2012年10月27日土曜日
160. 箸墓、国津神社から平等寺
「アカシア紀行・俳句」2012年10月25日(木) 前へ 次へ
深まる秋の好天の日、いつものメンバー7人で、奈良・桜井市の
箸墓、国津神社、平等寺などを訪ねました。
箸墓は卑弥呼の墓ではないかといわれている3世紀の前方後円墳です。
JR巻向駅から南600メートル程ですが、我々は車で国道169号線を奈良から
桜井方面へ16キロ位、箸中交差点の南の交差点を東へ左折しました。
箸墓は宮内庁の管理する王墓で、宮内庁説明板には、
倭迹迹日百襲姫命墓(やまとととひももそひめ:孝霊天皇の皇女)
太市墓と記されています。
日本書紀では大物主神の妻であった姫が、実は夫が蛇であったことに
驚き、箸で身体を突いてなくなったとされています。
王墓の南側に車を留めて、拝所の周囲や北側の池の土手を散策しました。
細い参道から拝所をすぎると、左手に高さ10メートル以上の金木犀の森が
あり、細道や溝に赤い花粒がこぼれています。
途中の土手には黄色い烏瓜、蓼、溝蕎麦、姫女苑、野菊、秋の野芥子など
が咲き、黄色い蝶が飛んでいました。
姿は見えませんが古墳の杜では鵯(ひよどり)などが騒いでいます。
土手を上がると、大きな池の岸辺に稚金魚が寄っており、
防鳥の粗いネットが張られていました。
金魚養殖の人でしょうか、2人が草を刈って軽四輪に積んで帰りました。
木犀を見上ぐ卑弥呼の墓と云ふ 常朝
箸墓に卑弥呼の霊か秋の蝶 常朝
(箸墓:クリックで拡大:以下同じ)
(箸墓の説明板)
(金木犀の森)
(稚金魚)
その後箸墓から500メートル程東の国津(くにつ)神社を訪ねました。
国津神社は地元の鎮守で、天忍穂耳尊、天穂日命などを祀って
いるとのことです。
拝殿の左には神輿蔵があり、格子戸からあまり元気のないかまきりが
出てきて、土間にはこおろぎがいました。
参拝後、本殿の裏手に回ると、高い木にからまる蔓から烏瓜が下がり、
土手の草葎に雀瓜が薄緑の実をつけていました。
神山の藪の日差に雀瓜 常朝
(国津神社拝殿)
(神輿蔵)
(本殿裏の雀瓜)
さらに北東の裏手は初期の前方後円墳といわれる「ホケノ山古墳」です。
被葬者は不明ですが伝説では、崇神天皇の皇女、豊鋤入姫の墓とされて
いるようです。歩いて行けますが駐車場もあるので車で移動しました。
右手前方部は公園のように整備され、四阿(あずまや)があり、
そばに大きな銀杏と、渋柿の木が沢山の柿をつけています。
後円部は径60メートルほどの低い穂草の丘で、登ると奈良盆地が
ほとんど見渡せるほど広々としていました。
後円部のふもとに巾40センチほどの木棺の複製が埋められています。
豊鋤入姫(とよすきいりひめ)はこんな華奢な人だったのでしょうか。
古墳の丘何もなくて穂草原 常朝
(ホケノ山古墳)
(復元の木棺)
(説明板)
箸墓の近くのそうめんの山本で昼食をいただき、
JR三輪駅の東500メートルほどの平等寺を訪ねました。
平等寺は三輪山の西南のふもとにある曹洞宗の寺で
説明板によると、581年聖徳太子が賊徒平定を三輪明神に祈願して、
平定後十一面観音を彫み建立したとのこと。
江戸時代は修験の道場だったためでしょう、修験の滝があります。
明治の廃仏毀釈で廃寺となり、昭和52年再興されたとのことで、
本堂、釈迦堂(二重塔)、不動堂、聖徳太子像、鐘楼、庫裏(事務所)
、羅漢像、熱とり地蔵などがあります。
境内では、見えませんが滝の音に混じり、鳥の声が聞こえる静かな
山麓の寺です。
庫裏の玄関に猫が2匹、一匹は住職の下駄の上で猫が眠っていました。
堂縁に眠り猫ゐて秋麗 常朝
(平等寺)
(平等寺境内)
(平等寺十一面観音)
(平等寺羅漢像)
(平等寺の猫二匹)
その後、南の中和幹線を東へ走り、長谷の手前、桜井東中学校の北を左折、
巻向山の北の竜王池を訪ねようとしましたが、白河集落から池への道に迷った
ので今回はあきらめて、山を降りました。
桜井・阿部交差点西の天平庵で小句会後5時すぎ解散しました。
山中の池は見れなかったですが、古代大和の中心地、巻向(纒向)の
秋をゆっくり楽しめた吟行でした。
ラベル:
吟行案内
2012年10月6日土曜日
159. 都祁の金龍寺、青龍寺、葛神社から山口神社
「アカシア紀行・俳句」2012年10月5日(金) 次へ
秋のさわやかな快晴の日、いつものメンバー7人で、奈良・都祁の金龍寺
などを訪ねました。
金龍寺は名阪国道・針インターチェンジの北約2キロほどの、
山腹にある華厳宗(東大寺末)のお寺です。
我々は9時過ぎ針インターチェンジの針テラスで集合し、車で訪ねました。
369号線から川沿いの路を東へ100メートル程で左の急坂をしばらく登ると
お寺の北東側の駐車場に着きました。
本堂を参拝後境内を散策していると、
住職が出てこられ、本堂を開けて、中へ案内され、
お寺の由来などを聞かせていただきました。
室町時代武将で画家であった山田道安が建立した寺とのことです。
本堂にあった聖観音像は飛鳥時代のもので、国宝とされ国立博物館に
保管されていますが、寺が飛鳥時代でないので今は重要文化財とのこと。
花好きの住職で、境内に育てた木や草の話を、30分以上されました。
その後庭へ降りて、木や草の名や育て方などをお聞きしました。
入ったすぐの不動堂の右にある隠沼のような池に山からの清水が流れ、
小さな水馬が泳いで、周囲に柴栗が落ちていました。
水芭蕉(葉)、ギンセンカ(コウホネの仲間)が水中にあり、
庭のカンアオイの上に金木犀が咲き、山椒が赤い実を沢山つけていました。
庭には、大山蓮華の赤い実、ホトトギス(白の原種)、サクラソウ、
葉だけですがヤブレガサ、フタリシズカ、シチダンカ、スズラン、クロエビネ、
ダイモンジソウ、シラユキゲシ、クマガイソウ、キチジョウソウ、
クリンソウ、ギンセンカ、テンナンショウ(浦島草)、セッコクなどが、
あり、東の崖付近には秋明菊、オトコエシ、アキノキリンソウ、
釣鐘人参、野菊が花をつけていました。
その後不動堂の右奥の坂を登り、杉の大樹の根元に挟まれた
磨崖仏を拝見しました。山田道安が彫った線刻仏らしいです。
隠沼の木陰に秋の水馬 常朝
育て方住職に聞く男郎花 常朝
(金龍寺:クリックで拡大:以下同じ)
(金龍寺本堂内:正面写真が聖観音)
(大山蓮華の実)
針テラスに戻り、メルカートロッソで昼食後、都祁の南の藺生(いお)
地区の青龍寺を訪ねました。
安楽寺の南のカーブを西へ200メートルで南下してすぐです。
青龍寺は、藺生城主藤井氏の菩提寺であったという真言宗の寺ですが、
今は無住で藁葺き屋根の本堂と集会所があるだけです。
本堂の裏は墓地で穴惑いの黒蛇がするりと消えました。
狭い道からの参道左に石仏のお堂と庚申堂があり、庚申堂には
石の青面金剛像、近くには寄せ仏の小山、宝篋印塔があります。
短い参道脇に柿の木がまだ青い実をつけていました。
藁葺の本堂下へ穴惑 常朝
穴惑思いのほかの早さかな 常朝
(青龍寺)
(青龍寺裏側より)
(青龍寺石仏)
お寺の前の道を南へ200メートル程進むと池があり、その南側の
葛神社を訪ねました。
葛神社は、室町時代に領主小田氏が建てたとされる出雲建雄神、
菅原道真公、豊玉姫命を祀る神社です。
説明板によると、昔は九頭(くず)大明神と呼ばれ、
1524年(大永4年)社殿が建てられ、以前の形式の祭礼が行われたとのこと。
境内入口の大樫の木から結界の勧請縄が掛けられ、
結界をこえると、ノシメトンボが手の甲に止まりにきました。
砂利を引いた境内では別のメンバーの人の指先に蜻蛉が2度も止まりました。
境内右手には小さな池があり、松藻虫と水馬が数匹泳いでいました。
周囲の刈田には電柵が張られ、赤とんぼ、ノシメトンボ、塩辛とんぼが
飛び、畦には蓼の花、ミゾソバが咲いていました。
右手の山に少し入ると、氷室の跡として大きな窪みがあり、
落葉が溜まっていました。
また神社左手の大池の土手には露草が青く咲いていました。
勧請縄半分日差す秋の杜 常朝
露草に水音絶えぬ神の池 常朝
(葛神社の池)
(葛神社説明板)
(葛神社)
(氷室説明板 搖丁:臨時職員)
(ノシメトンボ)
その後、東500メートル程の、都祁山口神社を訪ねました。
奈良時代から都祁の山霊、大山祇神と大国主命を祀る、都祁氏の氏神です。
説明板によると、ここにあった水分神社が平安時代に北の今の
都祁水分神社に移されたそうです。
石段を登って参道を進むと長屋門のような門があり、内側の壁に
龍の絵が掛けられ、境内左手の青い網囲いのある池には緋鯉が
いました。右手にも池があり、そこから神社の背後の山へ走り根の道を
200メートルほど登ると、石の鳥井の奥に巾3メートル以上ある巨石
(御社尾の磐座)があります。本殿の前には朱塗りの格子の囲いが
あり、境内右に社務所があります。
時々鵯の声があるほかは静かで、池面に秋の日が映ってまぶしく
池の濁りを隠していました。
走り根の奥に霊石鵯の声 常朝
神の池濁り隠して秋日映ゆ 常朝
(都祁山口神社)
(都祁山口神社説明板)
(都祁山口神社の池)
(都祁山口神社御社尾の磐座)
その後針テラスのメルカートロッソで小句会後5時ころ解散しました。
静かでのんびりとした都祁の秋を楽しめたさわやかな一日でした。
ラベル:
吟行案内
2012年9月23日日曜日
158. 毛原廃寺跡から笠間街道・竜王淵
「アカシア紀行・俳句」2012年9月22日(土)
やっと朝晩涼しくなった秋の彼岸の中日、いつものメンバー6人で、
奈良・毛原廃寺跡から宇陀市の笠間街道・竜王淵を訪ねました。
毛原廃寺跡は山辺郡山添村毛原地区にある、奈良時代の大きな寺の
跡ですが、金堂、中門、西塔、南門の礎石だけが残っています。
電車では、名張駅から毛原行きのバスがあるようですが、
我々は9時過ぎ針テラスで集合し、車で訪ねました。
車では、名阪国道小倉ICを降り、25号線を北東4キロ程の
万葉ゴルフ場の中を東へ通り抜けて、さらに4キロ程東です。
県道782号線から右へ降りる狭い道を70メートルほど降りて、
廃屋前の空地に駐車しました。
背の高い草の陰に彼岸花がさいていました。
少し坂を北へ登ると、南門跡の大きな礎石が数個あり、
その北側で男性が一人、青柿の木のそばの大きなキーウイの蔓を払い、
下草を刈っていました。
訊ねると、勝手に生えた木で実がならないとのこと。
すぐ東の土に隠れた中門の礎石を見せてくれました。
中門跡も、南門跡もその家の畑地とのこと、
10年前訪ねたとき話を聞いたご老人のお家の人のようでした。
寺跡を守るため年に数回草を刈っているそうです。
礎石のそばには桔梗が植えられ、西側の猪垣の中には、
女郎花、秋明菊などが咲いています。
さらに北側の金堂跡は礎石が30個程と多く、南側に小さな稲荷神社と、
説明板、奥に山辺の御井(井戸)がありました。
(ほかにも都祁の水分神社、鈴鹿市山辺町にも御井とされる井戸あり)
金堂跡周囲には3つほどの小さな堀(2,3メートル四方の池)が
石垣に囲まれており、蛙が泳ぎ、赤とんぼがいました。
また、金堂跡には大きな夏みかんの木が大きな去年の実と、
まだ少し小さい今年の青実をつけていました。
南門のさらに南の岩に彫られた六地蔵を見てから、
笠間街道へ出発しました。六地蔵は室町時代とのことなので、
早くてもその頃までお寺があったのでしょう。
西塔跡があっても東塔跡がない、古文書に寺の記述がない、など、
謎の多い寺跡に、山の秋が降りて来ていました。
廃寺跡草に隠れて彼岸花 常朝
(毛原廃寺跡、稲荷神社:クリックで拡大:以下同じ)
(毛原廃寺説明板)
(毛原廃寺説明板:配置図)
(山辺の御井)
(山辺の御井説明板)
(六地蔵)
(六地蔵説明板)
(南門の石碑)
毛原廃寺跡から南3キロで上笠間ですが、そこから東へ5キロの
染田地区にある、染田天神(春日神社、十輪院と同じ境内)を
訪ねました。中世に連歌が行われた連歌堂の跡とのことです。
一人の男性が境内を掃除しており、聞くと、当番で数人ずつ
境内を掃除しているのですが今日は一人だけとのこと。
同じ俳句結社「運河」の先輩(女性)がすぐ近くに住まれ、
俳句の指導を受けているとのことでした。
当時近くに多田城があり、周辺の豪族などがこの社に集まる理由の
一つに連歌会も行われたのだろうとのことです。
天神社は檜皮葺きだったの銅板葺きにされており、大きな杉の木立の
下で、屋根が秋の日に輝いていました。
連歌堂銅葺き新た天高し 常朝
(染田の春日神社)
(染田天神)
(染田天神説明板)
(十輪院)
その後、笠間街道を4キロほど南下して、向渕で右折(西へ)
1.5キロほどの竜王淵を訪ねました。
竜王淵は昔女の人が北東にあった飯降淵(いぶりふち)でおむつを
洗ったので、神が怒り、淵を沼に変え、この地に淵を移したとのこと。
この淵で乙女が二人水浴していたのを向渕の役人、藤原時廉(ときかど)
が見て、天女の衣を手にとりあらわれたので、乙女らが驚いて、
靴を脱いだまま飛び去ったので、靴ぬぎ池と言われたそうです。
竜王淵のすぐ西南の堀越神社の駐車場に車を止め、そばの浮御堂のような
四阿から見ると、三方を山に囲まれ、きれいな水をたたえた神秘的な湖です。
説明板によると、東西150、南北100メートルの大きさで、
「堀越神社は龍王ヶ渕の西側にあり、豊玉姫命を祀り、本殿内の御神体は
桶の中に収めた石で旱魃の時には向渕の農民をはじめ、近村からも
祈雨の願いを込めてお詣りし、今でも雨乞いをする時には龍王ヶ渕周囲を
たいまつを持って「雨ヲタマワレ→タマワレ→タンブリ、タンブリ」と
いって回ります。」 とのこと。
水面には菱の葉が浮き、小さな白い菱の花が点々と咲き、
一部は紅葉していました。
淵の上をとんぼが飛び、岸辺には糸とんぼ、赤とんぼがいました。
岸辺の水中にバレーボール大の硬いゼリー状の塊がいくつか沈んでいます。
気味の悪い物体ですが蛙の卵かもしれません。
(あとで調べていただいたら、寒天状のかたまり(虫室)につく1.5ミリほどの
虫「オオマリコケムシ」の集まりとのこと:北アメリカ原産)
堀越神社にもいきましたが、小さな社で、岸に短い桟橋がありました。
鯉跳ねし水輪に揺れず菱紅葉 常朝
竜王の淵に映して蜻蛉飛ぶ 常朝
(竜王淵)
(竜王淵の四阿)
(堀越神社)
飯降薬師や穴薬師も拝見するつもりでしたが、お腹がすいてきたので、
南約2キロの緑川交差点を東へ4キロほどの三本松「道の駅-室生宇陀路」で
遅い昼食をいただき、桜井の天平庵に移動、小句会後5時前解散しました。
夕方から曇ってきましたが、お天気に恵まれた吟行でした。
ラベル:
吟行案内
2012年9月15日土曜日
157. 高鴨神社から阿田峰神社・梨園
「アカシア紀行・俳句」2012年9月7日(金)
まだ暑い9月の白露の日、いつものメンバー6人で、奈良・御所市の
高鴨神社から五條市大野新田町の阿田峰を訪ねました。
高鴨神社は金剛山のふもと、御所市鳴神にある鴨一族の先祖、
阿治須岐詫彦根命(あじすきたかひこねのみこと)ほかを祀る神社で、
京都の加茂大社など全国の鴨神社の総本山とされています。
車では、南阪奈道の葛城IC東の太田南交差点から山麓道(30号線)を、
南へ約8キロです。
11時前に神社に集合し参拝後、木々のうっそうとした境内を
散策しました。
本殿への石段の右には、右城暮石先生の句碑
天の神地の神々に植田澄む 暮石
が昭和54年9月の銘で立ち、台座は苔におおわれていました。
本殿手前左の池には、山からの水が音立てて流れ落ち、浮舞台が新しく
作られ、菱の葉が浮き、ところどころ白い花が咲いています。
菱の葉の上のみをトンボが往復していました。
本殿右手には東殿、左手奥には西殿があり、法師蝉が鳴いていました。
5月には境内右手に500種2000鉢以上といわれる桜草が展示されますが、
いまは、菖蒲の鉢が数十並んでいました。
神社の左手には「葛城の道・歴史文化館」があり、
受付に一人の男性職員がおられ、どこからと聞かれました。
館内は狭いですが、弥生時代の土器などが展示され、葛城の道の
写真つきの案内板がいくつか掲示されています。
葛城の水落つ池に薄紅葉 常朝
(高鴨神社:クリックで拡大:以下同じ)
(右城暮石句碑)
(神社の池と浮舞台)
(歴史文化館)
309号線名柄の東の「わだきん」で昼食をいただいたあと、
国道24号線を南へ5キロほどの居伝町を左折、工業団地を抜けて、
阿田峰へ行きました。
阿田峰は、梨園のほか、戦時中は海軍の大和第二飛行場があった所で、
今は、草原やクヌギなどの雑木林となって、滑走路の跡は道路です。
飛行場跡の北に阿田峰神社があり、小さな社と右手に以前なかった
集会所のような建物がありました。
境内には大きな岩の万葉歌碑(2096)
真葛原靡く秋風吹くごとに阿太(あだ)の大野の萩が花散る
があり、歌のように涼しい山風に萩の花が揺れ続いています。
まだ萩は散っていませんが。
神社の西側はワルナスビ(外来種)の白い花が群生しています。
近くのクヌギの木には兜虫の雌や黄金虫、草原には馬追などが
いました。
飛行場跡の萩原揺れやまず 常朝
(阿田峰神社)
(万葉歌碑:真葛原靡く秋風吹くごとに・・・・)
(ワルナスビの原)
(兜虫の雌)
その後、神社の東約1.3キロにある大淀町の梨園の直売店・明生園を
訪ねて、梨を買いました。
まだ二十世紀梨は早いですが、幸水や豊水はお店にありました。
梨園の主は私の子供の頃、夏休みで母の実家へ帰った時など、
よく訪ねた親戚の梨農家です。
またその跡継ぎのご長男が裏の梨小屋で忙しそうにしていました。
また梨園の一部を囲む青い網は猿よけだそうです。
昔母から聞いた、前の戦争中、飛行兵の山中行軍訓練で梨山の家を
訪ねた一人が、叔母を気に入って、その後実家の上を飛行機で旋回
した話などを、あらためて聞きました。
この話は以前テレビで放映されたとのことですが、話がテレビ用に
脚色されたので、叔母は大変嫌がったそうです。
飛行兵は翼の付け根のすき間から、マフラーを振ったそうです。
夏でも上空は寒いので飛行兵はいつもマフラーをつけたそうです。
当時の練習機は木製で、プロペラを起動するための車があり、
それに乗せてもらって飛行場へいったとのこと。
梨山の近くの家が20人位の飛行兵の宿舎となり、炊事兵が毎日、
山から西の谷へ降り、水を汲んで上がったとのことです。
猿よけの網青青と梨の園 常朝
(梨園直売店:左3人はマネキン)
その後橿原観光ホテルで小句会後解散しました。
ホテルに着いてから降りだした雨が小止みになるまで、
しばらくロビーで待ちました。
夕方から白露らしい気温になったようです。
まだ暑い9月の白露の日、いつものメンバー6人で、奈良・御所市の
高鴨神社から五條市大野新田町の阿田峰を訪ねました。
高鴨神社は金剛山のふもと、御所市鳴神にある鴨一族の先祖、
阿治須岐詫彦根命(あじすきたかひこねのみこと)ほかを祀る神社で、
京都の加茂大社など全国の鴨神社の総本山とされています。
車では、南阪奈道の葛城IC東の太田南交差点から山麓道(30号線)を、
南へ約8キロです。
11時前に神社に集合し参拝後、木々のうっそうとした境内を
散策しました。
本殿への石段の右には、右城暮石先生の句碑
天の神地の神々に植田澄む 暮石
が昭和54年9月の銘で立ち、台座は苔におおわれていました。
本殿手前左の池には、山からの水が音立てて流れ落ち、浮舞台が新しく
作られ、菱の葉が浮き、ところどころ白い花が咲いています。
菱の葉の上のみをトンボが往復していました。
本殿右手には東殿、左手奥には西殿があり、法師蝉が鳴いていました。
5月には境内右手に500種2000鉢以上といわれる桜草が展示されますが、
いまは、菖蒲の鉢が数十並んでいました。
神社の左手には「葛城の道・歴史文化館」があり、
受付に一人の男性職員がおられ、どこからと聞かれました。
館内は狭いですが、弥生時代の土器などが展示され、葛城の道の
写真つきの案内板がいくつか掲示されています。
葛城の水落つ池に薄紅葉 常朝
(高鴨神社:クリックで拡大:以下同じ)
(右城暮石句碑)
(神社の池と浮舞台)
(歴史文化館)
309号線名柄の東の「わだきん」で昼食をいただいたあと、
国道24号線を南へ5キロほどの居伝町を左折、工業団地を抜けて、
阿田峰へ行きました。
阿田峰は、梨園のほか、戦時中は海軍の大和第二飛行場があった所で、
今は、草原やクヌギなどの雑木林となって、滑走路の跡は道路です。
飛行場跡の北に阿田峰神社があり、小さな社と右手に以前なかった
集会所のような建物がありました。
境内には大きな岩の万葉歌碑(2096)
真葛原靡く秋風吹くごとに阿太(あだ)の大野の萩が花散る
があり、歌のように涼しい山風に萩の花が揺れ続いています。
まだ萩は散っていませんが。
神社の西側はワルナスビ(外来種)の白い花が群生しています。
近くのクヌギの木には兜虫の雌や黄金虫、草原には馬追などが
いました。
飛行場跡の萩原揺れやまず 常朝
(阿田峰神社)
(万葉歌碑:真葛原靡く秋風吹くごとに・・・・)
(ワルナスビの原)
(兜虫の雌)
その後、神社の東約1.3キロにある大淀町の梨園の直売店・明生園を
訪ねて、梨を買いました。
まだ二十世紀梨は早いですが、幸水や豊水はお店にありました。
梨園の主は私の子供の頃、夏休みで母の実家へ帰った時など、
よく訪ねた親戚の梨農家です。
またその跡継ぎのご長男が裏の梨小屋で忙しそうにしていました。
また梨園の一部を囲む青い網は猿よけだそうです。
昔母から聞いた、前の戦争中、飛行兵の山中行軍訓練で梨山の家を
訪ねた一人が、叔母を気に入って、その後実家の上を飛行機で旋回
した話などを、あらためて聞きました。
この話は以前テレビで放映されたとのことですが、話がテレビ用に
脚色されたので、叔母は大変嫌がったそうです。
飛行兵は翼の付け根のすき間から、マフラーを振ったそうです。
夏でも上空は寒いので飛行兵はいつもマフラーをつけたそうです。
当時の練習機は木製で、プロペラを起動するための車があり、
それに乗せてもらって飛行場へいったとのこと。
梨山の近くの家が20人位の飛行兵の宿舎となり、炊事兵が毎日、
山から西の谷へ降り、水を汲んで上がったとのことです。
猿よけの網青青と梨の園 常朝
(梨園直売店:左3人はマネキン)
その後橿原観光ホテルで小句会後解散しました。
ホテルに着いてから降りだした雨が小止みになるまで、
しばらくロビーで待ちました。
夕方から白露らしい気温になったようです。
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