「アカシア紀行・俳句」2005年5月9日(月)
青葉の風のやさしい日、奈良県御所市の葛城山麓にある葛城王宮跡を訪ねました。
ここは御所市南郷にある極楽寺の東700メートルくらいの山の中腹です。
極楽寺の下を通る葛城山麓線(道路)の東へなだらかな畑の道を歩いて下りました。
ここは約1600年昔、当時の大豪族であった葛城氏の宮殿の跡とされ、
極楽寺ヒビキ遺跡と名づけられています。(朝日新聞2005年2月22日の記事参考)
葛城氏は仁徳天皇の后であった磐之媛の実家です。
浮気をした仁徳天皇に怒り、難波の宮を出て、京田辺市の同志社大学付近に
あったとされる筒城の宮(当時の離宮)に生涯棲み、葛城の実家をしのんで詠った歌、
つぎねふ 山背河(やましろかわ)を 宮のぼり 我が登れば 青丹よし
那羅(なら)をすぎ 小楯倭(おだてやまと)をすぎ
我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり
は日本書紀に残っています。
ほこり高い后が、難波にも帰らず、実家にも帰らずひとり離宮ですごされた日々は
どのような日々であったでしょうか。
遺跡には堀の跡があったらしいですが今は写真のように埋めもどされています。
土手には濃い紫のあざみが咲き、急勾配の畑の豌豆などを見ていたら突然、
雉が「ケーン」と鳴きました。
葛城の后の里の薊かな 常朝
葛城の水走る畑雉鳴けり 常朝
(葛城王宮跡)
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