 この神社では、昔甲賀忍者の土豪が信長対策などの集会を何度も
開いたでしょう。

 左手には35メートルの高野槇の木、さらに左奥には鐘楼、
右手には馬の銅像、池、社務所と資料館があります。
白洲正子さんが「隠れ里」で紹介した能面などを見学したかったのですが、
衣装などの展示会が雨のため中止で、2年前同様、資料館も閉館でした。
右手の杜から拝殿の軒まで続く溝には冬の雨水が音立てて流れていました。

        甲賀者集ひし社冬の雨       常朝

        斎庭の溝音立て流る冬の水     常朝

        桧皮葺よりひかりの雫冬の雨    常朝

        (油日神社)
 
        (奉納の油缶)

        (油日神社拝殿)


 その後、近くの神宮寺を参拝しました。
ここも浄土宗で法然聖人13才の像があり、使われている(!)釣瓶の井戸、
紅葉の銀杏、朴の木があり、本堂右手の砂利にタマサンゴが
赤や黄、緑の実をつけています。
雨の中、朴の葉が寺の砂利に音を立てて散っていました。

        神宮寺の砂利に音立て朴落葉    常朝

        (神宮寺)
 
        (神宮寺の朴落葉)


 かなりの雨の中、針テラスに戻り、メルカートロッソで小句会後
午後4時半頃解散しました。
天気に強い我々のグループでは一日中雨の吟行は始めてでした。

2011年11月6日日曜日

138.斑鳩・上宮遺跡公園から太子道

「アカシア紀行・俳句」2011年11月5日(土)

 立冬近い、曇のち雨の予報の土曜日、いつものメンバー7人で奈良・斑鳩の
上宮遺跡公園から太子道を訪ねました。
太子道は聖徳太子が、愛馬黒駒に乗り、従者調子丸と飛鳥-斑鳩を往復された、
いわば太子の通勤ルートです。(参照:藤原浩氏のエッセイの地図 など)

 国道25号線の中宮寺東交差点を南下して斑鳩東小学校の東にある
上宮遺跡公園に着いたのは朝9時すぎでした。

 ここは、平成3年の発掘調査で、大型の建物数件の跡が確認され、
平城宮と同型の瓦が出たことから、称徳天皇の行宮(離宮)と推定され、
埋め戻された跡に作られた公園です。
このあたりは成福寺跡も含め聖徳太子の宮跡と伝えられているようです。

 公園には円形の石舞台があり、観月能(毎年9月22日)、
桜祭能(4月第1日曜)などが行われているようです。
山茶花が咲き、桜や百日紅、さつき、もみじなどが紅葉し始めていました。
また聖徳太子像や万葉集などの歌碑がいくつかあります。

        太子像裾にかかれる芒の穂      常朝

        (上宮遺跡公園:クリックすると拡大:以下すべて)
 
        (上宮遺跡公園説明板)

        (上宮遺跡の一部)

        (上宮遺跡説明板)


 しばらく散策後、東南約1.2キロの安堵町・太子道の飽波神社に行きました。
小さい神社ですが、氏子の人が箒で境内を掃除していて我々のために、
御手洗所の水栓を開けてくれました。
左手奥には、太子の腰掛け石(舟石)があり、拝殿には「なもで踊り」の
絵馬が掛けられています。拝殿右にモチノキの巨樹があり、木立に鵙が
鳴いていました。

        鵙鳴けり太子憩ひし杜の石      常朝

        (飽波神社)
 
        (飽波神社説明板)

        (なもで踊りの絵馬)


 その後、西名阪国道を越えて南下し、川西町の島の山古墳、比売久波
(ひめくわ)神社を訪ねました。
島の山古墳は全長190mの周囲に濠のある前方後円墳ですが、掘り出された
石が6つあるとのことで、石棺の天井石が神社の踏石になっています。
 濠は緑色ににごり、鴨や鳰が泳いでいます。
古墳本体は竹藪が覆い、裾の方に柿の実が2つ赤色を添えていました。

 古墳の西隣は、比売久波神社で、久波御魂神(くばみたま)と天八千千姫
(あまはちち)を祀る養蚕の神社で、御神体は桑の葉だそうです。
境内左手奥に、箕輪寺跡があり、明治の頃小学校だった頃の本堂の写真が
ありました。
左の遥拝所前では広場に子供達の描いた絵に銀杏が散っています。
また裏手の草原にはコマツヨイグサが黄色い花をつけていました。

        子等描きし斎庭の線画銀杏散る    常朝

        (島の山古墳)
 
        (比売久波神社)

        (比売久波神社説明板)



 11時半すぎ、東南へ600メートルほどの三宅町・屏風の太子道にある
白山神社と屏風・杵築神社を訪ねました。
道の東側の杵築神社は拝殿もありますが、白山神社は小さい本殿があるだけです。

        (杵築神社)

        (白山神社)


 杵築神社の境内には木立があり、左手に「屏風の清水」と名付けた小さな
井戸枠があります。「矢尻の井」の石碑も立ち、聖徳太子が従者の弓で地面を
掘ると清水が湧いたので、以来、太子がこの地を通られる時、
愛飲されたと説明板にあります。
今は井戸枠内に石が置かれているだけです。

拝殿には、「おかげ踊り」と「聖徳太子接待」の絵馬が掛けられています。
大きな狛犬の口は赤く歯は白く塗られて、左の阿吽の吽の足には禁足紐が
3本結んでありました。
また、神社入口には水草「あざさ」の鉢がいくつか置かれています。

 道の西側の白山神社には、太子の乗馬像の写真と説明板があり、
ここにあった像が第2次大戦で供出されたそうです。今は本殿の奥に
2メートル四方位の石の台があるだけです。


        狛犬の塗りの歯白し冬隣       常朝

        (屏風の清水:矢尻の井)

        (聖徳太子接待の絵馬)

        (白山神社・太子像の説明板)



 その後、中宮寺東交差点北側の「玄米庵」で昼食をいただき、
雨模様になったのとメンバーの夕方の予定のため、矢田の「茶暮里」で
小句会後3時すぎ解散しました。

 太子道は、今日はまだその北半分以下しか通っていませんが、
地元の人々が太子と触れ合ったあとを訪ねることができました。

2011年10月23日日曜日

137.都祁城福寺、水分神社から三谷の赤いそばの花、瀧蔵神社

「アカシア紀行・俳句」2011年10月22日(土)


 一日中雨の予報の週末、いつものメンバー7人で奈良市・都祁の城福寺、
水分神社などを訪ねました。
いつもの天気女パワーで、雨雲を東へ追い出したのでしょう、夜の雨は殆ど
上がっていました。

 9時半針ICの針テラスで集合後、369号線を南下、貝が平口バス停を西へ
右折し山道を1キロほど走ると、右手の山麓に小さな石段とその上の寺が
見えます。都祁の隠れ寺ともいうべき、無住の城福寺です。

 小さな本堂と、集会所兼社務所のような建物があるだけですが、石段を登ると、
田や畑の谷の景色が見えます。
狭い境内には、銀杏がぎんなんを落し、楓が薄紅葉を見せ、山茶花がまばらな
花をつけています。

 インターネットによると、本尊は薬師如来で向かいの谷の山椒魚を飲むと、
「癌封じ」の効き目があるので、がん薬師といわれるそうです。
(へびを飲むのでなく山椒魚でした)
よく読めませんが、薬師如来を称えるような歌が本堂の壁に掛けられています。

 石段そばの大きな薄紅葉の古木には大きなうろ(洞)があり、反対側に
突き抜けていました。
障子の破れ目からカメラで如来を撮影させていただきました。

        隠れ寺洞ある巨樹の薄紅葉      常朝

        (城福寺:クリックすると拡大:以下すべて)

        (城福寺の本堂内)


 その後、369号線に戻り、都祁水分神社を訪ねました。
ここは平安時代からある水分神社で、参道も100メートル以上の立派な神社で、
奈良時代には聖武天皇が西国行幸のおり、400人の従者と寄られた頓宮(仮宮)
の地との伝承があり、参道入口北側にその石碑があります。

 本殿を参拝後、北側の山辺の御井に行きました。
御井はうっそうとした森の中の大杉の根元にある周囲8メートルほどの泉で、
伊勢斎宮の仮宮跡とも言われています。
万葉集に

   山辺の 御井を見がてり 神風の 
          伊勢処女(おとめ)ども 相見つるかも
                      (万葉集巻1-81)
 
 の歌がある御井はこことのことですが、他にも、毛原廃寺跡、鈴鹿市山辺町にも
御井とされる井戸があります。
この泉の方が神の森の中なので、御井にふさわしい気もしますが。

 その先は畑があり、茶の花が咲いて、ヘクソカズラの実や、野老(ところ)の実が
絡み付いていました。
右手には観音寺という無住寺と墓地があり、ときどき鵯の声と鵙の声が聞こえ、
鵯か鵙かわからない時もありました。
柿も実り、周囲は秋の季語だらけでした。

        杉葉敷く山辺の御井の水澄みて    常朝

        鵯の声いや鵙の声とけりつかず    常朝

        (都祁水分神社)

        (神社の説明板・拝殿右の軒)

        (山辺の御井)


 昼になったので、針テラスにもどり、カフェテリアで昼食をいただき、
再び369号線から白石交差点を西へ右折して、38号線の小夫(おぶ)の三谷
に行きました。
三谷は近年、山野草の里作りの会が自然保護などを目的に活動している山畑と
谷田の地域です。
38号線の上の郷の「三谷 山野草の里」の案内板で左折して、東南へ約1キロ、
最初の神社前の駐車場をすぎて、低い峠を越えた谷にある野草などのお店の
下の駐車場に留めました。

 山麓や畑の周囲に自然のままの遊歩道があり、田は電柵で囲まれていました。
田の上の棚田状の畑に赤いそばの花が咲いています。
赤い蕎麦の花は生まれて初めて見ました。

また「サワフタギ」の青い実や「イナカギク」「ヤクシソウ」などの花もあり、
クサヒバリがリリリリと高く鳴いていました。

        送電線下に真赤き蕎麦の花      常朝

        谷越えて鳴き交はしをり草雲雀    常朝

        (三谷:山野草の里)

        (赤い蕎麦の花)


 しばらく山野草の里を散策後、38号線に戻り、奈良精工の前を東南へ左折して、
約1キロの瀧蔵神社を訪ねました。
山桜の古木(権現桜)が崖から左へ覆っている参道を過ぎると、鐘楼があります。
昔は神宮寺(権現の寺)であったとのことです。
神社の境内は、ほぼ山頂にありますが、9年前に訪ねた時と比べ、拝殿も崖上の
本殿もずいぶん色鮮やかになっていました。
あまりにきれいすぎて、俳味がなくなったようです。
そのとき聞こえた懸巣の声もなく、静かな山の神社でした。


        秋雨に色鮮やかに崖の宮       常朝

        (瀧蔵神社の鐘楼)

        (神社の説明板)

        (瀧蔵神社本殿)


 3時半から桜井市の165号阿部交差点東の天平庵で小句会後5時頃解散
しました。
予報に反して天気にめぐまれ秋の都祁路を楽しむことができました。

2011年10月3日月曜日

136.伊賀上野城、鍵屋の辻、蓑虫庵から国分寺跡

「アカシア紀行・俳句」2011年10月2日(日)

 10月始めの秋らしい天気の日、いつものメンバー7人で伊賀上野を
訪ねました。
名阪国道(25号線)を天理から東へ約40キロ、上野ICで降りて北上し
西大手で右折、上野西小学校の北側にある駐車場から城跡を歩きました。

 上野城は城作りの名人といわれた藤堂高虎が
戦国時代織田信雄、筒井定次らが建てた城を改築した城ですが、
江戸時代は天守閣がなく、明治時代解体されたのを、昭和10年模擬天守が
建設されのちに国の史跡になったようです。

 天守に近づくと、和太鼓が聞こえてきました。
たまたま城まつりの2日目で、舞台で和太鼓の演奏中でした。
間をおいて忍者などのコスプレ行列など賑やかでした。

 我々は真っ白な天守に登らず、奥の堀端まで歩き、日本一高いという、
石垣などを見ました。鴨はまだ来ていませんでした。
母に連れられた幼子が拾った団栗を両手一杯にして見せてくれました。

        天守閣の白透きとほる天高し     常朝

        城跡の団栗両手に見せくれし     常朝

        鴨来るを待ちて静かな城の濠     常朝

        (伊賀上野 城まつり:クリックすると拡大:以下すべて)

        (城の濠と石垣)


 のち本丸北側の俳聖殿に行きました。
俳聖殿は昭和17年芭蕉生誕300年を記念して私財で建設された檜皮葺きの
2層の八角堂で、上の屋根は八角でなく、芭蕉の笠を模した丸屋根です。

 入口の芭蕉祭の句額(去年の分)を見ていたら、年配の人が出て来て、
中へ案内され、建設の由来や芭蕉の話を色々してくれました。

 芭蕉祭の代表句を数十句載せた句額は昭和21年頃からの分が、
中に掲示されています。
中央の壇には、お弟子さん達の絵から顔を復元したという伊賀焼の
芭蕉翁坐像があり、芭蕉俳句を読み込んだ歌が流れていました。


        秋深し芭蕉像聞く俳句の歌      常朝

        (俳聖殿)

        (芭蕉翁像)


 のち、城の西約700メートルの鍵屋の辻に行きました。
鍵屋の辻は有名な、荒木又右衛門と渡辺数馬の仇討ちの場所です。
辻のすぐそばの数馬茶屋に車を止めて、数馬祝い膳をいただきました。
決闘の前に食べたとされる「そば」といわし、かやくご飯
などですが、「そば」で「いわしたる」(やっつけるの関西弁)の
意味だそうで、又右衛門達が喜んだそうです。???。

 数馬茶屋は明治初期に一旦なくなった「よろずや」茶屋を、昭和51年に
名を変えて再建されたとのこと。
女将の話では、再建後は毎年芭蕉祭の頃、東京などから深夜バスなどで
俳人が来て句会をするそうです。

 女将がドナルド・キーンさんとの付き合いがあることも聞きました。
キーン氏は東北大震災後、日本帰化を決意され、9月に再来日された
文化勲章受賞の日本文学者、コロンビア大学名誉教授です。

 女将は、茶屋再建直後の芭蕉祭に、当時の永井文部大臣と伊賀を訪れた
ドナルド・キーン氏に気に入られ、今でもやりとりのあるとのことで、
再来日後の葉書を2、3枚見せてもらいました。
大臣と一緒の時は、SPが料理を毒見をしたそうです。
きっかけは茶屋で、キーン氏から芭蕉の俳句をいくつか
知っているかと聞かれ、奥の細道冒頭を暗誦したことだそうです。
芭蕉祭などで伊賀上野にきたときは、よく数馬茶屋に来られたとのこと。
その時は、携帯で途中の車の位置を聞き、着かれたとき丁度熱い料理を
出せるよう、分単位でがんばったとも。

 鍵屋が7軒長屋としてあったという通りを歩きましたが、
今は鍵職人はおらず、瓦屋がありました。

        鍵屋なき鍵屋の辻の薄紅葉      常朝

        (数馬茶屋)

        (仇討ち説明板:鍵屋の辻)


 昼食後、城の南約700メートルの蓑虫庵を訪ねました。
蓑虫庵は芭蕉の弟子「服部土芳」の住居跡で藁葺きの庵や
よく手入された庭があります。
 入園料300円を払って入ると、苔と椿、夏椿、百日紅などの庭があり
萩や彼岸花が咲いていました。
土芳の墓石や芭蕉の「よく見れば薺花咲く垣根かな」などの句碑があり
ますが、鳥の声は聞こえず静かな庭でした。
建物の中で女性が庵の説明をしてくれました。
芭蕉の教えを土芳が記述した三冊子なども展示されています。

        鳥追ひの貝殻載せて蓑虫庵     常朝

        (蓑虫庵:貝殻を載せた屋根)

        (説明板)


 蓑虫庵を出て、名阪国道に戻り、上野東ICから東約2キロの、
伊賀国分寺跡を訪ねました。
奈良時代、ここは、東側の国分尼寺(長楽山)とともに伊賀の国の
国分寺があったそうです。
9年前訪れた時と比べて、草も刈られて整備されていますが、
300メートル四方位の広大な草原があるだけで、
中門跡、金堂跡、講堂跡、塔跡などの標識が立っているだけです。
周囲の土塁跡らしい薮には、ヒヨドリバナ、芒、萩、漆紅葉、
ヌルデ紅葉、秋の野芥子などが秋の色どりを添えていました。


        礎石なき金堂跡に芒照る      常朝

        (伊賀国分寺跡)

        (説明板)



 3時半ころ名阪国道の針ICに戻り、メルカートロッソで
小句会後5時半頃解散しました。
あまり良い句はできませんでしたが、天気にめぐまれ秋の伊賀路を
楽しむことができました。

追記:2019年2月24日ドナルド・キーンさんは心不全で死去されました。96才。
朝日新聞によると、氏は1922年ニューヨーク生まれ、コロンビア大学在学中に
源氏物語に触れ、1942年米海軍日本語学校後、語学将校としてハワイ、沖縄で従軍、
日本兵の日記翻訳や捕虜の通訳をした。戦後ハーバード大、ケンブリッジ大で日本文学を
研究、1953年から京都大学留学、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などと交流
徒然草、奥の細道などを英訳、1992年コロンビア大学名誉教授、1997年日本文学の歴史発行、2008年文化勲章受賞、2011年の大震災後日本国籍取得した。