2008年1月14日月曜日

13.天理市 布留の滝

「アカシア紀行・俳句」2005年5月21日(土)



 青葉の頃、奈良県天理市の石上神宮に参拝し、山路に入り布留(ふる)の滝から
白河池まで歩きました。
ここ布留の滝あたりは、その昔、影媛(かげひめ)が通った道とのことです。

 日本書紀によると、武烈天皇がまだ皇太子であったころ、
平群の豪族の息子「しび(鮪)」の恋人であった物部氏の姫「影姫」が、
海柘榴市(つばいち、当時の市場)にあった歌垣(恋の歌を交わす場所)にいたとき、皇太子が彼女に言い寄り、それをさえぎった「しび」をうらんで、後に兵を興し、
「しび」を平城山で殺した。それを知った影姫は、石上から平城山まで、泣きながら
歩いて彼を弔ったという、つぎのような歌が残されています。(字句の一部省略)

  石の上 布留を過ぎて、高橋過ぎ、大宅過ぎ、春日を過ぎ、
  小佐保を過ぎ、玉笥(たまけ)には飯(いひ)さへ盛り、水さへ盛り、
  泣きそぼちゆくも 影姫あはれ

 影姫が通ったであろう道をあるくと、布留の高橋(写真)があり、
その下はやや深い谷で、高さ5メートルほどの滝がありました。
木の根をつかんで谷に降り、しばらく滝を見上げていました。
       
       

        影媛の涙に見しや布留の滝       常朝



注:武烈天皇は、日本書紀によるとローマ帝国のネロ皇帝のような悪逆な人だったらしい。
もっとも、日本書紀は奈良時代の天皇家や藤原家の正統性を強調するため、ひどい天皇で雄略天皇以降の血筋が途絶えたことをいいたかったため、悪逆さを誇張したのだろうともいわれています。


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