2008年2月23日土曜日

55.奈良・押熊王子旧跡から、押熊観音、常光寺

「アカシア紀行・俳句」2008年2月22日(金)


 2月にしては暖かい日、妻、妻の友人、義兄姉らと奈良・押熊王子旧跡を訪ねました。
この旧跡は、奈良市・西大寺の北約3キロの押熊地区内のミドリ電化の西約500
メートル、押熊八幡社の北東約100メートルくらいの低い丘の上にあります。
押熊地区は昔は農村地帯でしたが今は奈良市の外環状道路「ならやま通り」
にある大きなショッピングセンター街になっており、その交差点の南西側に旧道と
住宅地があって、古くからの神社やお寺が残っています。
我々が10時半ころ着くと、農家の主婦がひとり、旧跡のすぐ下(南側)の畑で
ジャガイモを植えたりしていました。

押熊王子旧跡は、正しくは、忍熊王子・麛坂(カゴサカ)王子旧跡です。
案内板には、日本書紀の仲哀天皇の時代の話が書かれています。
それによると、忍熊王子と麛坂王子は、仲哀天皇と大中姫のお子達でしたが、
仲哀天皇がなくなったあと、その皇后であった神功皇后との間にできた
のちの応神天皇との後継争いの戦争で、兄の麛坂王子は今の大阪市北区で、
弟の忍熊王子は琵琶湖の瀬田の渡しでなくなったとのことです。
戦いは、神功皇后が新羅遠征後、九州で生まれた皇子、応神天皇を擁した皇后軍
と、迎え撃つ両王子軍との間で、今の大阪や山城地域であって両皇子の死で
終ったようです。
土地の人々はこの伝承(?)を大切に、皇子の墓としてこの地を守り、
今でも毎年4月18日はお祭をして農作業を休むそうです。
旧跡はコンクリートブロックの壁と、うっそうとした木々に囲まれた小さい丘に
小さい石の祠があり、そこに2枚の石の板がはめられており、
その左に小さい五輪の塔(実は4層)があるだけで正規のお墓ではないようです。
反乱軍とされた王子は皇子でありながら当然大きな墓は作られなかったの
でしょう。
左側からは竹薮が押し寄せており、土手には青草がありました。
南側に大きな、周囲2.6メートル、樹齢2、300年と思われる山桜の古木があり
幹には苔がびっしりでした。
畑に根が伸びているので、畑の北側は土手のままにしているとのことでした。
そのうち、主婦のお孫さんの2才位の、かわいい女の子が母親と畑にきて、
畑に水をやろうとしたり、あちこち歩き回りました。
主婦らと話をして帰るとき猫車に置いてあった大きな大根を数本いただきました。

 その後、近くの願心寺という押熊観音、さらに右奥の常光寺を訪れました。
押熊観音は高さ3メートル以上の金ぴかの観音像で境内も狭く、私には俳句は
できませんでした。
常光寺は広い境内をもつ立派な寺ですが、明治時代の廃仏稀釈運動で一旦廃寺
となり、私学校(小学校)となったあと、再建されたので今も本堂は民家と
同じような仮堂です。
参道の右は寺庭で伸び放題の梅の木が10本位あり、2、3本は白い花をつけていました。
梅の影が草原に落ちていましたが、弱い日差のためか、枝先の影は草に紛れて
消えていました。虫害でしょうか、花をつけた枇杷の木が2本倒れていました。
由緒書きなどをいただこうと声をかけましたが、お寺は留守でした。

参道脇には三椏(みつまた)の木が2本、まだ白い花をつけており、
蜜柑の木が一本沢山実をつけていました。
多分小鳥の餌に、その蜜柑の実を半分に切って、あちこちの木々の枝に挿してありました。


         山桜の苔に日当たる雨水かな   常朝

         半分は竹薮なれど山芽吹く    常朝

         枝の影草に紛れて梅白し     常朝


        (忍熊王子・麛坂王子旧跡)

        (常光寺の池)

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