2011年3月22日火曜日

120.フラワーセンター、稗田環濠、大和民俗公園(大和郡山市)

「アカシア紀行・俳句」2011年3月21日(月)

 春雨の春分の日、いつものメンバー7人で大和郡山市のフラワーセンター、
稗田環濠、大和民俗公園などを訪ねました。

 フラワーセンターは大和郡山市の浄化センター公園にあります。
9時15分頃公園につくと雨のためか駐車場はがらがらでした。
浄化センター公園は近鉄橿原線のファミリー公園前駅の西側にある、
奈良県浄化センターの東側の公園です。
植物園(フラワーセンター)、プール、グランド、野球場、テニスコート、
池、梅園などもある広大公園で、以前はファミリー公園の名称でした。

 我々は雨が小止みの中、駅のすぐ西側にあるフラワーセンターに
歩きました。雪柳の咲く人工滝(水はなし)の向かいが入り口で、
温室とならぶ管理棟の横には、大きな水槽があり、
睡蓮などの鉢が浸けられメダカ、金魚がいました。
担当の人が来て、メダカは寄贈されたが、誰かが赤いヒメダカを
放流したので、純粋なメダカがいなくなると話していました。

 管理棟の北側は花時計のある花壇で、パンジー、梅、三椏、山茱萸、
猫柳、土佐水木、椿、ローズマリーなどが咲いています。
太陽電池の花時計は止まっていましたが、パンジーなどを見ていると
特急が通りました。


        花時計止まりしままに春の雨     常朝

        植物園の隅にほのかに土佐水木    常朝

       (フラワーセンター:クリックで拡大:以下すべて)
       (花時計)

       (猫柳の花)



 雨模様のなか、車で稗田環濠へ行きました。
稗田環濠はフラワーセンターの北約3キロ、郡山城の東南2キロにある、
周囲1キロほどの環濠集落で、南側に売太(めた)神社があります。
稗田は太安万侶と共に古事記を編纂したとされる稗田の阿礼の出身地で、
売太神社(賣太神社)は阿礼と猿田彦、天鈿女命を祀っています。
境内には、白い沈丁花が咲き、夏みかんの木が実をつけていました。

 境内を出て、環濠の周囲の地道を東側から歩きました。
周囲の田は鋤き起こされて畝の間には水がたまり、畦や道端には
仏の座が咲いています。
環濠の角を曲がるたびに菜の花、連翹、辛夷、木蓮などが次々
花を見せてくれました。
雲雀の声が聞こえ、雨上がりの雲に向かって上った雲雀が、誰かが
「もう落ちるよ」と言うとすぐにまっすぐ落ちてきました。


        遠山に雲湧き畦に仏の座       常朝

        もう落ちるといへば落ちたり揚雲雀  常朝

        環濠の角曲がるたび春の花      常朝

       (売太神社の拝殿)

       (稗田環濠)

       (阿礼の園)


 その後郡山市矢田の奈良高等専門学校前の「そば処御幸」で
昼食をいただき、大和民俗公園に行きました。
大和民俗公園は周囲2キロ以上の広い県立公園で、民俗博物館のほか,
民家園、梅林、菖蒲園、水車小屋、蓮池、アヒルの池などがあります。
我々は再び降りだした小雨の中、民家園の町屋地域に行き、
高取町、大和高田市などからの移転民家を見学後、民俗博物館の
雛飾り展を見学しました。
毎年、この時期は明治時代からの雛飾りや、御殿雛などを
展示されています。
博物館のあと、満開の梅林、枝垂梅などを見ました。
140本もあるという紅白の梅は見事で、紅梅の好きな鵯(ヒヨドリ)が
花をつついていました。
午後3時前公園を出て、矢田町の茶暮里で小句会後解散しました。


        落椿みなこちら向く草の土手      常朝

        紅梅のしあわせ運ぶ色なりし      常朝

       (民家園)

       (梅林)

2011年3月6日日曜日

119.磐船神社、獅子窟寺から植物園(大阪府交野市)

「アカシア紀行・俳句」2011年3月4日(金)

 晴天ながら戻り寒のひな祭りの翌日、いつものメンバー7人で
大阪府交野市の磐船神社などを訪ねました。

 磐船神社は京阪私市駅の南約2キロ、天野川渓谷にある古い神社です。
神社の境内は大きな岩に囲まれ、岩の隙間を川へ降りていく行場もあります。
案内板によると、天照大神の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)が降臨
されたとき、乗ってきた「天の磐船」をご神体として祀っています。
饒速日命は長髄彦の義兄でしたが、神武天皇に味方して長髄彦を破った
物部氏の先祖だそうです。
高さ10メートル位の磐船に接して拝殿が建てられ、別の大岩には不動明王が
彫られています。
境内は川岸にあり、大きなメタセコイアの木が房のような実を垂れていました。
澄んだ水が大岩を潜っています。
このあたりだけ大岩があるのは不思議な感じで、やはり飛んできたのでしょう。

        磐船の岩に木の影冴え返る      常朝

        磐船に兎の大絵馬春寒し       常朝

       (天の磐船:クリックで拡大:以下すべて)

       (不動明王)

       (行場への階段)


 神社を辞してから、獅子窟寺に向かいました。
獅子窟寺は役の行者が開き、弘法大師が修行したという、
大岩の窟(獅子窟)などのある、真言宗の寺です。
平安時代の国宝、薬師如来があるそうです。
寺は私市駅の北東の私市山手住宅地を抜けた山にありますが、
住宅地に入る道が少なく、何度も駅の周囲の複雑な道をうろうろして、
やっと入り口の橋を見つけました。
住宅地からはすぐ山道ですが、入り口で車は進入禁止とあったので、
建築会社の閉じられた門前に駐車して参道の山道を1キロほど登りました。
途中、亀山上皇皇后の墓にも参拝しました。
国宝があるためか、消火栓が山中のあちこちにあります。
やっと寺につくと、お寺の人から、会社の人がいつ来るかわからないので、
車を動かして下さいと云われたので、男岩、女岩(獅子窟)など、
ゆっくり拝見できずに山を降りました。
山道の途中には駐車場らしきスペースもありましたが、お寺の許可が
いるようです。

        上皇の連理の墓や春浅し       常朝

       (亀山上皇皇后の墓)

       (獅子窟寺)

       (寺の案内板)

       (五戒)


 天野が原4丁目交差点のそばの「かつ辰」で昼食をいただき、
私市駅そばの大阪市立大付属植物園にいきました。

 インターネットでは10種以上の花が見られるとのことでしたが、
寒い中、木の芽ばかりの広い植物園を探すのはたいへんでした。
大きな朴の落葉もありましたが、朴の芽はまだ枝より硬いくらいでした。
それでも椿や山茶花の花木園と梅林のさまざまな品種の梅を見ることが
できました。
豊後梅のおおきな花びらが風にふるえていました。
梅林への途中では、園丁の人からオガタマ(黄心樹)の花を
教えてもらいました。まだ七分咲き位でしたが。
梅林のそばでは、ペカンの実や、シナアブラギリの実を拾いました。
 午後3時半ころから奈良に戻り自宅で小句会後解散しました。


        坂登り黄心樹の花を覗き込む     常朝

        花びらのふるえてゐたる梅の風    常朝

       (オガタマ(黄心樹)の花)

       (梅林)

       (植物園の事務所)

2011年2月21日月曜日

118.深野、積田神社から九頭神社

「アカシア紀行・俳句」2011年2月19日(土)

 雪も止んで久しぶりの快晴の日、いつものメンバー6人で
奈良県宇陀市室生区の深野、名張市の積田神社などを訪ねました。

 深野は2008年、朝日新聞社の日本の里100選に選ばれた、日本有数の里山の
ひとつです。
近鉄大阪線三本松駅の北約2キロ、名阪国道25号線針ICの東約8キロにあります。
我々は針ICに9時頃集合し、白石交差点を左折して、残雪の山道を東へ6キロ
進んだ上笠間で右折して深野に入りました。

 深野は三方が山に囲まれた地形の大きな棚田のある集落で、ほぼ真ん中の
高台にある神明神社の4、5台分の駐車場に車を止めました。
本殿も境内も比較的小さいですが、そこから南に宇陀や名張方面の美しい山並み
が見えました。冬の夜明け前はときに「かぎろい」も見えるようです。

 神社の木立のある小さな丘には高野箒の枯れた茎と絮が沢山あり、
本殿のそばに蛭子神社の摂社があり小さな鈴がありました。
本殿右の集会所(長楽寺)の前の庭には「花橘」の蕾が沢山ついています。
青空にはうっすらとホウキ雲がかかり、飛行機雲が伸びていました。
集会所からたまたま女の人が出て、色々教えてもらいました。

 小原(峠?)地区のセカンドハウスに住んで、訪ねてきた深野が好きになって、
時々ボランテイアとして、お手伝いをしているとのことでした。
今日は林野庁の人も来て、地元とボランテイアの人たちが占地(しめじ)を
植えつけるとのことで、境内に松苗と瓶入りの占地菌が置かれていました。
6月にはササユリの花があちこちに咲くとのこと。
神明神社の秋祭りは10月で19日夜は火祭りとして各地域から松明を持って
集まるそうです。

        蛭子社の鈴音低き雨水かな      常朝

        鎮守社の木立高高雪解晴       常朝

       (神明神社:クリックで拡大:以下すべて)
       (深野の景色)


 深野から165号線へ出て名張市の積田(せきた)神社を訪ねました。
神社の由緒書によると、「つむたの宮」ともいい、767年、常陸の国の
鹿島大神(武甕槌命)が鹿島から奈良の春日大社に御遷幸の途中、留在された
霊跡で、神を乗せた白鹿の鞭の柿の枝を立てたら根がついて、今もある神柿の
大樹になったそうです。

 神社は165号線夏見交差点の東300メートル程にありますが、青蓮寺湖への道
から入った100メートルほどの参道には大きな乳垂れ銀杏もある立派な神社です。
本殿の裏側(北側)に注連縄を巻かれ、紙垂(しで)付きの縄で囲まれた
「神柿」が立っていました。(伝説通りなら樹齢1224年?)
幹が抱えられない太さの柿は生まれて始めて見ました。

 神社の森には藪椿がたくさん咲いて、つつじの苗が植えられていました。
脇を流れる名張川(供奉川)の右手上流に板橋があります。
我々は狭い道から板橋へ降りましたが、遠くに山も見える美しい谷川で、
雪解水が音立てて流れていました。

        神柿の注連新しき雨水かな      常朝

        宮川に板橋ありて雪解水       常朝

       (積田神社案内図:クリックで拡大:以下すべて)

       (やたらシッポの大きい狛犬)

       (積田神社拝殿)

       (神柿)


       (板橋)

       (名張川(供奉川))


 12時すぎ、神社から再び165号線に戻り、三本松の道の駅「宇陀路室生」の
レストラン「青葉の庄」で昼食をいただき、いただいた案内地図にある、
165号線北側の旧伊勢街道の宿場町跡を訪ねましたが、よく分からずに
通り過ぎてしまい、下笠間の九頭(くず)神社を訪ねました。

 室町時代に建てられた、水神タカオカミの神を祭る神社です。
古い石灯篭があり、大きなカヤの木や高い杉に囲まれた鎮守の森で、
石段にはパンジーと葉牡丹のプランターがありました。
その後案内地図にある永仁の磨崖仏を探しましたが、見つけることができず、
句会の場所とした針ICに戻り、イタリアン・レストラン「メルカートロッソ」
で小句会後解散しました。

       (九頭神社)

       (九頭神社の拝殿)

2011年2月4日金曜日

117.竜田大社、信貴山の節分会

「アカシア紀行・俳句」2011年2月3日(木)

 久しぶりに快晴で暖かくなった節分の日、いつものメンバー6人で
信貴山の節分会などに参拝しました。

 信貴山の節分会は夕方なので、午後3時に竜田大社で集合しましたが、
たまたま、竜田大社でも節分祭だったのでしばらく参拝しました。
境内には1.5メートル四方くらいの大きな護摩壇があり、100人くらいの人が境内
の護摩の前に行列してそれぞれ玉串をささげていました。

 竜田大社は7月の風鎮祭という風祭で有名ですが、拝殿右には高橋虫麻呂の

「山おろしの風な吹きそな 打ち越えて名に負へる杜に 風祭せな」

の万葉歌碑(万葉集1751)があります。

 玉串奉奠(ほうてん)が終わると、神官が本殿で斎火(いみび)を点火し、
蔭灯(かげとう)に入れて、護摩壇まで捧げ来て、別の神官が護摩に点火しました。
斎火は火打石で点火したとのことですが、巫女の舞や護摩に気をとられて
見落としました。
太鼓と般若心経の声の中、護摩の煙はもうもうと立ちあがり、そのうち炎が斎竹
(いみだけ)を超えるほど高く燃えました。

 参拝を終え、火が下火になった頃、拝殿の前で餅まきがあり、5,6人の男女
が100人位の人々の上に紅白の餅を撒きました。
我々も餅を数個ずつ拾うことができました。
甘酒をいただいた後、若い神官に斎火のことなどをお聞きしたあと、
信貴山に向かいました。
餅まきの終わった大社の駐車場は早くもがらすきでした。

        護摩の火の斎竹越せり節分会     常朝

        風祭る竜田の杜に春立てり      常朝

       (竜田大社節分祭の護摩:クリックで拡大:以下すべて)
       (燃えた護摩壇)


 信貴山の寺は朝護孫子寺といい、聖徳太子が蘇我氏と共に物部守屋を討った
とき、寅の年、日、時にこの山で毘沙門天が現れ加護があったので建立された
とされ、境内のあちこちに虎の像があります。

 お寺のある信貴山は生駒山系の南にある高さ430メートル程の山ですが、
お寺へは奈良側からは近鉄信貴山下駅、大阪側からは、近鉄信貴山口から
タクシーやケーブルがあります。
車では、国道25号線の三室から西へ県道236号線を約5キロです。

 我々は駐車場で500円を払って、奥の駐車場まで行きました。
山中には、本坊のほか、千手院、毘沙門堂、成福院、玉蔵院など多くの塔頭が
ありますが、大寅の像のある赤門から樹齢1500年のかやの木稲荷、成福院、
虚空蔵堂、経蔵堂をへて、本堂に登りました。
経蔵堂には回転する経厨子がありますが、子供たちが回そうと押しても動かず、
父親も入り一家総出でやっと回りました。

 本堂の前は狭いながらも高い舞台で、王寺町の街並みなどを見下ろせます。
本堂の中に入って青シートの上に座って待っていると、5時過ぎからの法要が
始まり、10人くらいの僧が太鼓と共に般若心経や観音経を上げました。
その後、豆袋を持った烏帽子狩衣姿の人が数人本堂内に入ると、本堂前の賽銭箱
を乗り越えて、青鬼、赤鬼が3、4人(?)本堂内に乱入しました。

 100人位の参拝者がいる狭い本堂内で、鬼たちに向かって、烏帽子組が豆を
打ち、大騒ぎとなりました。
私は豆を拾うのに気をとられて鬼たちの動作をよく見ませんでしたが、そのうち
毘沙門天が現れ、鬼達を本堂から追い出しました。
そのあと、お福さまという吉祥天が現れ、競って手を出す人々に福豆を配りました。
大騒ぎが終わった後、本堂の外の篝火のそばで毘沙門天やお福さまと記念写真を
撮る人たちもいました。
   
        山上の塔に陽光春立てり       常朝

        賽銭箱超えて鬼来し節分会      常朝

        本堂の鬼ともみ合ひ鬼やらひ     常朝

       (信貴山の大寅:クリックで拡大:以下すべて)

       (本堂への石段)

       (本堂の舞台より)

       (お福さま:吉祥天)

       (毘沙門天と赤鬼)


 6時すぎ、車で25号線に戻り、「さと」で夕食と小句会後8時半頃解散しました。

2011年1月15日土曜日

116.御所市吉祥草寺、子嶋寺、明日香・柏の森など

「アカシア紀行・俳句」2011年1月13日(木)

 松の内最後の日、いつものメンバー7人で奈良、御所市の
吉祥草寺、子嶋寺などを参詣しました。

吉祥草寺は、茅原(ちわら)の大とんどで有名な寺です。
634年役行者の誕生地で、舒明天皇創建、役行者が開基だそうです。
2度にわたり諸堂を消失、現在の本堂は1349年再建されたとのこと。
当時は東西4キロ、南北5キロの広大な寺だったそうです。
寺への途中城山など奈良の東の山には雪雲がかかり、
西の生駒は青空が見えていました。

国道24号線を奈良方面から南下し、御所市南の三室で右折、川沿いを
北東へ600メートル程の豊年橋を渡り、東へ1キロほどの、玉手交差点の
手前を左折すると吉祥草寺の参道で3、4台の駐車スペースが山門前に
あります。車を降りて、境内に入ると、本堂の前にすでに、
明日14日の大とんどの準備が一部できていました。

境内に、それぞれ直径1メートルほどのとんどの基礎が二つ組まれて
います。
それぞれ、太さ30センチほどの丸太が3本ずつ半分土地に埋められ、
太い藤蔓で縛られています。
この上に立てられる、高さ12尺(4Mほど)のジョウロ形の竹の大束が
そばに置かれていました。
広がった先には藁と茅(かや)の束がすでに埋めこまれています。

 住職が我々を本堂に案内し、本尊と4体の不動明王を参拝させて
くれました。
また小学校の講堂を移築した別堂に案内され、役行者や家来の鬼、
母の白専女(しらとおめ)、ここで勉学されたという弘法大師の
お像などを拝見しました。

お堂を出ると、大とんどの手伝いに来ている一人の80才位の地元の男性が、
色々説明してくれました。本堂に向かって右側が茅原地区の雌とんど、
左側が玉手地区の雄とんどだそうです。
昔、東寺田地区が雌とんどを維持できなくなったので、40年位前から
茅原地区が行うようになったとのこと。(星野さんのコメントにより一部修正)

 観音堂の縁にはまだ組まれていない茅原地区のとんどの藁が積まれ、
薬の石碑の前に沢山の青竹などが置いてありました。
役行者の産湯の井戸、腰掛け石、弁天池のほか、戦没の馬の塔や、
乳牛の碑、大椋の白龍大神の社などもあります。
筆塚には造花と生花の菊が供えてありました。


        城山に雪雲生駒は晴れてゐて     常朝

        筆塚の造花に混ぜて冬の菊      常朝

       (吉祥草寺山門:クリックで拡大:以下すべて)
       (本堂ととんど台)

       (五不動明王像)

       (とんどの写真:北谷氏寄贈)


 その後、御所市内のすし店「夢宗庵」で昼食をいただき、明日香の南、
高取町の子嶋寺に参拝しました。
子嶋寺は近鉄壺阪山駅の北東300メートルほどです。
奈良時代創建、現在は真言宗の寺ですが、国宝の両曼荼羅で有名です。
本物は国立博物館に保管され、本堂には複製の銅板がありました。
お寺の大黒さんと思われる女性が、本尊の大日如来や曼荼羅、
重要文化財の千手観音(今は博物館所蔵)などを説明してくれました。
山門は高取城の城門を移築したそうです。
庭にはすでに紅梅のつぼみが沢山ついており,山門外の冬木には
小鳥の古巣があったので取り下ろして見ました。

        香盤の灰整へて冬の寺       常朝

        山門は城門なりし梅ふふむ     常朝

       (子嶋寺山門)

       (子嶋寺本堂)

       (子嶋寺観音像)


 その後、明日香の栢の森へいき、地区で組まれたとんどを見ました。
勧請縄の雄綱、雌綱の先のやや広い谷で、左が田に所の凹みに
高さ5メートル程のとんどが組まれて先に注連縄がありました。
田の奥には猪垣があり、坂を登ると残雪がありました。

        組み上げしとんどの竹によき日差   常朝

       (柏の森のとんど)


 その後、栢の森の奥の加夜奈留美神社を参拝しました。
加夜奈留美の命は出雲の大穴持命の子女だったらしいですが、
訪れる人も少ないようで、本殿屋根に檜の実生があったり、
賽銭箱の屋根が苔むしていました。
おおきなカリンの木がありますが今は冬木です。
神社の脇の坂を登ると、棚田を見下ろす丘にでます。
九年母の実があったり、枇杷の花が咲き、土手には早くも犬ふぐりが
咲いていました。日陰の棚田には斑雪(はだらゆき)がありました。
帰りに飛鳥川勧請縄の男綱に立ち寄りました。
川には白い幣が落ちていました。

        飛鳥路の奥の棚田に斑雪      常朝

       (加夜奈留美命神社)

       (勧請縄の男綱)


3時半頃橿原に戻り橿原ロイヤルホテルの喫茶コーナーで
小句会後5時頃解散しました。

2010年12月13日月曜日

115.京田辺・一休寺から棚倉孫神社、流れ橋

「アカシア紀行・俳句」2010年12月11日(土)

 師走中旬のやや寒い日、いつものメンバー5人で京田辺の
一休寺から棚倉孫神社、流れ橋を訪ねました。

 京奈和高速道を田辺西ICで降りて、洛南の山手幹線を少し北上すると、
一休寺への案内板があり、左折すると50台くらいの駐車場があります。
10時前総門からゆるい坂を登り、拝観料500円を納めて境内に入りました。

 いただいた案内書によると、鎌倉時代建立の臨済宗の寺で、一休禅師が
康正年間(1455~)に再興、師恩に報いるために酬恩庵と命名したようです。

 受付のすぐ右手に菊の御紋のある一休禅師のお墓がありました。
一休禅師は後小松天皇の皇子といわれ、お墓は宮内省管轄とのこと。
さらに進んで右手の中門から庫裏と方丈を拝観しました。
中門わきには高いカリンの木が黄色い実をつけており、
庭には沙羅の冬木が数本赤肌を見せていました。

 庫裏は板敷で囲炉裏があり、炭火がおこされ、そばにカリンの実が
置いてあります。
方丈に渡ると広縁があり、立派な枯山水の庭に山茶花が咲いていました。
広縁のある方丈中央に一休禅師のお像が安置され、となりの部屋には
洞庭湖の描かれた襖絵が見えます。
廊下を左回りに巡って周囲の方丈庭園を拝見し庫裏に戻りました。

 のち、中門より北側(奥側)の本堂や老若の一休像、開山堂などを拝見し、
紅葉の残る回遊路を通って受付に戻りました。
ほうきを持った少年一休像は頭がテカテカに光っていました。
晩年の一休禅師をお世話した盲目の森女の遺跡などは、今回は見ることが
できませんでした。

        庭巡り戻れば強き囲炉裏の火    常朝

        一休像のまなざし強し冬紅葉    常朝

       (一休寺総門:クリックで拡大:以下すべて)

       (一休寺庫裏)

       (方丈庭園)

       (一休禅師像)


 三山木駅西のこぶや亭で昼食をいただき、22号線を戻って一休寺の
東500メートル程の棚倉孫神社(たなくらひこ)に参拝しました。
ここは秋の瑞饋神輿(ずいきみこし)で有名ですが、12月の今は、
境内社殿に神輿が置かれているだけです。
大小二つの神輿があり、いずれも屋根はずいきで葺かれており、
花や豆や麦などの作物で美しく作られた紐や壁で飾られていました。
拝殿右には山茶花の大樹が遥拝所の石碑の上にあり、痩せた狛犬に
時雨が降ってきました。
絵馬流し(絵馬掛けの台)には多くの絵馬が掛けられ、その屋根は
銅板で緑青がきれいでした。

        絵馬流しの屋根に緑青冬の杜    常朝

       (棚倉孫神社)

       (ずいき神輿(小))


さらに22号線を北上し、上津屋の流れ橋を訪れました。
流れ橋のそばには駐車場がないので、流れ橋交流プラザのある四季彩館の
駐車場に車を停めました。
四季彩館には売店やレストランもあります。
流れ橋はそこから東へ歩いて2、3分の木津川に掛かっています。
橋は木の板をつなぎ合わせたような作りで、幅2.5メートル、
長さ370メートルほどもありますが橋下の大方は枯野原です。
流れても復元しやすいように、すべての木板がワイヤーで
つながれています。
どこで、ワイヤーが留められているかと雨の中を歩いて探したら、
その端が中流のコンクリートの橋桁につながれていました。
つまり、流されると橋板はつながったまま川の真ん中の橋桁に
ぶらさがる感じになるようです。
去年10月の台風で流れた時の写真が掲示されていたので、
カメラで複写させてもらいました。

        枯野原一直線に流れ橋    常朝

       (流れ橋。手前は茶畑)

       (2009年10月台風18号で流れつつある流れ橋)

       (2009年10月台風18号で流れた流れ橋。横に長く見えるのが橋板)

      

そのうち雨は小止みになりましたが、3時頃に四季彩館から
木津川の東側を奈良方面に戻り、梅谷口の喫茶店「杏樹」で
小句会後解散しました。