2017年6月6日火曜日

251. 奈良・丹生川上神社中社の水神祭

「アカシア紀行・俳句」2017年6月4日(日)    前へ 

  梅雨前の爽やかな日、奈良・東吉野の水神祭に参加・拝見するために、
いつものメンバー3人で丹生川上神社中社を訪ねました。(参照:アカシア紀行226

 水神祭は、神社の祭神である水神「ミズハノメ:罔象女神」に感謝、事業の発展、繁栄、
豊水を祈願する祭です。
丹生川上神社は上社、中社、下社と3つあり、中社は東吉野村の小(おむら)地区に、
上社は川上村の大滝ダムの南岸の上に、下社は下市町の丹生地区にあります。

 我々が神社に着いた9時半頃は、まだ車が2,30台程が境内に駐車していただけ
でしたすが、祭が始まる10時半頃には、約50台が境内や道路に駐車するほどでした。
参列者は礼服を着た会社員らしき人が多く、水に関連した電力会社、電機会社などのようでした。
 拝殿には200席以上の椅子が並べられ、祭壇には酒や供物が置かれており、
柱には大きな旙が掛けられていました。

 式まで時間があったので、境内を散策し、茨木和生先生や原石鼎の句碑を拝見したり、
句碑にある衝羽根の木や朴の木を見ました。
衝羽根の青葉には薄緑の十字形の苞が付いていました。
中心の花は小さくて見えませんが、秋になるとその裏側に衝羽根の実がつくのでしょう。
また境内の走り根にはけやきの若葉が数十枚付いていました、

 そのうち、神馬の白馬と黒馬が境内に来ました。白馬は男性、子馬のような黒馬は女性が手綱を引いています。黒馬は眠そうだったので、女性は黒馬に境内をぐるぐる回らせていました。

 10時半頃、拝殿の椅子は満席になり、太鼓の音で水神祭が始まりました。
拝殿左の榊の木の前に置かれたお祓台で神主と4人の神官が順次お祓いをして、
へぎ板の小桶に榊の葉を入れて拝殿へ運びました。

 楽人5人による雅楽が流れる中、式が進んで二頭の神馬が拝殿の前に並んで、
神主が水神への祝詞を上げました。その後拝殿で舞楽・納曽利(のそり)が一人の舞人に
よって奉納されたあと、参列者の玉串奉奠が続き、12時頃水神祭が終わりました。
納曽利の面は下顎が紐で吊り下げられており、すき間から舞人の目が見えていました。
舞衣装を脱いで楽人にもどると、きりりとした若者でした。

       納曽利舞ふ人は若人水神祭     常朝

       狭き空雲の流れて水神祭     常朝

        (丹生川上神社中社拝殿:クリックで拡大、以下同じ)
    (衝羽根の十字の苞)
    (祓戸の台)
    (お祓いをする神官)
    (神馬)
    (納曽利の舞人)

 解散後神社の東の「東の滝」まで歩いて、その滝壺の淵「夢淵(ゆめのわた)」を見ました。
滝は高さ5メートル位ですが、2本の滝水が岩に当たって交差する珍しい光景です。
夢淵は、神武天皇が東征の折、この淵に厳瓮(いつべ)を沈めて、天神地祇(てんじんちぎ)を敬祭せよとの天神の夢の訓(おしえ)があったことに因むようです。
直径5メートル位の淵ですが深くて底は見えません。
下流の石川原では河鹿の声が聞こえ、若者たちがバーベキューの準備をしていました。

 帰りに「魚見の石」を見ようと、社務所で教えてもらった小(おむら)集落の説明板を
見ましたが、石は夢淵の近くにあったらしいですが、標識が何度も洪水で流されて、
今はその説明板のみらしいです。

 鷲家口のレストラン「あしびき」で昼食をいただいたあと、北側約100メートルの
八幡神社の桂信子の句碑を見ました。

 八幡神社は檜皮葺の屋根と朱塗りの塀が美しい神社ですが、すべての屋根と門に
菖蒲が葺かれていました。旧暦の節句だそうです。

       滝水の切り結びをり夢の淵     常朝

       河鹿鳴く川瀬に光あふれゐて   常朝

       伊勢みちの句碑ある社菖蒲葺く  常朝

        (東の滝への橋)       
    (東の滝)
    (夢淵)
    (魚見石の説明板)
    (鷲家の八幡神社)
    (桂信子の句碑 おのづから伊勢みちとなる夏木立)
    (鷲家八幡年中行事)

 その後は来た道と同じく、166号線の佐倉峠、大宇陀町、165号線女寄峠を通って、
橿原神宮駅に戻り解散しました。
2年ぶりの東吉野村でしたが、爽やかな青葉の風に恵まれた一日でした。

2017年4月9日日曜日

250. 奈良・法隆寺の仏生会

「アカシア紀行・俳句」2017年4月8日(土)   前へ  次へ

  4月の花祭の日:お釈迦様のお誕生日をお祝いする仏生会の参加するために、
いつものメンバー3人で奈良の法隆寺を訪ねました。
仏生会は仏教の行事なので、いわゆるお花祭りとして各地のお寺で行われ、
私の子供の頃は薬缶を持って田舎の近くの寺の花祭に行き、沢山の花で屋根を飾られた
花御堂の中の誕生仏に甘茶をかけたあと、薬缶に甘茶をいただいて帰りました。
甘いものが少なかったので嬉しかったです。

 9時前、JR法隆寺駅で集合し、車で法隆寺の西側の駐車場に駐車し、
境内をゆっくり歩いて、五重塔手前の改修工事中の中門を過ぎて、聖徳太子を祀る聖霊院、
旧の宝蔵院であった綱封蔵から東側の食堂(じきどう)手前の細殿前に行きました。
右手の鏡池のほとりには、子規の句碑「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」があります。
境内の桜はほぼ満開で、これほど桜があったのかと驚きました。
昨夜の雨粒が残っている花びらは特にきれいでした。
また聖霊院の檜皮葺もまだ濡れており、それらが満開の桜にいろどられていました。

       聖霊院の桧皮濡れゐて初桜      常朝

       花びらにつく雨粒のなほ白し   常朝

        (法隆寺境内配置図:クリックで拡大、以下同じ)
    (改修工事中の中門)
    (綱封蔵)
    (鏡池)
    (子規句碑:柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺)

 まだ早かったので手前の垣は閉じられていましたが、9時半頃垣が開けられ、
細殿を通って食堂に入り、右手に30脚ほど準備された椅子に座りました。

 中央は祭壇の上に高さ2メートルほどの厨子に入られた釈迦像があり、手前の段に
和菓子、野菜、果物のお供えの脚付き皿が置かれ、下の段には
法隆寺の丸い鳳凰紋のあるテーブルクロスが掛けられ、菊、百合、金盞花、ストックなど
色々な花がぎっしり詰められた4つの大きな鉢に囲まれた灌仏皿の中に高さ30センチ位の
誕生仏が左手を高く上げて立っています。
その前には(多分)甘茶と聖水が入れらた大きな2つの鉢があります。

 10時前11人の僧と1人の尼僧が食堂正面の上げられた蔀戸(しとみど)から入り、
左手に着席され、中央の祭壇にはその内の1人の僧侶が座り、法要が始まりました。
その頃にはすでに、椅子席は満席で、後ろに数十人の参列者が立っていました。

 お経はまるで合唱のような重低音で意味などわかりませんが、厳かな感じでした。
お経の途中で何度かそれぞれの僧が散華(絵札を地面に撒く)をしました。
そのうち、僧が一人ずつ誕生仏の前に進み、甘茶を3回、聖水を1回ずつ掛けたのち、
般若心経をゆっくり唱え、法要が終わりました。

 僧侶が退出後、係の方から、参列者それぞれ、3枚ずつ散華をいただき、
案内にしたがって参列者が一人ずつ、誕生仏に甘茶と聖水を掛けてお祝いをしました。

       食堂に散華の音や仏生会       常朝

       お祝ひに洋菓子もがも仏生会   常朝

        (食堂手前の細殿)       
    (誕生仏:斑鳩町観光協会ホームページより)
    (布穀薗(ふこくえん)の旧男爵邸)

 その後、夢殿の南150メートルほどのレストラン布穀薗(ふこくえん)で竜田揚げランチなどの
昼食をいただき、12時半ころ法隆寺駅で解散しました。
ここは旧北畠男爵の屋敷で、男爵邸と呼ばれていたそうで、庭に満開の枝垂れ桜と
瓦葺きのアーチ型の門のある古い屋敷もあり、レストランは長屋門を改装したそうです。

 雨上がりで快晴ではなかったですが、暑くも寒くもなく、桜満開の法隆寺の仏生会は
静かで厳かで、他の東大寺や興福寺などの観光客の多い賑やかなお祭り気分の
花祭とは違った、落ち着いた味わいがありました。

2017年3月25日土曜日

249. 奈良・蓮長寺の彼岸会

「アカシア紀行・俳句」2017年3月23日(木)    前へ  次へ

  3月下旬のお彼岸の日、いつものメンバー3人で奈良市・蓮長寺の彼岸会に参列しました。
蓮長寺は近鉄奈良駅の西、約300メートルほどの登大路にあります。

 蓮長寺はもとは奈良時代末期東大寺の別院として建てられた喜見城院で、
鎌倉時代、日蓮上人が南都六宗研鑽のため各寺を訪ねられたとき拠点として滞在されたのち、
応仁の頃日蓮宗の寺に改宗され、寺の名も蓮長寺とされたようです。
本堂は江戸時代初期再建された重要文化財です。

 我が家の墓もここにあるため時々墓参りなどで訪ねていますが、彼岸会は初めてです。

 9時過ぎ本堂前に駐車した時はまだ車は他に一台しかありませせんでした。
お墓参りをして本堂前に戻ると、20才位の学生らしい外人女性が、本堂などを
見学しており、我々に開化天皇陵への道を聞いたので教えました。
どこからと聞くと香港とのこと。
奈良の外人観光客は多いですが、蓮長寺や開化天皇陵まで訪ねるとは、
よほど日本歴史や仏教に興味があるのでしょう。

 参列者席に座り、本堂の内陣や彼岸会の五色の幡(ばん)、並べられた400以上の塔婆、
天井の龍の図などを見ました。
10時頃には参列者席もほぼ一杯の60人位になり、ご住職と7人の僧が渡り廊下を
通って本堂に入り、法要が始まりました。
開経偈のあと、法華経2番方便品(ほうべんぼん)、12番提婆達多品(だいばだったほん)が
唱えられましたが、12番は特に楽僧の叩く鐘、太鼓や木魚がリズミカルに激しくなり迫力がありました。

       香港の女来ている彼岸寺     常朝

       天井の龍もこそ聞け彼岸経    常朝

        (本堂の龍の図:クリックで拡大、以下同じ)       
         (彼岸会の内陣)
         (彼岸会の塔婆)

 12番読経後、ご住職が合図をされたので、参列者は席を立って、それぞれ塔婆の前に進み、
置かれている焼香台で焼香し、客殿に進みました。客殿ではそれぞれに弁当と菓子(あんぱん)が
入った紙袋が渡され、殆どの人は客殿の長机でお昼をいただきましたが、
我々は失礼して、弁当を持ち帰り自宅でいただきました。
客殿入り口の間では、後継ぎで立正大学在学中のご長男とご長女が坐って参列者に挨拶していました。
お寺を辞すとき、本堂ではまだ読経は続いていました。

 彼岸にいる父母や義姉のおかげでしょうか、
やや寒いながらも周辺の梅や椿も満開で、良い天気に恵まれた彼岸の一日でした。

2017年3月11日土曜日

248. 奈良・賀名生梅林から皇居跡

「アカシア紀行・俳句」2017年3月9日(木)    前へ  次へ

  3月上旬の日差があっても寒さの残る日、いつものメンバー4人で
奈良・五條市の賀名生(あのう)梅林と皇居跡を訪ねました。

 梅林は13年前(2004年)3月8日訪ねましたが、その頃はまだあまり梅が咲いていなかったと記憶しています。

 今回は9時すぎ橿原神宮駅西口で集合し、整備されたキトラ古墳の公園を通って、
大淀町阿田を通って五條市の大川橋を南へ渡り、10時すぎ西吉野町賀名生に着きました。
阿田を通る頃、少し雨が降りましたが着く頃は雨は止んでいました。

 トンネルを抜けて川を渡ればすぐに右に登る道があり、案内版があって、
時計回りに、口の千本、見返り千本、東雲千本、奥の千本、西の千本、振り返り千本と
一周できる一方通行の道が描かれています。

 我々は、駐車のできる場所を探して、最初に見返り千本の吉本農園の茶店を訪ねました。
狭いながら5、6台の駐車があり、お店では、吊し柿、蕗の薹、生姜、ミョウガなどを
売っていたので、それぞれが買物をして、テーブルでお茶をいただきました。
梅は、5分咲き以上に咲いており、軒には三椏の花が咲いていました。

 その後、車で坂を登り西の千本の梅本農園の店に立ち寄り、草餅を買いました。
見晴らしはそのあたりが最高で、紅梅、白梅も6分咲き以上でした。
麓に降りると宮川沿いの道に多目的広場の駐車場があり、そこでよもぎの香りの
草餅をいただきました。

 広場は10台以上の駐車ができ、見上げる周囲は梅ばかりで満開に近い梅もあります。
そろそろ食堂を探しに出ようとしていたら、駐車した車から20キロ以上離れて住んでいる
弟が友人と降りてきました。
同じ日に梅見に出るのも珍しいのに、同じ時刻に同じ場所に来るとはと、互いにびっくりしました。弟達はこれから梅見に行くとのことでした。

       隧道をいくつ潜りし梅見かな   常朝

       六分咲きいや八分かと梅談義   常朝

        (茶店から見える賀名生梅林:クリックで拡大、以下同じ)       
         (賀名生梅林茶店の店台)
    (西の千本の茶店駐車場)
    (西の千本からの景色)
    (多目的広場からの梅林)

 その後、南の五條市市役所西吉野支所の手前を左折して20号線、137号線を通って
一ノ木ダムの東の百谷のレストラン「創今」で朴葉寿司定食をいただき、2時前に
賀名生皇居跡に戻りました。

 皇居跡は藁屋根の大きな民家ですが、入館は予約必要、しかも今は見学中止中で、
庭を拝見したり、そばの哲学者・神大名誉教授であった塩尻公明記念館の写真を撮ったりしました。(皇居跡の予約方法は五條市のホームページ:堀家住宅賀名生皇居跡 を参照)
門の左に白い大きな花の梅古木がありました。
賀名生歴史民俗資料館の前の道を登って五条高校賀名生分校跡や北畠親房公の墓を拝見しました。

       南朝の藁屋根ゆかし梅の花    常朝

       朴葉寿司青き蕨も載せられて   常朝

        (創今レストラン)
       
         (塩尻光明記念館)
    (賀名生皇居跡)
    (賀名生皇居跡説明板)
    (北畠親房公墓より皇居跡)
    (北畠親房公墓)


その後168号線五条・本陣から24号線で北宇智駅近くの住川交叉点を右折し、120号線、
309号線から戸毛交叉点右折で再び133号線北上、郡界橋から35号線で橿原神宮西口経由
橿原観光ホテルへ戻りケーキと紅茶などいただいて4時半頃解散しました。

 帰り道でも少し雨がちらつきましたが奈良へ着く頃は止んでおり、
弟達との奇遇と変わり易いながらもお天気に恵まれた探梅行でした。

2017年2月4日土曜日

247. 奈良・大安寺の節分会

「アカシア紀行・俳句」2017年2月3日(金)     前へ  次へ

  数日続いた寒さがやわらぎ良い天気となった節分の日、いつものメンバーの都合のつく3人で
奈良・大安寺の節分会(せつぶんえ)を訪ねました。

 大安寺は、JR奈良駅の南、約1.5キロにある真言宗の寺で、南都七大寺のひとつです。
寺の説明板によると、飛鳥時代聖徳太子が斑鳩の宮の東南に建てた、熊凝精舎
(くまごりしょうじゃ)がはじまりで、百済大寺、高市大寺、大官大寺と遷寺し、
平城遷都(710年)のときにこの地に移ったようです。
かっては七重の二塔もあり、東西300、南北500メートルほどの大寺で、東大寺、興福寺と並ぶ寺
だったとのこと。

 午後1時半すぎ、寺の南の駐車場に駐車し、広い境内に入ると、本堂左に豆撒きの舞台が見え、
右奥には背の高い大王松が長い3本の葉を持つ松葉を散らしていました。
また1962年ドイツ・ケルン大学との交流記念で植えられた楠が、立派な木に育っています。
小さな屋台がひとつ、串団子を売っていました。

 節分の豆撒きは3時からなので、2時から始まる護摩祈祷に参列しました。
本堂前の受付で、300円を納めていただいた護摩木に合格祈願など祈願文をノック式のサインペンで
記入後、受付の方に納めてから、本堂の左奥の嘶堂(いななきどう)に入りました。

 中は4間四方位の広さでまん中に護摩壇、正面に赤い不動明王像があり、河野貫主と若い僧二人
の周囲に約50人の参拝者が座りました。
まもなく、厚さ5ミリほどの折りたたみの経本が配られ、河野貫主の主導で祈祷が始まり、
懺悔の経文のあと、般若心経を繰り返し読経し、参拝者も唱和しました。
護摩壇に護摩木が井桁のように高さ40センチ位に組まれて積まれ、火をつけると、
勢い良く燃え、火の粉が天井まで届きました。

 3時前、貫主の説教のあと祈祷が終わり、本堂前に移動しました。

       護摩の火の柱赤々節分会     常朝

       天井へ護摩の火の粉や春近し   常朝

         (大安寺山門:クリックで拡大、以下同じ)       
     (大安寺本堂)
     (大王松)
     (嘶堂-いななきどう)

 本堂の縁に僧侶が立ち、舞台で貫主の豆撒きの説明と説教がありました。
豆撒きの相手の鬼は、実は身の内の鬼で、貪瞋痴(とんじんち:むさぼり、いかり、ぐち))
を、豆で追い出すのが豆撒きの意味だとのことです。

 説教後、赤鬼、青鬼が縁に現れて、貫主や他の僧から豆を投げられ、舞台に逃げますが、
なお豆を打たれて降参します。
貫主は、鬼を改心させた豆は福豆になったので、これから豆撒きをしますと言われて、
10人位の人が出て豆撒きが始まりました。

 豆は小さな透明の袋に7~10個ずつ入っており、景品の当たる袋には、
赤、青、黃の小色紙が入っているとのことでしたが、我々の拾った袋にはありませんでした。

 数分で豆撒きが終わり、ぜんざいの接待が始まりましたが、行列が30メートル以上となったので、
我々は遠慮して、お寺を辞し、近くの旧境内の御霊神社を訪ねました。
そこにある石清水の発祥の地という井戸を見て、そばの芝池の土手の梅を見ました。
紅白一本ずつですが、ほぼ七分咲きでした。
境内の水槽には15センチ位の鮒が沢山いました。
その後日航ホテルのロビー喫茶でケーキをいただき、JR奈良駅で解散しました。

       鬼やらいかわいそうとの声上がる  常朝

       大寺の池畔に紅白梅咲けり     常朝

         (河野貫主の説教)       
     (青鬼と赤鬼)
     (舞台へ出た鬼たち)
     (降参する鬼たち)
     (御霊神社)
     (御霊神社説明板)
     (石清水八幡の発祥とされる井戸)
     (鮒の沢山いる水槽)
     (紅白の梅)


 旧暦の一年の最後、立春の前の日、良い天気に恵まれ、由緒ありながらひなびた感じの
奈良の寺で、節分会を楽しむことができました。

2017年1月11日水曜日

246. 奈良・大和神社の弓始

「アカシア紀行・俳句」2017年1月4日(水)    前へ   次へ

  お正月の曇りにしては暖かい4日、いつものメンバーの都合のつく3人で
奈良・天理市の大和神社(おおやまとじんじゃ)の弓始を訪ねました。

 大和神社の弓始は以前にも見学しましたが、(アカシア紀行4)
今回は初めて中学生の射手や外人の射手を見ました。

 12時過ぎ、たまたま空いた参道入り口の駐車場に駐車し、100メートルほどの並木の参道を
西へ歩き、境内の焚き火のそばに着きました。
焚き火のそばで6、7人の女性と男性が炭火で餅を焼き、ぜんざいを参拝者にふるまっていました。

 我々も、ぜんざいをいただき、順序が逆のようですが、焚き火で温まってから、
本殿に参拝しました。
本殿の手前左手(南側)に、以前にはなかった「戦艦大和展示室」があり、
中に入ると、10坪位の広さで、1.5メートル位の戦艦大和の模型が二台と小さい模型が数台、
艦長などの軍人たちの写真も展示されていました。
もちろん、戦艦大和には大和神社の摂社が祀られていたためです。

         (大和神社参道:クリックで拡大、以下同じ)       
         (戦艦大和展示室)
         (戦艦大和模型)
         (ぜんざいを振舞う人々)

 外で、神社の絵馬や説明板などを見ていたら、参道の北側を、鎌倉時代の装束で着飾った
射手達2、30人の行列が、本殿に入り、弓始の神事が始まりました。
行列には、中学生の男女の射手、外人男性1人を含む男女の弓道連盟の射手がそれぞれ
10人ずついました。中学生は袴姿、大人の男性は烏帽子と直垂(ひたたれ)、
女性は烏帽子と水干(すいかん)の美しい衣装です。

 我々は弓場の見やすい場所に居たので、神事の様子は見えませんが、
2、30分ほどの神事のあと、全員が弓場に出て、弓場の西側に威儀を正して座りました。
弓場の周囲には50~60人位の人が集まり見学していました。
中学生の射手にひ孫がいるので見に来たというおばあさんもいました。

 マイクで弓始の開始が宣言され、弓始の儀式が始まりました。
まず、宮司が弓場に出て、2メートル四方の的布に向かって鏑矢(かぶらや)を射ました。
鏑矢は低い音で飛びましたが、マイクの説明によると、周囲の邪鬼を払うためだそうです。

       大絵馬の鶏の目強し弓始     常朝

       樹々高く鷺飛ぶ杜に弓始     常朝


         (射手の行列)       
         (中学生の行列)
         (弓の的の布)
         (居並んだ射手)

 その後神社役員の方2名の射弓のあと、青幕の前に丸い的を描いた布が貼られ、
中学生(天理南中学の弓道部員)と弓道連盟の射手による弓始が始まりました。
まず男子中学生2人ずつ横に並び、的に向かって右から順次弓を放ち、2人が終わるとまた
右から射弓を順次行います。続いて女子中学生の射弓がありました。
男女とも、1人は的のまん中の円を見事に射抜きました。

 続いて弓道連盟の女性の5名、男性の5名の射弓がありました。
5人ずつ横に並び、それぞれ順次に2回、弓を射ましたが、マイクの説明によると、
小笠原流の百手式(ももてしき)の作法によるそうです。
これも作法でしょうが、男性5名の最後の射弓は、全員わざと的を外しました。
ハンサムな外人男性の射手も堂々としていました。

 その後、射手は脱いだ手袋、地面に置いた扇子と白紙を懐に入れて、ゆっくり退場しました。
我々もその後、境内を少し拝見して、3時頃奈良へ向かいました。


       女射手は紅の水干弓始      常朝

       手袋を外すまで見し弓始     常朝

         (中学生の射弓)
         (女性の射弓)
         (男性の射弓)

 穏やかな天候のもと、由緒ある神社で古式豊かな弓始の儀式を拝見し、
新年を迎えて心が引き締まるような、正月の一日でした。
日本弓道とともに、西洋の弓道(アーチェリー)も中世の服装で奉納したら
もっと面白いかもしれません。